半年以上のご無沙汰になってしまった。別に大病をしたとか刑務所に入っていたとか、そういう訳ではないからご安心を。まあ、誰も心配していなかっただろうが。今回はちょっと趣向を変えて雑談を。もっとも、いつも雑談といえば雑談なのだが。

 今回は「翻訳者って、どこまでやらなきゃならないの?」ということ。

 ずいぶん前の話だが、警察の用語集を作ったことがある。えーと、いつのことだっけと考えなければ思い出さないほど昔の話。結局、考えても思い出せなくて、本棚を引っ掻き回してしまったんだが。

 わたしが某社編集者から、とある翻訳を依頼されたと思ってほしい。あいまいな書き方をしたのは忘れたからじゃなくて、いろいろ差し障りがあるから。それはニューヨークの警察官が主人公のシリーズなのだが、なんとシリーズの第二作目だった。実は一作目は他の翻訳者の手になるものが間もなく出版されるのだが、あまり出来が良くないので翻訳者を変えることにして、それをお願いするというのだ。

 普通、どんな作品でも一番売れるのはシリーズの一作目で、二作目以降はしりすぼみに部数が減っていくものだ。たとえ途中から人気が出たとしても、売れるのは一作目から。そして、読者の頭には一作目の訳者の名前が残ることになる。というわけで、二作目から引き受けるというのは、あまり美味しい仕事ではない。とはいえ、当時のわたしには(今でもそうだが)仕事をえり好みする余裕はない。

 シリーズ物となれば固有名詞の表記の統一、用語の統一などしなければならないので、一作目の翻訳をゲラで読ませてもらった。一読して気づいたのは、訳の良し悪しよりも警察関係の用語の混乱と誤解だった。警察署長が事件現場にわざわざ出向いたり、署長が部長刑事から叱責されたりしているのだ。いくらなんでも、と慌てて編集者に連絡したが、修正することは時間的に無理だった。

 実は、わたし自身、翻訳出版社に6年間も在籍していながら、警察小説を手がけたことはほとんどなく、警察についての知識も、それほど熱心ではない読者程度しかなかった。その当時の編集部にも警察用語集なるものはなかった。断っておくが、そのこと自体は問題ではない。日本とは異なる組織で定訳があるわけでもないのだから、用語集みたいなものがなくて当たり前。その作品、作品で翻訳者が自分で訳語を選び、それが世間の常識と乖離していなければ、それでいいということなのだ。

 用語集が必要なのは、長いシリーズ物で、たとえ一人ですべて翻訳していても訳しミスが不可避な場合。あるいはシリーズ物を何人もで訳す場合などだ。たとえば長大なSF『デューン/砂の惑星』シリーズでは担当者が、主に校正の利便性を考えてだが、用語集を作っていた。わたし自身も、在職中にまったく違う分野の用語集で大変な苦労をしたことがあったのだが、これはさすがに差し障りが多くてここでは書けない。

 で、わたしの場合、その警察小説を引き受けるにあたり、自分が警察用語に詳しくないということもあって、用語集がどこかにないかと考えた。まずは翻訳出版をしている各社の編集者に「警察用語集とか参考になるリストとか御社にありませんか?」と訊いてみた。ところが、軒並み「そんなものはない。あなたが作るなら、ぜひ欲しい」という返事。はは、ちょっと脱力感。

 こうなると、何がなんでも自分で用語集を作るしかない。そこで、まずは警察絡みの翻訳小説の原書と翻訳を手当たり次第に引き比べて用語のリストアップからはじめた。これがとんでもなく体力と気力を使う作業で、まさに若い(?)頃だからできたことだ。今のわたしには、とてもそんな気力も体力も暇もない。用語を考えるにあたっては、日本の警察のことも知らなければならないので、同業の友人数人を誘って、警視庁見学にも出かけた。もちろん、パンフレット、資料などたくさんもらってきた。

