◆進撃のドイツ語圏ミステリー

 2011年にドイツの作家フェルディナント・フォン・シーラッハ『犯罪』が邦訳されて以来、日本国内でドイツ語圏ミステリーへの注目度が格段に上がってきている。2011年以降に新たに紹介されたドイツのミステリー作家にはゾラン・ドヴェンカーネレ・ノイハウスフォルカー・クッチャーオリヴァー・ペチュイザベル・アベディマックス・ベントーらがおり、オーストリアのミステリー作家にはマルク・エルスベルグアンドレアス・グルーバーレーナ・アヴァンツィーニらがいる。(※ゾラン・ドヴェンカーは2011年邦訳の『謝罪代行社』以前にジュヴナイルミステリーの《半ズボン隊》シリーズが2作訳されている)

 また、翻訳が途切れていたセバスチャン・フィツェックヴォルフラム・フライシュハウアー(両者ともドイツ)も新たな作品が翻訳された。2013年にはドイツの作家ヴォルフガング・ヘルンドルフ『砂』という異色作も刊行されている。



 『ミステリマガジン』で過去に特集されたことがある国・地域は英米を除くとフランス(複数回)、カナダ(1986年10月号)、ソ連(小特集 1991年12月号)、韓国(2000年10月号)、オーストラリア(2001年5月号)、北欧(2010年11月号)、アジア(2012年2月号)などがあるが、ドイツ語圏ミステリーの特集は今までに一度もない。日本のミステリー雑誌で最初にその特集を組んだのはおそらく『ミステリーズ!』51号(2012年2月、特集:もっとドイツミステリ)ということになるだろう。

 もちろんシーラッハの『犯罪』以前にもドイツ語圏のミステリーはそれなりに訳されていたが、それらが「ドイツ・ミステリー」「ドイツ語圏ミステリー」というまとまりで認識され、勢いを持つということはなかったように思う。日本ではドイツ(語圏)はあまりミステリーが盛んでない地域だとずっとみなされていて、たとえば6年ほど前に刊行された『ミステリが読みたい! 2008年版』(早川書房、2007年11月)には「ミステリ不毛の地ドイツ」なんていう文言が見られるし、『ミステリマガジン』1980年7月号では「ミステリ・ファンにとってドイツという国はわからない国だ。というのはドイツ・ミステリという言葉がないためで」(p.111)……云々と書かれたりしている。

 とはいえドイツ語圏のミステリーの歴史は長いし、その邦訳の歴史も長い。1920〜30年代には雑誌『新青年』にドイツの作家パウル・ローゼンハインの探偵ジョー・ジェンキンズ・シリーズが10編、オーストリアの作家バルドゥイン・グロラーの探偵ダゴベルト・シリーズが2編訳載されている。このうち後者は昨年創元推理文庫から本邦初訳短編を多数含む傑作集『探偵ダゴベルトの功績と冒険』が出たので、読んだ方も多いだろう。また、同時期に『新青年』に訳載されたドイツの作家ワルター・ハーリヒの『妖女ドレッテ』は江戸川乱歩から高く評価された。ハーリヒはほかに『妖女エディト』も訳されているが、現在それらの作品を読むのは難しい。今手に入る戦前ドイツ語圏のミステリーとしては『探偵ダゴベルトの功績と冒険』のほかに、エーリヒ・ケストナー(ドイツ)の『消え失せた密画』やレオ・ペルッツ(オーストリア)の『最後の審判の巨匠』、ノルベルト・ジャックの『ドクトル・マブゼ』、フリードリヒ・グラウザー(スイス)のシュトゥーダー刑事シリーズなどがある。

 戦後、1960年代初頭にはスイスのフリードリッヒ・デュレンマットの『約束』『嫌疑』(「嫌疑」と「裁判官と死刑執行人」の2編を収録)がポケミスで刊行されている。近年刊行された『失脚/巫女の死 デュレンマット傑作選』(光文社古典新訳文庫、2012年7月)は2013年版のこのミスで第5位になるなど高い評価を受けた。同学社からは最近、「裁判官と死刑執行人」と「嫌疑」の新訳がそれぞれ『判事と死刑執行人』(2012年5月)、『疑惑』(2013年12月)のタイトルで刊行されている。

