■編集者・厚木淳

 2014年の7月11日、東京・神楽坂の出版クラブで、東京創元社60周年記念の翻訳家謝恩パーティがありました。

 受付の後ろに立ち、続々とやってくる来賓の方を見ていたぼくには、感慨深いものがありました。そのほとんどが女性、というのは少しオーバーですが、でも7割近くは間違いなくそうだったのではないでしょうか。

 ぼくが入社した当時、社には一つの不文律がありました。女性翻訳家は二人まで、というものです。こう言うとびっくりされることでしょう。就労の機会均等云々を持ち出すまでもなく、今このようなことを公言すると、社会的な非難を浴びて、それこそブラック企業だと言われかねません。

 これは当時の編集部長、厚木淳の若い頃のトラウマに起因するもののようでした。まだ創元推理文庫が創刊してまもなくの頃、喫茶店で打ち合わせ中のさる女性翻訳家に原稿を突っ返そうとしたところ、衆人環視の中、机に突っ伏してわっと泣かれてしまったというのです。以来、女性翻訳家は敬して遠ざけていた、とは厚木から直接聞いた話です。

 実際、ぼくが入った頃、東京創元社でお願いしていた女性翻訳家は、この日のパーティに来られた中の最年長かと思われる深町眞理子さんと、小尾芙佐さんのお二人でした。

 その後、あちこちで翻訳教室や翻訳学校が設立されるようになると、その講師を務めていた翻訳家から、優秀な人材が輩出したからぜひ使ってくれないか、というお話が舞い込むようになります。中村能三さんが吉野美恵子さんを育てたのを皮切りに、山田順子さん、鴻巣友季子さん、佐々田雅子さん……と、次々と登場する新人のほとんどは女性でした。

 女性翻訳家は二人まで、と言っていた厚木が言い訳のように唱えていた理由は、男の方が雑学の知識がある、というものでした。大学でまじめに授業を聞いているのは女性だろうが、男子学生はその分、遊んだり、アルバイトをしたり、何かにハマッて没頭したりしている。筆記試験では劣っても、面接をしてみると面白い人材は圧倒的に男だ、と。

 なるほどそういうところは確かにありましたが、ぼくが入社試験を担当するようになった頃には、その数が逆転し始めていました。そして年を追うごとに、面接をしてみると男子学生がつまらなくなっていくのが、手に取るようにわかったのです。といって、筆記試験が良くなったわけでもありません。勉強するようになったわけではないのに、かといって遊んでいたわけでもない、それでは四年間、いったいなにをしていたのか、と思うような、人は良さそうだけれど気の弱い男子が増えていきました。

 厚木理論に照らせば、そんな男に翻訳は任せられない、ということになります。女性翻訳家が席巻するようになったのは、世の趨勢として当然のことだったようです。

厚木は、ぼくが入社した頃には編集部長として週一度社に顔を出し、それに合わせて各種会議などが設定されていました。そして編集の現場を取り仕切っていた係長の五所英男と近くの喫茶店に出かけて企画を含めた打ち合わせをし、その結果を元にわれわれ編集部員に、ではこれをやってください、という指示が下される、というシステムになっていたのです。入社当時は、五所の下にぼくを入れて三名の編集部員がいたのですが、翌年にはぼくの上の二人がそれぞれの事情で相次いで退社し、三年目には五所も辞めるという事態になって、気がついてみると編集部に実働部員がぼく独り、ということになったのです。

 このとき、「バルザック全集」がすでにスタートしており(1973年6月より)、ぼくは入社早々、月報の担当を命じられ、監修者の水野亮先生のお宅に月に一度はうかがっていたのですが、こうなると月報だけ、というわけにはいきません。そしてさらに「ヴィリエ・ド・リラダン全集」の準備が進行していたのですが、ぼくはその内容を全く知らされていませんでした。ただ、一度、五所からこれを読んでおいてください、と岩波文庫の渡辺一夫訳『未来のイヴ』を渡されたことがありました。

五所が辞めた後、社長の秋山孝男と厚木に連れられて、齋藤先生にお目にかかることになったとき、秋山からその前に次の二つをしっかり覚えておくように、と言い渡されました。一つは「齋藤磯雄」と正字で書けるように、ということ。斉藤でも斎藤でもない、「齋」の字もさることながら、「藤」のくさかんむりは、間を離すように、と注意されました。次にリラダンをフルネームで言えるように、というのです。ジャン・マリ・マティアス・フィリップ・オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン(Jean Marie Mathias Philippe Auguste de Villiers de L’Isle Adam)というのが、フルネーム。寿限無より短いですけどね。