 で、用語を集めていくうちに、市警組織のことが気になってきた。Detective Commander と Chief of Detectives とどっちが上なんだ? パトロール警官と刑事とどう違うんだ? ということで、警察組織のことも調べなければならなくなった。実はこの用語集作成の過程で分かったことなのだが、アメリカの市警察はニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴなど都市によって組織編成は大きく異なるし、同じ都市でも頻繁に変更されることがある。だから、絶対的な組織図、絶対的な役職名などは存在しないのだという。この頃、大先輩の故上田公子女史がニューヨークに遊びに行くということがあって、もちろんお願いしてワン・ポリスプラザにも脚を運んでもらった。上田女史は、NYPD署内の壁に貼ってあった組織図を、わざわざ剥がしてコピーを取ってもらってきてくれた。これはその後の作業に大いに役に立った。

 そうやっていろいろ集めていくと、はじめは警察官の役職名と装備などの名称一覧くらいに考えていたものが、どんどん膨らんでいってしまった。警察ばかりでなく、拳銃に関する言葉、麻薬関係の言葉、ニューヨークの地名等々……。

 わたしはオタクでもコレクターでもAKBのファンでもないつもりだが、用語集を作る作業の過程で、彼らがのめり込んでいく気持ちというのが多少は分かった気がする。

 ここでお断りしておかなくてはいけないのだが、翻訳者がいちいちそこまでしなければいけないのか、という問題がある。

 結論から言えば、そこまでする必要はない。

 前にも書いたことだが、翻訳は舞台演出のようなものだ。その一冊、そのシリーズの中ですべてが完結している舞台だから、他の芝居との整合性を考える必要はない。翻訳者が考えるべきなのはその世界の中で整合性がとれているか、使われる言葉が読者に違和感を感じさせないかということに尽きる。

 ただ、この場合は、わたし自身が警察関係に詳しくなかったので、勉強のつもりでというモチベーションがあった。もうひとつ、あまり他人に言えることではないのだが、一作目がそういう出来だったので、わたしはちゃんとした翻訳をしたい、一作目の訳者とは違うところを見せたいという力みもあった。

 作った用語集は、異論や間違いがあれば指摘してくれと各社の編集者に配った。

 この警察用語は同業者の金子浩氏がデジタル辞書の形にしてくれて、自分のブログにアップしてくれたので、ご覧になった方もいらっしゃるだろう。ただ、警察関係の用語というのは、まだ楽なのだ。コンピュータ関連だと、地獄ですぜ、あーた。その話もいつか。

 件のシリーズは売れ行きが芳しくなかったのか、数冊で終わってしまった。では、用語集を作ったのは壮大な労力の無駄だったのか? そうとばかりは言えない。それをきっかけにして、警察小説の翻訳依頼がいくつも来た。9点に及ぶCSIのシリーズも手がけさせてもらった。もっともテレビドラマのCSIシリーズは、現実の警察とは違うというのは承知している。鑑識課員にすぎないメンバーが犯人逮捕に同行することは現実にはありえないという話だ。実際の鑑識では容疑者がどういう人物かを知らないで作業を進めなくてはならないという。

 CSIの翻訳の時は、さすがに古い警察用語集では足りず、簡単な鑑識用語集まで作ってしまった。

 うむ、やっぱりある種のオタクかもしれない。

 ただ、どこかであの用語集を参考にして翻訳をしてくれている訳者がいるかも知れないと思うと、ちょっと嬉しい。

鎌田 三平(かまた さんぺい)

1947年千葉県生れ。明治大学文学部卒業。主な訳書にカミンスキー『CSI:ニューヨーク 焼けつく血』、バトルズ掃除屋クィン 懸賞首の男、クリード『ブラック・ドッグ』、アボット『パニック!』、レヘイン『愛しき者はすべて去りゆく』など。

●AmazonJPで鎌田三平さんの訳書を検索する●

■鎌田三平の翻訳だらだら話■バックナンバー