その後も1960年代から20世紀末までに、ドイツ語圏からはハンス・ヘルムート・キルストアキフ・ピリンチイングリート・ノルハインツ・G・コンザリクヤーコプ・アルユーニ(以上ドイツ)、ヨハネス・マリオ・ジンメル(オーストリア)といった作家が紹介されてきた。




 21世紀の最初の10年では、『ゼルプの裁き』『ゼルプの欺瞞』『ゼルプの殺人』の三部作のベルンハルト・シュリンクや、『治療島』のセバスチャン・フィツェック、『深海のYrr(イール)』のフランク・シェッツィングら(3人ともドイツ)がそれぞれ個別に話題を集めた。



 そして、ここ数年で一気に「ドイツ(語圏)ミステリー」のブームが来るのだが、その立役者といっていいのがシーラッハやネレ・ノイハウス、フォルカー・クッチャーの翻訳者である酒寄進一氏だろう。酒寄氏がドイツ語圏ミステリーを翻訳紹介することになったきっかけやその戦略は、翻訳ミステリー大賞シンジケートに寄稿されたエッセイ「ドイツミステリへの招待状」(2011年12月、全4回)に詳しい。

 また、NHKのドイツ語講座に出演したりもしているマライ・メントライン氏も、ドイツ大使館が運営するサイトでドイツ・ミステリーについてのエッセイを連載したり(2012年2月より月1回掲載/第1回→ http://www.young-germany.jp/article_592 )、酒寄氏と一緒にドイツ・ミステリー関連のイベントに出席したりと、ブームの盛り上げに積極的に関わっている。来週(1月23日[木])には、東京ドイツ文化センター(東京都港区赤坂)でこのお二方がドイツの青少年文学を語る無料イベントが開催される( http://www.goethe.de/ins/jp/tok/ver/ja11966354v.htm )。

 ちなみに、年末の各種のミステリーランキングでベスト10に入った最初のドイツ語圏ミステリーはアキフ・ピリンチの『猫たちの聖夜』(『このミステリーがすごい! 1995年版』第10位)である。このミスではこの後、『犯罪』が2012年版の第2位になるまでドイツ語圏ミステリーのベスト10ランクインはなかった。ほかのランキングでは、フランク・シェッツィングの『深海のYrr(イール)』が2008年末の早川書房『ミステリが読みたい!』および『週刊文春』、『IN☆POCKET』のランキングでベスト10入りしている。『本格ミステリ・ベスト10』では、2005年末のランキングで第9位になったレオ・ペルッツ『最後の審判の巨匠』が今のところドイツ語圏からの唯一のランクイン作品である。ペルッツは昨年11月に新たに『ボリバル侯爵』が翻訳刊行されたが、これは「ボルヘスが絶賛した幻想歴史小説」であると同時に、ミステリー読者にもお薦めの作品だそうだ。

◆ドイツ語圏最初の探偵小説は「モルグ街」より早い!?

 以前にこの連載の「ノルウェー編」で書いたが、ノルウェーでは同国の作家マウリッツ・ハンセンが1839年に発表した『鉱山技師ロールフセン殺害事件』(Mordet på maskinbygger Roolfsen)こそが世界初の探偵小説だとする説があるそうだ。通常世界の探偵小説の嚆矢とされるのは、その2年後の1841年に発表されたポーの「モルグ街の殺人」である。

 そして、ドイツにも「モルグ街の殺人」より早く書かれた探偵小説がある。昨年逝去されたミステリー研究家の加瀬義雄氏がミステリー研究同人誌『ROM』117号(2003年3月 ※国会図書館に所蔵あり)で草創期ドイツ語圏探偵小説の英訳アンソロジー『Early German and Austrian Detective Fiction』(1999年刊)のレビューを書いているのだが、それによればそのアンソロジーの編者は、アードルフ・ミュルナー(Adolf Müllner)の1828年の作品「Der Kaliber」(英題 The Caliber)がドイツ語圏の最初の探偵小説だと主張しているのだそうである。つまり、ドイツ語圏では「モルグ街の殺人」より13年も早く探偵小説が書かれていたということになる。英訳アンソロジー『Early German and Austrian Detective Fiction』にはこの「Der Kaliber」のほかに、オットー・ルートヴィヒ(Otto Ludwig)の1839年の作品「Der Tote von St. Annas Kapelle」(英題 The Dead Man of St. Anne’s Chapel)も収録されている。これもやはり、「モルグ街の殺人」より早い。

