このコラムの最初のほうで、原文の流れを読むことにからんで以下のように書いた。

 ただし、流れと言ってもあくまで作業仮説に過ぎない。証拠を取捨選択して無理矢理に仮説に合わせたりするのではなく、仮説に合わない証拠が出てきたら軽視せず、躊躇せずに新しい仮説を立て直すことが重要だ。犯人はこちらから乗りこんだのではないかもしれない、犯人は手袋をしていたのかもしれない、犯人などそもそも存在していなかったのかも知れない、というような感じ。そうしないと、思いこみだけで突き進んでとんでもない冤罪(誤訳)事件ができあがることになるかもしれない。

 しかしね、わたしもまさか現職の主任検事が自説に合うように証拠を取捨選択どころか捏造するとは思わなかったね。アメリカの警察・検察ドラマで時々そういう違法捜査や証拠改ざんなどのエピソードが描かれることがあるが、司法側の対応として問題になった事件ばかりでなく、件の刑事なり鑑識官なり検事なりが担当した過去の全ての事件を洗い直さなければいけなくなる。やり直し裁判で今までの証拠が無効とされ凶悪な犯人が野放しになる、というのもよく描かれるエピソードだ。あくまでドラマだが、鑑識官が証拠品袋を勝手に開けようとしたということで叱責され、退職させられるというストーリーも観たことがある。

 大阪地検特捜部の件の検事は「やり手」だったという報道がなされているが、今までの裁判の信頼性に言及した報道はない。どう進展するのか分からないが、そのあたりをきちんとしない限り司法の信頼性を回復するというのはむずかしいだろう。

 以上は今回の話とはまったく関係ない。ちょっと書いておきたかっただけ。

 以前にも書いたことだが、わたしは専業翻訳者になる前は翻訳出版社で編集者をしていた。だから、編集や校閲作業、出版についてもある程度の知識は持っている。それは翻訳という仕事においてはプラスに働いている(と思う)。ただ、ついつい編集者に同情して多少の無理は聞いてしまうという(翻訳者としては)致命的な弱点もあることはあるのだが。

 訳者あとがきというのが、比較的(あくまで比較的)楽に書けるというのはプラスの点のひとつ。編集者時代、諸先輩のアドバイスをもらったり、翻訳者の相談に乗って額付き合わせて考えたりして、自分なりに一定のパターンを考えつくに至った。今回はそれを書こうと思う。もちろん、これが正解というわけでも、某H川書房の公式見解というわけでもない。ま、ひとつの考え方ということね。そのあたりはよろしく。

 訳者あとがきの基本は「読者目線」ということだと思う。読者が何を求めているか、どんなことを知りたいのか、読者がどんなことを読みたいのか、どんなことを読みたくないのか、というようなことを軸にして考えていけばいいのではないか。

 その前に、蛇足を承知で念を押しておきたいのは、「あとがき」というのは実際には二種類の人たちがそれぞれ別の意図で読むものだということ。二種類の人たちとは購入予定者(つまり書店で本を手にとっている人)と既読者(つまり、もう買ったか借りたかして読んでしまった人)だ。変な言葉使ってごめん。彼らが「訳者あとがき」に求めるものが異なるのは当然のこと。前者は、買うか買わないかという判断の助けになる情報を求めて「あとがき」を読んでいる。後者はその小説に一応は満足し、どんな作者がこの本を書いたのだろうと知識を増やすために「あとがき」を読む。小説のあまりのひどさに腹を立て、一体どんなやつが書いたのか、訳者がどんな顔をして白々しく褒めているのか、と煮えたぎるような怒りとともに読んでいる読者がいる可能性は(精神衛生上からも)ひとまず無視する。

 二通りの読者がいるからには、当然二通りのことを書く必要がある。

 これから買おうとする人には、こんな本ですよ、と教える、というか伝えることが大事だ。書店で手に取っているという状況を考えれば、これを最優先に書くこと。読み終わった読者についてはとりあえず後回しにする。別に、釣った魚に……とかいうセコイ話ではない。すでに読み終わった読者は余裕があるから、ゆっくり最後まで「あとがき」を読んでくれるだろう、だから後のほうで書いてもいいだろうというだけのこと。

