「来週卒業試験がある」という文章を書くなら、わたしならむしろ「来週から卒業試験だ」とか「来週は卒業試験がある」という書き方をしたい。そのほうが読者にとっては読みやすく、誤解しにくく、理解しやすいだろうと考えるから。そのあたりは感性と片付けてしまってもいいし、個性と言ってもいいだろう。

 それよりも、もっと個性が表に出て、感性の問題でもあるのだが、もっと難しい問題がある。

 訳注というやつだ。

 さあ、このエッセイも最初の地雷を踏むことになるぞ。関口苑生という評論家は地雷を見つけるとわざわざ踏みにいくような男だが、自他ともに認めるヘタレの鎌田三平は地雷原とおぼしいところには飛行機でも近寄らないようにして今まで生きながらえてきた。しかし、翻訳に関して書いていたら、訳注について触れないわけにはいかない。仕方がない。清水の舞台とはいわずとも横浜国際プールのスラント式スタート台から水深 2.5mの長水路プールに飛びこむつもりで書くことにする。

 ということで、今回は訳注の話。

 なぜ、訳注が地雷かというと、まず状況が千差万別なので、一般論が通用しない。訳注の付け方に正解はないし、正しいとか間違っているとか判断がむずかしい。それでいて、自分のやり方を主張することは、すなわち他人のやり方が間違っていると指摘するに等しい。というわけで、なかなか手をつけにくい問題なのだ。

 ただし、はじめにお断りしておくが、あなたが誰かから翻訳法を教わり、訳注の付け方も教わっているとしたら、教わったその方法が正しいのです。教わったやり方でやってください。というのも訳注というのは、翻訳者の知識とか翻訳理論とかに密接に結びついた存在だから。そういう場合には、今回の文章は、こういう考え方もあるという参考例程度に読んでもらえればありがたい。

 まず、最近わたしが遭遇した実例。白人の主人公が友人である黒人の新聞記者と電話で、じゃれあいのような人種差別がらみの話をしている中でのセリフ。

“You telling me if Dave Chappelle answers one phone and George Will answers the other, I’m gonna have trouble guessing which is the white guy?”

 大雑把に訳せば「片方の電話にデイヴ・シャペルが出て、もう片方にジョージ・ウィルが出たら、どちらが白人か聞き分けるのがむずかしいと言っているのか?」ということ。ウィキペディアあたりで調べればすぐに分かるが、デイヴ・シャペルは黒人のコメディアンで脚本家、プロデューサー、俳優でもある。ジョージ・ウィルはピュリッツァー賞受賞の保守系の白人のジャーナリストで著作も多数ある。この場合のキモはもちろん片方が黒人、もう一方が白人だという点。

 蛇足かもしれないが、ここでお断り。原書で black と書かれていた場合、わざわざアフリカ系アメリカ人と訳す必要はない。アメリカにおいては黒人とかインディアンとかいう言葉は Politically Correctnessの問題で、公式文書や公の場での発表、演説などでは使わないことになっている。ただし、ポリティカルでない日常会話や小説、TVドラマ、映画では普通に使われている。わたしが現実に見聞きした例では彼ら(黒人、アメリカ・インディアン)自身もそう使っている。その点を本人たちに質問したら、なぜそんなことを気にするのかと不思議がられたほどだ。編集者や校閲から指摘されたらそう答えてほしい。アメリカ本国でさえ規制されていない記述を過度に気にして、自ら表現の幅を狭める必要はないとわたしは考える。

 本題に戻ると、この場合の訳し方はいくつかあると思う。

 まずは訳注の内容を本文中に吸収させる方法。「電話だったら黒人俳優のデイヴ・シャペルも、白人ジャーナリストのジョージ・ウィルも、違いが分からないって言いたいのか?」よくある方法だ。ただし、この場合は友人同士でそんな喋り方をするかという問題が残る。しゃれた会話がくどい説明的な会話になってしまう。

 次は、思い切って意味だけを抽出してしまう方法。「電話だったら黒人だろうが白人だろうが違いが分からないって言いたいのか?」セリフとしては自然だが、そこまで大鉈を振るっていいのかという疑問が残る。翻訳者には「原書に書いてあることは全部訳したい」という悲しい性がある。読者の中にはシャペルとウィルをわざわざ使ったニュアンスが分かる人もいるだろうと思うと、削っちゃマズイかなあという弱気が顔を出す。

 編集者時代の経験だが「カーラジオからローリング・ストーンズのサティスファクションが流れてきた」という原文を「カーラジオから騒々しい音楽が流れてきた」と訳した翻訳者がいた。その理由が「こんなグループは30年もすれば消えてしまって誰も憶えていないんだから、こう訳したほうがいつまでも意味が残るんだ」ということだった。編集者権限で原文に沿って直してしまったが、本は30年もたたずに絶版になってしまった。

 みっつめは訳注を使う方法。〔 〕の中は2行の訳注だと思ってほしい。「電話だったらデイヴ・シャペル〔黒人俳優〕だろうがジョージ・ウィル〔白人ジャーナリスト〕だろうが、声で違いなんて分からないって言いたいのか?」