 またドイツでは、「モルグ街の殺人」より20年ほど早いE・T・A・ホフマンの「マドモワゼル・ド・スキュデリ」(光文社古典新訳文庫『黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ』に収録、2009年3月)が世界最初の探偵小説だという主張がなされたこともあるという。岩波文庫ではこの作品は『スキュデリー嬢』というタイトルで出ていたが、サイトで内容紹介を見ると、「サスペンスに富み,ふかく人生の機微をうがった本格的な推理小説である」と書かれている( http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/32/2/3241450.html )。

 さらにさかのぼって、1786年のフリードリヒ・フォン・シラー「誇りを汚された犯罪者」(ポプラ社百年文庫70『野』に収録、2011年3月)をドイツ語圏の最初の探偵小説だとする説も見たことがある。この作品は1930年刊行の博文館・世界探偵小説全集第1巻『古典探偵小説集』にも「太陽の亭主」というタイトルで収録されていた。

◆1930年代ドイツの知られざる本格ミステリー作家

 話はやや飛ぶが、ドイツでは1930年代にフェリー・ロッカー(Ferry Rocker、別名Lena Eschner、Hardy Worm、1896-1973)という作家が英米の作品にも匹敵するような本格物の長編を複数発表していたらしい。この作家については、『妖女ドレッテ』の訳者である稲木勝彦氏がエッセイ「欧洲の探偵文学」(『宝石』1958年3月号)で言及している。以下に引用する。

巴里に住んでいたので、しばしばフランスを舞台にし、また作品の多くは英国を舞台にしている。既に五、六作あるが、そのうち「ラテン区の銃声」と「ジョン・ケネディーの客達」が良い。前者は巴里のラテン区にある本屋のおやじが殺され、その甥の青年に嫌疑がかかる。巴里警察の中老の探偵が人なつこい態度で調べているうちに被害者や彼を取巻く人々に関する意外な事実が次々に分ってくる。巴里の庶民的な気質と風物が巧みに描込まれている。本格物。「ケネディーの客達」は前者とは打って変って、英国の流行作家が十人の友人をロンドン郊外の別荘へ招いて週末を過そうとして、その夜殺される。作家を取巻く十人の人物が相当によく書別けられ、筋の運びも謎の伏せ方も、意外性もよく、米、英の古典的本格物を読むような気持を起させる。

 稲木氏は1950年代に再刊された『ラテン区の銃声』(Schüsse im Quartier Latin[カルチェ・ラタンの銃声])と『ジョン・ケネディーの客達』(John Kennedys Gäste)を読んでこの作家を新人と思ったようだが、実際には両作品とも1930年代に発表されたもののようである。フェリー・ロッカーは、『宝石』1957年7月号に訳載された短編「索溝」(著者名表記「フェリイ・ロッカー」)がおそらくは唯一の邦訳だと思われる。

 戦前のドイツ語圏にはまだまだ知られざるミステリー作品がたくさんあるようだ。現代の作家たちの紹介に並行して、過去の名作に光を当てる訳業にも今後期待したい。

◆フリードリヒ・グラウザー賞(ドイツ推理作家協会賞)

 さて、この連載の本題であるミステリー賞の紹介に移ろう。ドイツの代表的なミステリー賞というと、フリードリヒ・グラウザー賞とドイツ・ミステリー大賞の2つが挙げられる。どちらも30年弱の歴史を持つ賞である。