閑話休題。厚木は植草甚一さん同様、英語とフランス語の読める編集者でした。そこで植草さんが現代推理小説全集で紹介した『その子を殺すな』、クライム・クラブの『死刑台のエレベーター』のノエル・カレフや、『牝狼』のボアロー&ナルスジャック、クライム・クラブで『藁の女』を紹介したアルレェ(アルレー)、『殺人交叉点』のフレッド・カサックの継続企画を考え、同時にミッシェル・ルブランやセバスチャン・ジャプリゾなどを見つけてきて紹介したのは、厚木の功績と言えます。ミステリの紹介者というと、圧倒的に英語読みが多く、その他の言語は翻訳出版の初期には翻訳家の助言に依るところが大きかったのです。翻訳ミステリを刊行していた出版社に属する編集者でフランス語読みというと、たとえば早川書房では長島良三、菅野圀彦、河出書房の野口雄司さんなど、数える程しかおりません。

 東京創元社は歴代、フランス語読みの編集者が多く、宮崎嶺雄、谷口正元(曽根元吉)といった先輩編集者がおり、厚木の後には現編集部長の井垣真理がいます。

 厚木がひとりで創元推理文庫の企画を立てていた頃の特色と云えば、まずフレドリック・ブラウン、カトリーヌ・アルレー、ハドリー・チェイス、そしてF・W・クロフツを集中的に紹介したこと、次に『失踪当時の服装は』のヒラリー・ウォー、『深夜の張り込み』のトマス・ウォルシュ、『深夜特捜隊』のデビッド・グーディス、『九時間目』『脱獄九時間目』と改題)のベン・ベンスン、『処刑6日前』のジョナサン・ラティマーといった、ハードボイルド、警察小説系の渋い作家を紹介したこと、三つ目に、フランス・ミステリをもう一つの軸としてとらえていたことでしょう。たとえば、ハドリー・チェイスはイギリスの作家ですが、フランスで人気を博し、評価が高かったことが、厚木の目をこの作家に止めさせたのではないかと思います。余談ですが、この辺は逢坂剛さんの大のお気に入りで、お目にかかるとよく、ハドリー・チェイスやベン・ベンスン、トマス・ウォルシュなどの話で盛り上がったものです。

■宇野利泰氏と菊池光氏——翻訳の両極にいたお二人

 編集者になった早々から仕事をご一緒させていただいた方の中に宇野利泰、菊池光両先生がいらっしゃいます。いろいろな意味で好対照のお二人でした。

 ある時、都筑道夫さんに、ミステリの翻訳家でナンバーワンは誰か、とうかがったことがあります。都筑さんは暫く考えてから、中村能三さんか宇野利泰さん、と二人の名を挙げて、宇野さんかな、とおっしゃいました。よく辞書を引いて、読み込んでいるから、と。

 それに対し、菊池さんの翻訳については書評などで常に辛口の評価を下されていました。「菊池光の翻訳の会話のまずさにおどろいて、読まなくなったことがあった」と『都筑道夫の読ホリデイ』で書いています。

 これは都筑さんの翻訳に対する考え方を反映した評価だったと思います。都筑さんには『推理作家の出来るまで』という長大な自伝があります。これを読んでぼくは驚嘆しました。凄い人だと思っていたのですが、ここまで凄い人だとは! その好例が、都筑さんの英語学習法です。ほとんど独学で、初めは辞書と首っ引きで、それこそthis, is, a, penと4語をそれぞれ辞書で引き、これはペンです、という訳文をひねり出す、そういう信じられないような工程を経て翻訳までなさっているのですから。

 語学を、文字から学ぶ人と、会話から入る人がいますが、宇野さんは前者、菊池さんは後者の代表格でしょう。そして都筑さんは前者の見本のような方でした。

 都筑さんで思い出したのですが、『読ホリデイ』の中で、都筑さんは翻訳について次のように言っています。「訳者は作者の、日本での代理人なのだ。読者に対しても、作者に対しても、責任がある」。そして、「翻訳者は日本版の演出者であり、演出者はいわば読者代表なのだ。どう読んだかを、他の読者にしめすわけだ」と。けだし至言だと思います。

戸川安宣(とがわ やすのぶ)

1947年長野県生まれ。立教大学文学部史学科卒。1970年東京創元社入社。2012年定年退職。主な著作『少年探偵団読本』(情報センター出版局 共著)。日本推理作家協会、本格ミステリ作家クラブ、SRの会会員。

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