ジョイス・キャロル・オーツは、どんなイメージをもって受け止められているのでしょう。

 作品の幅があまりにも広く、つかみどころがない印象もありますが、ある種の極北である『生ける屍』(井伊順彦訳)などというすさまじい作品を翻訳出版した身としては、かなりきびしい、こわい人という感じがします。

 夫レイモンド・スミスとともに、文芸誌 Ontario Review(このタイトルは、カナダに住んでいた時期に創刊したため)を出版していることでも有名ですね。

 じつは、そのレイ・スミス氏は 2008年に亡くなり、雑誌も休刊してしまったのです。まったく知りませんでした。

 その経緯を書いたエッセイ「I Am Sorry to Inform You」が、雑誌 The Atlantic に掲載されました。

http://www.theatlantic.com/magazine/archive/2010/04/i-am-sorry-to-inform-you/8042/1/?

 現在、プリンストン大学で教鞭を執る彼女は、こんなふうに筆を起こします。

「ジョイス・キャロル・オーツ」という人間は実在するわけではなく(ペンネームなので)、作家としての人生は偽りのものである。しかし大学では「ジョイス・キャロル・オーツ」として教えることが期待されている。それにはずっと、不安や失望や怒りを感じてきた……

 なにを言いだすのか、という冒頭ですが、話はこんなふうに展開します。夫の死後、周囲から長い休みを取るよう勧められた彼女ですが、翌週には大学に出ます。すると、意外にも、ここが自分の居場所だと感じたのだそうです。「ジョイス・キャロル・オーツ」であることに、夫の死後の、さらには自分の死後の人生が見えてきた、と。

 学生たちとともに、ヘミングウェイの「インディアンの村(インディアン・キャンプ)」をテーマに白熱した授業を行ないます。彼女は、学生たちとコミュニケートすることで、力を回復していきます。

 個人的な話をしない教師だった彼女は、学生たちが自分の境遇を知っているのかどうかすらわかりません。そんな彼女に、授業のあと、教え子たちが訊ねてきます。彼らは、夫を亡くしたことに弔意を示し、なにか力になれれば、と言いだします。彼女ははげしく動揺します……

 彼女は、夫が亡くなったときの様子を直接的には描きません。

 親友の作家ゲイル・ゴドウィンがおなじように夫を亡くした際の模様を語ることで、間接的に伝えるという手法を取ります。

 そのゲイル・ゴドウィンは、彼女からの電話にこう言ったそうです。“Oh Joyce − you’re going to be so unhappy.”なんと直截な表現。

 そしてまた、こうも言われたそうです。“Suffer, Joyce. Ray was worth it.”

 じつは、暗く思い内容とばかりは言えません。

 夫と Ontario Review を創刊したときの思い出話、そして、夫が急死し、最後の号の事後処理にあたる奮闘、その後も夫宛てに送られてくる投稿原稿に悩まされる日々、と、ユーモアさえ感じさせます。夫の死から経過した2年の時間がなせる業でしょうか。

 名門雑誌をつぶしてしまうのはもったいない気もしますが、編集から財政面まで、スミス氏がすべて取り仕切り、まさに彼と雑誌がイコールの関係だったので、彼女にとってはつづけるという選択肢はなかったのです。

 訃報が多い昨今、また、さまざまな環境が変わっていく時期、いろいろなことを考えさせられました。

 乗り越えていかなくっちゃね。