 フリードリヒ・グラウザー賞(Friedrich-Glauser-Preis http://www.das-syndikat.com/krimi-preise/ )はドイツ語圏のミステリー作家団体であるシンジケート(Syndikat ジュンディカート)が1987年から授与している賞。長編賞(1987年〜)、新人賞(2002年〜)、短編賞(2002年〜)およびグラウザー名誉賞(1987年〜)がある。日本推理作家協会賞と違って、長編賞や短編賞は複数回の受賞が可能である。また、グラウザー賞の一部門という扱いなのか、それともグラウザー賞とは別物扱いなのかはよく分からないが、シンジケートは2000年からジュヴナイルミステリーを対象とするハンスイェルク・マルティン賞(Hansjörg-Martin-Preis)も授与している。

 シンジケートは日本ではドイツ推理作家協会(ドイツ語圏推理作家協会)と呼ばれることもあり、フリードリヒ・グラウザー賞もドイツ推理作家協会賞(ドイツ語圏推理作家協会賞)と呼ばれたりもする。

 賞の名前になっているフリードリヒ・グラウザー(1896-1938)はドイツ語圏のミステリー創作の先駆者の一人であるスイスの作家。1930年代にシュトゥーダー刑事シリーズを発表した。日本ではこのシリーズの5長編(『狂気の王国』『クロック商会』『砂漠の千里眼』『シュルンプ・エルヴィンの殺人事件』『シナ人』)と12短編を読むことができる(長編の『シュルンプ・エルヴィンの殺人事件』『シナ人』および短編12編はフリードリヒ・グラウザーの作品集『老魔法使い』に収録)。『狂気の王国』は2005年の英国推理作家協会(CWA)最優秀長編賞ノミネート作である。

◆フリードリヒ・グラウザー賞 長編賞

 長編賞の受賞作およびノミネート作で邦訳があるものは以下の通り。

  • 長編賞受賞作
    • 1989年 ベルンハルト・シュリンク『ゴルディオスの結び目』
    • 2003年 ベルンハルト・ヤウマン『死を招く料理店(トラットリア)』
    • 2010年 ゾラン・ドヴェンカー『謝罪代行社』
  • 長編賞ノミネート作
    • 1992年 イングリート・ノル『特技は殺人』
    • 1996年 フランク・シェッツィング『黒のトイフェル』
    • 2000年 ペトラ・ハメスファール『記憶を埋める女』

 イングリート・ノル『特技は殺人』とフランク・シェッツィング『黒のトイフェル』はどちらもデビュー作。新人のデビュー長編を対象とする新人賞が設置されたのは2002年である。イングリート・ノルは1994年に別の作品で長編賞を受賞しており、2005年にはグラウザー名誉賞も受賞している。

 ベルンハルト・ヤウマンの『死を招く料理店(トラットリア)』は、イタリアで取材をしつつミステリー小説を執筆するドイツ人作家の執筆記録と、その作家が書いたミステリー小説が交互に配置され、「現実」とフィクションが侵食しあっていくというメタミステリー。法月綸太郎氏がその年のこのミスで1位に推した作品である。「美食家の舌に釘をうて」と題された法月氏によるレビューは評論集『盤面の敵はどこへ行ったか』で読むことができる(初出はe-NOVELSの週刊書評、2005年3月)。ヤウマンは2003年の受賞後、2009年と2011年にもグラウザー賞長編賞にノミネートされている。また2008年にはグラウザー賞短編賞も受賞している。

 受賞作自体は訳されていないが、グラウザー賞長編賞の受賞者にはほかに『死体絵画』のアストリット・パプロッタ(ドイツ)や、『プリオンの迷宮』『縮みゆく記憶』『絵画鑑定家』のマルティン・ズーター(スイス)らがいる。

◆フリードリヒ・グラウザー賞 新人賞

 デビュー長編が対象となる賞。受賞作およびノミネート作で邦訳があるものは以下の通り。『凍える森』は後述のドイツ・ミステリー大賞でもその年のドイツ語作品部門の第1位になっている。

