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東京創元社における翻訳ミステリ出版前史(承前)
背景説明のつもりの話が存外長くなってしまいましたが、もう暫くご辛抱下さい。
「クライム・クラブ」発刊の翌7月から「ディクスン・カー作品集」全12巻の刊行が始まります。カーは「世界推理小説全集」に『帽子蒐集狂事件』『赤後家の殺人』『アラビアンナイトの殺人』、「世界大ロマン全集」に『髑髏城』(と短編)が入っていて、それと重複しない12冊が選ばれています。翻訳は、それまで東京創元社ではカーを一手にやっていた宇野利泰さんに加え、井上一夫、長谷川修二、宮西豊逸、中村能三の4氏が分担しています。さらにその翌月の8月からは「世界恐怖小説全集」全12巻が始まります。これは英米作品を平井呈一、フランスを澁澤龍彦、ロシアを原卓也、そしてドイツを植田敏郎の各氏が中心となって作品選択したと思われ、この12巻と「世界大ロマン全集」の『魔人ドラキュラ』や江戸川乱歩編『怪奇小説傑作集』1・2などが、後に創元推理文庫に怪奇・冒険部門が新設された際、怪奇部門の中核をなすことになります。
そして年を跨いで昭和34年1月から「アルセーヌ・リュパン全集」全12巻が石川湧、井上勇両氏によって翻訳刊行されます。前にも書きましたように海外特派員として欧米に駐在していた経験のある井上勇氏は、先の「エラリー・クイーン作品集」12巻の全訳を終え、直ちに今度はフランス語のリュパンを手がけていることになります。井上さんは半分の5巻、9作品を担当しています。リュパン(ルパン)譚はそれまで、保篠龍緒氏が独占的に翻訳権を所有していると主張していたのですが、フランス著作権事務所がルブランの遺族に確認すると、そのような事実はない、という答が返ってきました。このため、この時点でベルヌ条約の10年留保規定を適用できない作品の翻訳権を改めて取り直そう、ということになったのです。そのときリュパンの新訳を出したいと名乗りを上げたのが新潮社(の文庫)、ポプラ社(の児童書)、そして東京創元社(の全集)でした。出版形態がそれぞれ違うことを知り、仲介に入ったフランス著作権事務所の大岡裁きで、新潮社には文庫の、ポプラ社には児童書の、そして東京創元社には全集版の権利を与えることにしたのです。ぼくが入社した頃、読者からの問い合わせで多かった質問の一つが、東京創元社ではかつてリュパン全集を出していたのに、どうして文庫には『奇巌城』など6冊しか入っていないのか、というものでした。それはこういう事情によるものだったのです。ただし、新潮社は堀口大学さんに翻訳を依頼したのですが、10作訳したところで、堀口さんからここまでにしたいと申し入れ、新潮社も了承したようです。それなら東京創元社で権利を取りなおして出しませんか、と厚木に進言しました。かくて昭和47年の年末に『金三角』を文庫化したのを皮切りに順次上梓していったのです。と同時に、当時リーヴル・ド・ポッシュで刊行されていたルブランのペイパーバックを買い揃え、それまで翻訳されていなかった作品や、前記「アルセーヌ・リュパン全集」時には入れていなかった作品をこの際翻訳して出そうということになり、『オルヌカン城の謎』『綱渡りのドロテ』『ノー・マンズ・ランド』『三つの目』『バルタザールの風変わりな毎日』を新訳で加えたのです。
リュパンは当時の時点での全作品を収め、クイーンは国名シリーズと最初の二短編集という内容ですから作品選択に監修者を置かなくてもよかったのでしょう。カーはそれこそ江戸川乱歩監修にすれば面白かったと思うのですが、これも社内編集(ということは、厚木のセレクト)だったと思われます。それに対し「世界名作推理小説大系」は前記「世界推理小説全集」はじめ、「世界大ロマン全集」「現代推理小説全集」「クライム・クラブ」「アルセーヌ・リュパン全集」「エラリー・クイーン作品集」「ディクスン・カー作品集」の中から全集収録に相応しい作品を選んで収められています。これまで上梓してきた一連の全集叢書類を統合した、謂わば本当の意味での世界推理小説全集として企画編集されたものだったと思われます。そういう意味ではこの「大系」こそ監修者を置くべきだと思うのですが、そうしなかったところに、厚木の「自負」が感じられます。それは、「大系」の中に初めて収められた作品の顔ぶれを見るとはっきりします。アンブラー『あるスパイへの墓碑銘』、ロス・マクドナルド『憂愁の町』(青いジャングル)、ウォルシュ『暗い窓』、マッギヴァーン『悪徳警官』、ベン・ベンスン『九時間目』(脱獄九時間目)、フレドリック・ブラウン『B・ガール』、フレミング『ロシアから愛をこめて』、チェイス『世界をおれのポケットに』、そしてケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』なのです。これらの作品に、厚木の編集者としての「眼」がはっきりと現れています。「世界推理小説全集」から「アルセーヌ・リュパン全集」まで237冊の作品を紹介してきて、謂わばその総決算として刊行されたこの「世界名作推理小説大系」には、厚木の様々な思いが凝縮されているように思うのです。