 ということで、まずはどんな内容の本か相手に知らせよう。凶悪な連続殺人犯を追うのか、不可能犯罪の謎を推理で解明していくのか、組織に追われる一匹狼なのか、ロシア軍部の陰謀を阻止しようとするイギリス秘密情報部の苦闘なのか。本格謎解きミステリなのか、刑事サスペンスなのか、冒険アクション・スパイ小説なのか。ただ、断わっておきたいのは、そういったラベル貼りというのは作者の意図ではないということ。あくまで編集者や評論家が勝手に分類しているだけなのだ。翻訳者があとがきで安易にラベル貼りをすると、それだけの話なのかと読者に思われて、逆に興味を削ぐという場合もあるから注意が肝要だ。むしろ、その小説のキモというか、こんなにおもしろい話なんだぞとアピールするための「引き」を書くほうがいいだろう。この物語はストーリーがおもしろいとか、設定がユニークだとか、冒頭の簡単なあらすじを書いて、説明する。この時に、書きすぎて読者に物語が分かったような気にさせては失敗。おもしろそうなところをチラチラッと見せておいて、中を見ればもっとおもしろいのだと思わせるのがコツ。男性には「ショーダンサーの太腿チラリ」と説明すれば分かってもらえるだろう。

 ◎◎賞受賞とかいうのがあればそれを書いてもいい。街のレストランの表に「朝ズバで紹介!」と張り紙してあるのと基本的には同じだ。そういうものは、おお凄い!と思うか、なにそれ?と思うか、読者の反応はいろいろだと思うが、訳者(と編集者)としてはとりあえずは書いておきたいものなんだよね。

 個人的な好みで言えば、あらすじを書くのはあまり好きではない。自分でミステリを読む場合、全く白紙の状態で、できれば主人公が誰かも知らないままに本を読みはじめたいからだ。一行一行に息を呑んだり、頭をひねったりしながら読み進め、作者の手腕を楽しみながらストーリーを追うことこそミステリの醍醐味ではないか。しかし、本を売るほうとしては理想論ばかりは言っていられない。このあたり元編集者の弱点だね。あらすじを書く場合にはくれぐれも書きすぎないように。以前に某有名冒険アクション・シリーズ上下巻のあとがきで、長々とあらすじを紹介しているのがあった。こんなに書いてだいじょうぶなのかと思いながら読んでいくと「……と、ここまでが上巻のあらすじで、さらに下巻でストーリーは……」とあった。編集者は止めなかったのか! こういうのは問題外ね。

 次に書くのは、作者の紹介。こういう人物で、こういう経歴の持ち主で、というのはストーリーに接点があるなら書いてもいいが、そうでないと余計なお世話になりがちなので注意が必要。小説の場合、読者が関心を持つのは作者ではなく作品そのもののほうだと思う。「走れメロス」を読んだ小学生は太宰治の生き方なんて関心ないだろうし。教えてもしょうがないし。大事なのは、この作家は他にはこんな作品を書いている、こんな作品が邦訳されている。あるいは同じような傾向の作品として、他の作者にもこんな小説もあるという「情報」だと思う。「引き」が読者に買わせるためだとすれば、この「情報」はすでにその小説を読んでしまった読者に対するサービス。商売抜きに読者に楽しさを伝えたいから。「この本おもしろかった? じゃあ、こんな本はどう? こういうの読んでみたら?」と純粋に本好きが同好の士を発見した時の行動と同じこと。わたしはこの点を一番重要視するのだが、考え方は色々だろうから強制はしない。

 読み終わった読者に対するサービス(?)として、忘れてはいけないことがひとつ。その小説の内容に関しての多少の解説。たとえば、作者(と作者の住む国の人々)にとっては一般常識で、本文中には何の説明もなく書かれていることがらでも、日本の読者には解説が必要というものもある。アイルランドとかコソボ紛争とかからテレビのCMとか食卓の習慣まで、事件そのものの背景だったり、事件解決のヒントだったり、登場人物の性格を知る手がかりだったり。訳注では説明しきれないが、知っていればストーリーを理解しやすく、もっと楽しめるということがあれば、簡潔に、できたら本文に絡めて説明しておくこと。ただし、あくまでさりげなく。こちらからは読者の知識を推し量れないのだから「なにを今さら」とか「知ったかぶりやがって」と思われないように。付け焼き刃でカット・アンド・ペーストをしたりするのも御法度。見る人が見たらバレバレだから。この作業は「情報」というよりも「訳者の責任」ということかもしれない。

 とまあ、わたしはだいたい、このパターンとその変形であとがきを書いている。何度も言うようだが、これが王道でも正解でもない。あくまでわたしなりの解釈ということ。

筆者紹介〕(カマタ サンペイ)1947年千葉県生れ。明治大学文学部卒業。主な訳書にカミンスキー『CSI:ニューヨーク 焼けつく血』、バトルズ掃除屋クィン 懸賞首の男、クリード『ブラック・ドッグ』、アボット『パニック!』、レヘイン『愛しき者はすべて去りゆく』など。

■鎌田三平の翻訳だらだら話■バックナンバー

●AmazonJPで鎌田三平さんの訳書を検索する●