  • 新人賞受賞作
    • 2002年 クリストフ・シュピールベルク『陰謀病棟』
    • 2006年 レオニー・スヴァン『ひつじ探偵団』
    • 2007年 アンドレア・M・シェンケル『凍える森』
    • 2012年 レーナ・アヴァンツィーニ『インスブルック葬送曲』
  • 新人賞ノミネート作
    • 2007年 セバスチャン・フィツェック『治療島』
    • 2009年 オリヴァー・ペチュ『首斬り人の娘』

 『陰謀病棟』の訳者あとがきや著者紹介に、クリストフ・シュピールベルクが2004年にアガサ・クリスティー賞を受賞したとの記述がある。これはアメリカのアガサ賞でも、もちろん日本の早川書房のアガサ・クリスティー賞でもなく、公募の短編ミステリー賞であるドイツのアガサ・クリスティー賞(Agatha Christie Krimipreis)のことである。アガサ・クリスティー賞はほかにチェコにもある。

◆ハンスイェルク・マルティン賞

 前述の通り少年少女向けのミステリー小説を対象とする賞で、シンジケート(ドイツ推理作家協会)が2000年から授与している。ハンスイェルク・マルティン(1920-1999)はドイツのミステリー作家で、邦訳は『ミステリマガジン』1980年12月号に訳載された短編「後家づくり」(著者名表記「ハンスイエルク・マルティーン」)だけだと思われる。1989年にはグラウザー名誉賞を受賞。1999年に死去し、翌年からその名を冠したハンスイェルク・マルティン賞が授与されるようになった。

 この賞の受賞作で邦訳されているものはない。キルステン・ボイエ(ドイツ)の『メドレヴィング 地底からの小さな訪問者』は2005年のノミネート作だが、邦訳書の宣伝文句によればこの作品は「冒険ファンタジー」である。だいぶ幅広い作品が候補になりうるようだ。

 2003年にはこの賞を『謝罪代行社』の作者のゾラン・ドヴェンカーが受賞している。ドヴェンカーのジュヴナイルミステリーの邦訳には『走れ! 半ズボン隊』および『帰ってきた半ズボン隊』がある。

 《4と1/2探偵局》シリーズ(邦訳既刊5巻)や《ひみつたんていダイアリー》シリーズ(邦訳既刊4巻)が訳されているドイツの児童文学作家ヨアヒム・フリードリヒは2005年にこの賞にノミネートされている。昨年『日記は囁く』が訳されたイザベル・アベディは2008年のノミネート作家。



 2002年の受賞者のリリ・タール、2004年の受賞者のウルリケ・シュヴァイケルト、2006年の受賞者のユルゲン・バンシェルスはそれぞれ1冊ずつ邦訳があるが、ミステリーではない。

◆ドイツ・ミステリー大賞 ドイツ語作品部門

 続いてドイツ・ミステリー大賞(Deutscher Krimi Preis http://www.krimilexikon.de/dkp/ )の紹介に移ろう。こちらはボーフム・ミステリー文庫という団体が主催する賞で、フリードリヒ・グラウザー賞より一足早く、1985年から授与されている(ボーフムはドイツの地名)。ドイツ語作品部門と翻訳作品部門があり、前年に出版された作品の中からそれぞれ優秀作が第3位まで選出され、受賞作となる。

 邦訳のある受賞作は以下の通り。年は授与の年を示す。出版はその前年。

  • 1992年2位 ヤーコプ・アルユーニ『殺るときは殺る』
  • 1993年1位 ベルンハルト・シュリンク『ゼルプの欺瞞』
  • 1999年1位 ヴォルフ・ハース『きたれ、甘き死よ』
  • 2000年1位 テア・ドルン『殺戮の女神』
  • 2003年2位 マルティン・ズーター『プリオンの迷宮』
  • 2005年1位 アストリット・パプロッタ『死体絵画』
  • 2005年2位 フランク・シェッツィング『深海のYrr(イール)』
  • 2007年1位 アンドレア・M・シェンケル『凍える森』
  • 2012年1位 メヒティルト・ボルマン『沈黙を破る者』(河出書房新社より2014年春刊行予定)