 他にもやり方があるだろうが、基本的には処理法はこの三つと考えて差し支えない。

 訳注は文章のリズムを壊すのであまり好きではないが、この場合には三番目の方法がベターだと思う。ただし、これ以上の訳注を書き足すのは蛇足になりかねないのでご用心。

 個人的には「訳注を入れなければ理解できない文章は、訳注を入れても理解できない」と思っている。あ、いま地雷を踏んでしまったかな。高橋留美子なら「ちゅどーん!」と擬音が入るところだ。

 作者は小説の中で付帯情報を書きこんではいない。つまり、書いたことだけで伝わると考えていたのだ。それなのに訳注を入れるというのは、ジョークの落ちを説明するような、違和感がつきまとうのは事実だ。ただ、落ちというか、その部分の隠れたニュアンスは伝えられないにしても、なにが書いてあるか、どういうことを書いているかは最低限、読者に伝えるのが訳者のつとめだろう。場合によっては、それを訳注で補足しなければならないということだ。つまり、わたしとしては訳注はあくまで補足と考えたい。わたし自身はほとんど訳注を使わないが、必ず付ける訳注は華氏、摂氏に関することだ。アメリカの小説では気温についてはほとんど華氏で表記する。「外へ出てみると気温は30度を下回るくらいだった」「空を見上げる。予報では100度を超えるということだった」という具合だ。だが、われわれ日本人は摂氏しか知らず、華氏で表記されても、暑いのか寒いのかさえ見当がつかない。換算式を見ると、なんでこんなに面倒くさいことを……という位に面倒くさい数式になっている。今はコンピュータで簡単に換算できるが、それを読者にやらせるのはあんまりだと思う。で、〔約摂氏マイナス1度〕〔約摂氏38度〕と訳注を入れることにしている。フィート、ヤードなど長さの単位については、日本人でもある程度の知識はあるかなと考えて、自主的には訳注を入れない。出版社によっては必ず入れてくれとか、メートル表記に換算して書いてくれとか要望される場合もある。そういう場合はケース・バイ・ケースで編集者と話し合って決めることにしている。

 まあ、度量衡などは機械的にできることだからいいが、ほとんどの訳注は機械的には処理できない。

(誤解を避けるために、これ以降、例文として使うのはすべて、わたしの頭の中ででっち上げた架空の事項にする。全部デタラメだから間違ってもよそで書かないでほしい)

 ここで改めて、訳注とはなにかと考えてみよう。こういう時、わたしはまず、読者にとっては、と考えるようにしている。エンターテインメント翻訳が商品である以上、そして訳者が商品を作り出す側である以上、お客である読者の利便性を第一に考えるのは当然だと思う。

 では、まず読者がなにを求めているかを考えてみよう。少なくともエンターテインメント小説に限って言えば、読者は歴史の知識や物理の理解力を高めようと本を読んでいるわけではない。あくまで物語を楽しむのが目的だ。その点では異論はないだろう。

 となれば、訳注の目的は一目瞭然。物語を楽しむ上で必要(最小限)な情報を読者に与えるということだ。細かく書くと、訳注とは「本国では比較的知られているために、わざわざ原作では言及されていないが、日本の読者の多くは予備知識がなく、それでいて作品を理解する上では必要な情報を補足するもの」ということになる。わたし自身は、それ以上の情報は邪魔だし、無意味だと考えている。

 ここで、「ジョン・ウィンゲートが乗ったタクシーは、ロンドン中心部を目指して走った。カーラジオからはザ・ジャングルズの《ワッタ・ダンス》が流れている。タクシーは聖ルピナス教会堂の前を通った。奇しくも彼と同じ名前の貴族が建てた教会堂だが、もちろん血のつながりはない。」という文章があったとする。ここでザ・ジャングルズについて「英国出身の黒人男性二人、白人女性二人のヒップホップ・グループ。代表作《ワッタ・ダンス》は十週連続でビルボード・ベストワンに輝いた」さらに聖ルピナス教会堂について「カラメル・ロード沿いに建つ世界遺産に選ばれた由緒ある教会堂で、12世紀にウィンゲート侯爵(1108-1167)によって建立された。侯爵は完成式典の夜に泥酔して喧嘩になり、教会堂の前でイグノウス派の商人に撲殺された」という訳注が必要かどうか。

 ザ・ジャングルズの《ワッタ・ダンス》というのがこれ以降、小説に登場しないのであれば、訳注は必要ない。『雑学王』とか『トリビアの泉』じゃないのだから、読者がこれは音楽なんだな、と見当がつけばいいだけだ。本文の描写でそれは充分だと思う。同じように、教会堂についても、歴史書や観光ガイドならいざ知らず、この場合は小説を楽しむため以上の細かい知識は必要ない。

 長くなってしまったので、この続きは次回。

◇鎌田三平(かまたさんぺい)1947年千葉県生れ。明治大学文学部卒業。主な訳書にカミンスキー『CSI:ニューヨーク 焼けつく血』、バトルズ掃除屋クィン 懸賞首の男、クリード『ブラック・ドッグ』、アボット『パニック!』、レヘイン『愛しき者はすべて去りゆく』など。

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