ドイツミステリへの招待状 その1

 お初でございます。ドイツ文学の翻訳をしている酒寄です。以後お見知りおきを。

 じつをいうと、ぼくの専門は児童文学のファンタジーや歴史小説で、これまでほとんどミステリを翻訳してきたわけではありません。これから4回にわたってエッセイを書かせていただきますが、今回はまずどうして急にミステリを翻訳することになったか、そのいきさつを少々ご紹介しましょう。

 翻訳小説の出版全般が低調なのはいうまでもありませんが、特にファンタジーはハリポタブームが去ったあと、それはそれは悲惨な状況で、これはという良作があるにも関わらず、なかなか出版の機会に恵まれなくなりました。これまで本作りそのものに遊びの要素が盛りこめる単行本にこだわっていましたが、あるとき文庫の形でいったん広く読者を求めることも必要だと考えたのでした。

 それで相談に行ったのが東京創元社でした。なぜここかというと、それはとにもかくにもラヴクラフト全集を出版しているところだからに尽きます。ぼくは高校時代に『指輪物語』とともにラヴクラフトに惚れこみ、以来ずっとファンタジーを追いかけてきたからです。

 はじめて新小川町を訪ねたのは2010年1月のことでした。同じく翻訳をしている連れ合いの遠山明子と、これはというファンタジーのレジュメを作成し、満を持して編集者を訪ねました。ところがここからが妙な話で、なぜか本題のファンタジーそっちのけで、ドイツミステリの話題で盛り上がってしまったのです。このとき、だめもとで一緒に持っていたのがフレドゥン・キアンプール作『この世の涯てまで、よろしく』のレジュメでした。そしてファンタジー作家のラルフ・イーザウについて話しているときも、彼が書いたミステリ要素の強い『緋色の楽譜』ばかりが話題になってしまいました。

 さて、これからが怒濤の勢いです。キアンプールは幸いすぐに出版が決まり、『緋色の楽譜』も続いてGOサインが出ました。そこでぼくは考えました。ここはひとつ、これまで読みためたミステリの引き出しを開けてもいいかもしれない、と。その結果、2012年が少なくとも3タイトル、2013年が少なくとも5タイトルのミステリの翻訳出版が射程に入っています。どうせ出すならここ十年くらいで勢いの出たドイツミステリの幅と深さを日本の読者に知ってもらいたいといろいろ仕掛けを考えました。今年出版した作品は、ある意味ジャブです。来年から直球勝負します。警察小説、ホラー系ミステリ、ゴシックミステリなどなど、それぞれのジャンルのぼくにとってのベストを順次紹介いたします。

 正直いって、ドイツミステリはこれまで日本ではなかなか市民権を得られなかったように思います。原因のひとつは、山のようにある英米のミステリと十分に差異化が図られていなかったからではないでしょうか。ドイツ人にしか書けないミステリは何か、それをまる一年かけて考えました。

 来年はまず、テーマで攻めます。ドイツ人にとって歴史的に絶対避けて通れないのが、もちろんナチの過去です。ミステリ向けの素材には事欠きません。来年は、ナチを扱った個性的なミステリを2タイトル紹介します。1冊は女性作家のもの、もう1冊は男性作家のもの。主人公は男性刑事と女性刑事のペアで展開する田舎が舞台の警察小説、もう一方は一匹狼のやさぐれ刑事が活躍するベルリンを舞台にした警察小説。前者は現代が舞台で、ナチの過去がふつふつと浮かび上がります。90歳になるユダヤ人の老人がある日、後頭部を銃(しかも第2次世界大戦時のワルサーP30)で撃ち抜かれて発見されます。司法解剖すると、彼の上腕から武装親衛隊の入れ墨が……ここから謎の連続殺人事件がはじまり、戦争末期の壮絶な事件までが明るみにでます。後者はゆくゆくは6巻本になる予定の連作で、1929年から1936年にいたるナチの台頭、権力掌握に翻弄されたベルリンが活写されます。現在、3巻まで出版され、主人公は今1931年にいます。主人公が絡む相手はベルリンの暗黒街、共産党、そしてもちろんナチ突撃隊。ロシアの政治亡命者がロシア共産党を打倒するために金塊をベルリンに持ちこんだかと思えば、無声映画からトーキーへの移行期に女優連続殺人事件が起こったり、ニューヨークから名うてのユダヤ人殺し屋がやってきて、ベルリンの暗黒街も警察も蜂の巣をつついた状態になり……。

 さて、読者のみなさんがこの2タイトルのどちらを面白いと思うか、これがぼくにとってのドイツミステリの未来を占う試金石になることでしょう。

酒寄進一(さかより しんいち)。1958年生まれ。ドイツ文学翻訳家。和光大学教授。主な訳書に、イーザウ《ネシャン・サーガ》シリーズ、《ミラート年代記》シリーズ、『銀の感覚』、『緋色の楽譜』、コルドン『ベルリン 1919』『ベルリン 1933』『ベルリン 1945』、ブレヒト『三文オペラ』、ヴェデキント『春のめざめ——子どもたちの悲劇』、キアンプール『この世の涯てまで、よろしく』、フォン・シーラッハ『犯罪』など。

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