 『殺るときは殺る』は、ドイツを舞台にしたトルコ人探偵カヤンカヤ・シリーズの第3作。日本ではほかにシリーズ第1作『異郷の闇』も出ている。邦訳書の訳者あとがきで、作者のヤーコプ・アルユーニはトルコ系移民の2世だと紹介されているが、これは間違いだったようで、実際はドイツの高名な劇作家の息子だったらしい。

 ベルンハルト・シュリンクの『ゼルプの欺瞞』は探偵ゲーアハルト・ゼルプを主人公とする三部作(『ゼルプの裁き』『ゼルプの欺瞞』『ゼルプの殺人』)の第2作。

 受賞作自体は訳されていないが、ドイツ・ミステリー大賞の受賞者にはほかに『カルトの影』のクルト・ブラハルツ(オーストリア)や、『殺戮のタンゴ』『消滅した国の刑事』のヴォルフラム・フライシュハウアー(ドイツ)、『カルーソーという悲劇』のアンネ・シャプレ(ドイツ)らがいる。

 ベルンハルト・ヤウマンも2度受賞しているが(2009年2位、2011年1位)、どちらの受賞作も邦訳はない。2011年の1位になった『Die Stunde des Schakals』(ジャッカルの時)の方は、『ミステリマガジン』2011年10月号の洋書案内〈世界篇〉で平井吉夫氏によるレビューを読むことができる。

 ところで、上の邦訳された受賞作の一覧を見て、アキフ・ピリンチの『猫たちの聖夜』がないことを不思議に思った方がいるかもしれない。この作品は日本では「ドイツ・ミステリ大賞受賞作」として紹介され、『海外ミステリー事典』(新潮社、2000年)の「アキフ・ピリンチ」の項目でもそのように記述されているが、ドイツ・ミステリー大賞の公式サイトや『ミステリマガジン』1998年4月号で受賞作一覧を見ても、アキフ・ピリンチの名は見当たらない。少なくとも、ドイツ・ミステリー大賞という訳語で通常指される「Deutscher Krimi Preis」の受賞作ではないようである。

 アキフ・ピリンチはトルコ生まれ・ドイツ育ちの、ドイツ語で執筆するトルコ人作家(現在はサウジアラビアで暮らしているらしい)。『猫たちの聖夜』に始まる雄猫フランシス・シリーズは日本では第2作『猫たちの森』までしか出ていないが、ドイツでは数年に1冊のペースで新刊が出ていて、現在は第8作まで刊行されている。

◆ドイツ・ミステリー大賞 翻訳作品部門

 翻訳作品部門のここ10年間の第1位作品は以下の通り。

  • 2004年 仏 フレッド・ヴァルガス『Pars vite et reviens tard』(未訳)
  • 2005年 英 イアン・ランキン『血に問えば』
  • 2006年 英 デイヴィッド・ピース『1974 ジョーカー』
  • 2007年 米 ロバート・リテル『Legends』(未訳)
  • 2008年 米 ジェイムズ・サリス『ドライヴ』
  • 2009年 米 リチャード・スターク(ドナルド・E・ウェストレイク)『Ask the Parrot』(未訳)
  • 2010年 英 デイヴィッド・ピース『TOKYO YEAR ZERO』
  • 2011年 米 ドン・ウィンズロウ『犬の力』
  • 2012年 豪 ピーター・テンプル『Truth』(未訳)
  • 2013年 米 サラ・グラン『Claire deWitt and The City of the Dead』(未訳)

 ピーター・テンプル『Truth』は翻訳ミステリー大賞シンジケートの過去の記事にレビューがある( http://wordpress.local/1324507867 )。

 英語圏の作家が多いが、2004年はフランスのフレッド・ヴァルガスが1位になっており、フランスの作家ではほかにもジャン=クロード・イゾが2001年の1位になっている。またさらにさかのぼると、ブラジルのパトリシア・メロ(Patrícia Melo)やスペインのアンドレウ・マルティン(Andreu Martín)など日本では聞いたこともないような作家が1位になっていたり、受賞作リストを眺めているだけでもなかなか面白い。2位や3位の作品まで見ていくと、スペインのマヌエル・バスケス・モンタルバン『中央委員会殺人事件』、キューバのレオナルド・パドゥーラ『アディオス、ヘミングウェイ』、イスラエルのバチヤ・グール『精神分析ゲーム』など、日本では必ずしも大きな注目を集めなかった(?)作品も受賞作になっている。

