前回「甘い! アマンドのミルクココアより甘い!(というようなセリフが『パタリロ!』になかったっけ?)」と書いたら
「 甘い甘い!まるでルノアールのココアのようだ」
江口寿史「すすめ!パイレーツ」です
というコメントをいただいた。ご指摘ありがとうございます。わたしとあまり年齢の変わらない方だと思いますが。
『すすめ!パイレーツ』とは意外だった。わたしはパタリロとバンコラン(あるいはマライヒ)との掛け合いの中のセリフだと思いこんでいた。だが、アマンドとルノアールの違い(実は天と地ほども違うんだが)こそあれ、せりふのコンセプトは同じだ。わたしが間違って覚えていたのか、それとも、わたしの記憶とは別のせりふなのか? いったん足場が崩れ出すとどんどん自信がなくなってきて、あるいは魔夜峰央の別のマンガかもとか思えてきた。
慌ててググってみると、江口寿史がらみでいくつかヒットした。逆にパタリロがらみだと、この「第四だらだら」が最初にヒットしてしまった。ヤバイ、誤った知識を世界中に広めてしまうかもしれない……よく考えてみると、わたしの文章は別に断定しているわけでもないし、これを読んで学校の期末テストで間違った答え(どんなテストだ!)を書いてしまったなんてこともなさそうだ。このままにしておくことにしよう。
しかし、いい時代になったものだ。家にいるだけで、ほとんどどんなことでも調べたり、確認したりすることができる。とはいえ、なにもここで、昔の苦労話をする気はない。それに絡んで、かつてのSF翻訳勉強会のこととか、風見潤のワープロの話とか、プリントアウトで入稿した話とか書きたくなったが、今回はパス。
今回は現在発売中の『ザ・パシフィック』というノンフィクションの翻訳にあたって、エンターテインメント翻訳史上初ではないかという画期的な手法を使ったので、そのことを書く。
わたしは翻訳をする際、原書をスキャナにかけ、テキスト・ファイルに変換して、それをディスプレー上で見ながら、翻訳している。ペーパーバックだときれいにスキャンできないので、編集者に断わって、原書をバラしてしまうこともある。
翻訳の際は、原文のテキストファイルにそのまま書きこんでいく形で作業をする。もちろん、原文のバックアップはとっておく。一パラグラフごとに翻訳して、その分の原文を消していくと訳し落としがないからいい、というのは同業の古沢嘉通氏に教わったやり方。わたしが使うのは辞書引き機能の付いたエディタだから、単語にカーソルを当てるだけでとりあえずの意味は分かる。マクロを組んで研究社の『大英和』と『リーダーズ++』、『ランダムハウス』、『英辞郎』その他はキー一発で串刺し検索できるようにしてある。
入稿は基本的にテキスト・ファイル。一太郎やワードは使わない。ふりがなや傍点などの特殊な処理は、たとえば「自動拳銃」に「オートマチック」というふりがなを付けてもらいたい場合は{自動拳銃/オートマチック}というように書いて、別表で指示を書いておく。これは相手、つまり編集者や出版社がパソコンで何を使っているか分からないから。以前に、編集者がMAC使いで、こちらはそれを知らずにウィンドウズのファイルで送ったためにいろいろ面倒なことがあったので、以来こうしている。編集者と同じものを使うのが一番間違いがないのかもしれないが、仕事によってこちらの道具を変えるのも面倒だし。
今回の仕事というのは、太平洋戦争を実際の前線で戦った五人の米軍兵士の視点から描くというノンフィクションで、戦場もガダルカナル島、コレヒドール島、ミッドウェイ海戦、ニューブリテン島、ソロモン海海戦、ペリリュー島、硫黄島、沖縄と基本的なところを余さず抑えている。登場人物の一人は海兵隊の機関銃手でヒーローとなった男、一人は海兵隊の迫撃砲班、一人は海軍の急降下爆撃機のパイロット。それぞれが自分の体験を語るのだが、ブローニング重機関銃の逆鉤のバネがどうしたとか、ヘルダイバー急降下爆撃機の主翼ロック・レバーの位置がどうしたとか、迫撃砲の組み立て手順がこうしたとか聞いただけでも面倒くさそうで目が回るでしょ?
今回はまず、出版社から最初に小生の手元に来た原書(?)が、プロテクト無しのpdfファイル。時間の制約もあって、今回は四人の下訳さんをお願いした。三人はたまたま神奈川県在住、一人だけ九州在住。そのpdfファイルと抽出したテキスト・ファイルをメールで送信。ちょっと遅れてハードカバーの原書が到着したが、細部のチェック以外には使わなかった。
下訳さんからテキスト・ファイルでもらった原稿を、小生がパソコン上で直し、編集校正と軍事関係のチェックをしてくれる千葉県在住の元編集者のS氏へメールで送信。S氏はチェック済み原稿をDocファイルの形でデザイナーさんへ(もちろんメールで)送る。本文中に図版や頁ごとに原註が入ったりする面倒な造りなので、デザイナーさんはInDesigneで版面を作りあげ、それをpdfファイルの形でS氏に送付、これがいわば初校ゲラになる。
S氏はそれにPDF-XChange Viewerでコメントの形で朱を入れる。このアプリは小生がしばらく前に見つけて使っていたフリーウェアだが、この段階ではじめはS氏が「ファイルをプリントアウトして、朱を入れてから送る」と言うので、それよりはと小生が勧めて導入してもらったものだ。で、S氏が朱入れや書き込み、コメント付けをした(デザイナーの造った物はそのまま残っている)pdfファイルをメールで送ってもらった。さすがにサイズが大きいが、郵便で紙の束をやりとりするのに比べれば、モノクロ・サイレント映画とIMAX3D映画くらいの差がある。小生も同じアプリを使って、朱がもっともだと思えば、そのまま残し、あるいはこちらで消して自分で書き直したり。紙のゲラと違って書くスペースを考えたり、他の朱と重ならないように工夫したりという手間は必要ない。書いた後でもいくらでも無制限に修正・訂正できるのだから。朱とは別にS氏からの連絡事項も書きこんである。コメントでも朱でも線一本でも書いたのが誰か分かるようになっているから、後でゴチャゴチャする心配はない。必要ならS氏のコメントは緑、小生は赤という風に分けて作業することもできる。予期したよりもさらに便利なことが分かった。
で、小生が手を入れたpdfファイルをS氏に戻し、S氏が最終チェックをしてデザイナーさんへ戻し、あとはそこから印刷所へまわすだけ。完全ペーパーレスですよ、ペーパーレス!
あまりに気に入ったので、今回、下訳さんの原稿の添削戻しも、PDF-XChange Viewerでやってしまおうと考えている。
実は、この前リーディングしたレヘインの新作(『愛しき者はすべて去りゆく』の後日談で、シリーズ最終巻)もエージェントからDocファイルで送ってきた物。編集者がプリントアウト送りますか、と訊いてきたが、邪魔だからいらんいらんと断わった。
ああ、このやり方がデフォルトにならないかなあ。
これはもう、なにより編集さんに読んでもらいたいなあ。今はもうペーパーレスでできるんですよ。初校ゲラも、郵送の時間と訳者が書きこむ際のためらいの時間と修正の時間が節約できるから多少は早くなる(はず)。もちろん、広くこのやり方を普及させるためには、編集さんと校正さんに慣れてもらう必要があるので、ハードルはまだいくつも残っているんだが。
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