田中西二郎氏
田中訳の『郵便配達』は1961年2月、「大系」のために訳し下ろされました。そしてこの年の9月、東京創元社は倒産します。翌62年1月に東京創元新社として債権者重役の下、再スタートを切るのですが、田中さんはこの翻訳を新潮社に持ち込みます。そして63年同書は新潮文庫の一冊として刊行されたのです。このとき、厚木は大久保康雄先生のところへ行って涙を流したというのです。この話は、大久保先生から直接うかがったのか、あるいは中村能三さんあたりから聞いたのか、はっきり覚えていませんが、それを耳にしてぼくは衝撃を覚えました。と同時に、田中さんが新社スタート以来、推理文庫の翻訳陣に登用されていない理由が理解できたのです。
それでもぼくは田中さんの翻訳が好きでしたから、なんとかお願いできないか、とその機会をうかがっていました。あるいは大久保先生あたりから田中をまた使ってもらえないかね、と密かに頼まれたことがあったかも知れません。
その機会は意外と早くやってきました。ぼくが東京創元社に入ったのは1970年の4月。しばらくすると出版界は俄に文庫創刊ブームを迎えます。ライヴァル会社の早川書房が1970年8月にSF文庫を創刊。そして1971年7月に講談社文庫がスタートします。一挙に55点の新刊を刊行し、文庫戦争が本格化するのです。爾来、1974年6月に文春文庫、1997年12月に小学館……といった具合に各社が文庫出版に参入してきます。東京創元社としてもなにか対抗策を練ろうと、全3巻の全集版として刊行していた『ポオ全集』の文庫化を計画し、厚木とともに佐伯彰一先生のところにご挨拶にうかがい、とりあえず全集版1、2巻の小説編を全4巻の『ポオ小説全集』として刊行することになりました。このとき、ぼくは創元版が底本にしたというハリソン版を丸善に注文して購入し、引き比べてみて、1841年の’Cryptography’というエッセイが全集版に収録されていないことを見つけます。これは推理文庫版のポオ全集としては是非入れたい、と厚木に話し、訳し下ろしで収録することになりました。そのとき、ぼくはこの機を逃すまい、とばかり、思い切って厚木に持ちかけたのです。この訳を田中西二郎さんに頼んでいいですか、と。厚木は意外にあっさり、承諾してくれました。すでに10年近くの歳月が経っており、菊池寛ではありませんが、当時の激情も今は昔語りという心境だったかと思います。
ぼくはさっそく田中さんに手紙を出してエッセイの翻訳をお願いしました。ポオの全集版には「告げ口心臓」「陥穽と振子」「早まった埋葬」「長方形の箱」「アモンティリャアドの酒樽」と5編の田中訳が収められています。文庫編入に際しての赤入れをお願いがてら、新しく短いエッセイの翻訳を一つお願いできないか、という依頼状を認めました。田中さんからはすぐに快諾のご返事を戴き、池袋の外れにあるお宅にうかがったのでした。
『白鯨』はじめ、ブロンテやスティーヴンスンなど、英米の世界文学の翻訳で親しんでいた翻訳界の大家に、ぼくはこのとき初めてお目にかかったのですが、長身痩躯の、文士の風格を備えた初対面時の印象は強烈に脳裏に刻まれています。お互い初めは堅苦しく鯱張って時候の挨拶などを交わしていたのですが、闊達な奥様がその堅苦しい雰囲気を吹き飛ばしてくれて、辞去する頃にはすっかり寛いだ気分で帰路についたのでした。その後、クリスティの『スタイルズの怪事件』やクロフツの『チョールフォント荘の恐怖』という創元推理文庫の旧訳を訳し直していただく仕事をお願いすることになるのですが、1979年の年頭にお亡くなりになり、田中さんとはわずか5年ほどのお付き合いでした。
亡くなった後、奥様からうかがったところによると、田中さんは大変な寂しがり屋だったそうで、奥様が買い物などで外出し、帰ってみると、いつでも外出できる姿に着替えて、電話機の傍でじっと正座していた、というのです。享年71でした。
◇戸川安宣(とがわ やすのぶ) 1947年長野県生まれ。立教大学文学部史学科卒。1970年東京創元社入社。2012年定年退職。主な著作『少年探偵団読本』(情報センター出版局 共著)。日本推理作家協会、本格ミステリ作家クラブ、SRの会会員。 |
●翻訳家交遊録