 2013年の2位は英語で執筆するナイジェリア人作家ヘロン・ハビラの『Oil on Water』(未訳)だったが、アフリカからはそれ以前にもデオン・マイヤー(デオン・メイヤー)『流血のサファリ』(2009年3位)、ロジャー・スミス『血のケープタウン』(2010年2位)などの受賞作が出ている。2人とも南アフリカ共和国の作家である。フランス語で書くアルジェリア人作家のヤスミナ・カドラも過去に未邦訳作品でこの賞を受賞している(2002年2位)。

◆おまけ:日本のミステリー小説の独訳状況

 日本ではドイツ語圏ミステリーの邦訳が増加しつつあるように思うが、一方でドイツ語に翻訳された日本のミステリー小説は今までに20冊ぐらいしかない。2011年以降に訳されたものとしては東野圭吾『容疑者Xの献身』、宮部みゆき『火車』、高橋克彦『写楽殺人事件』、西村京太郎『南神威島(みなみかむいとう)』がある。このうち『容疑者Xの献身』は日本の国際交流基金の助成金を受けており、それ以外の3冊は日本の文化庁の「現代日本文学の翻訳・普及事業」(JLPP)で翻訳出版されたものである。東野圭吾はこれ以前にも『レイクサイド』が訳されているが、ほかの3作家はこれが初の単行本。つまり、日本でトップクラスの人気を誇る宮部みゆきでさえ、日本の官庁が動き出すまで1作もドイツ語に訳されていなかったのである。今後このような状況が変わっていくことはあるのだろうか。

 戸川昌子の『猟人日記』『深い失速』が日本では現在新刊で買えないのに、ドイツでは購入可能だというのは面白い。戸川昌子の作品は1990年代に、おそらくは英訳版からの重訳で『大いなる幻影』『猟人日記』『深い失速』『火の接吻』の4作がドイツ語になっており、『火の接吻』を除く3作は今でも新刊が流通している。

 『容疑者Xの献身』のドイツ語訳者は村上春樹や小川洋子、川上弘美といった現代日本作家の作品を多数訳しているウルズラ・グレーフェ氏。来月には同じ訳者で東野圭吾『聖女の救済』のドイツ語訳も出る予定である。

◆関連リンク

ドイツ・ミステリーの館『青猫亭』

http://homepage2.nifty.com/yoshi_fukumoto/

 ドイツ文学者の福本義憲氏が2000年に開設した老舗のドイツ語圏ミステリー情報サイト。ドイツ語圏のミステリー賞についても非常に詳しく紹介されている。

 以下は筆者のサイトのページ。@wikiの大規模メンテナンスのため1月18日午後2時から19日午後10時までは閲覧できなくなるそうなのでご注意ください。

ドイツ語圏ミステリ邦訳一覧

http://www36.atwiki.jp/asianmystery/pages/228.html

ドイツ語圏のミステリファンが選ぶドイツ語圏ミステリベスト100(2002年)

http://www36.atwiki.jp/asianmystery/pages/227.html

ドイツ語圏のミステリファンが選ぶミステリ・オールタイムベスト119(1990年)

http://www36.atwiki.jp/asianmystery/pages/222.html

ドイツ語に翻訳された日本の推理小説の一覧

http://www36.atwiki.jp/asianmystery/pages/55.html

シャーロック・ホームズの異郷のライヴァルたち(1) ドイツ語圏編

http://www36.atwiki.jp/asianmystery/pages/207.html

松川 良宏(まつかわ よしひろ)

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 アジアミステリ研究家。『ハヤカワ ミステリマガジン』2012年2月号(アジアミステリ特集号)に「東アジア推理小説の日本における受容史」寄稿。「××(国・地域名)に推理小説はない」、という類の迷信を一つずつ消していくのが当面の目標。

 Webサイト: http://www36.atwiki.jp/asianmystery/

 twitterアカウント: http://twitter.com/Colorless_Ideas

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