■乾信一郎さん

 今回は乾信一郎さんについて書いてみたいと思います。

 この度、歌人でSFファンでもある広島の天瀬裕康氏が「悲しくてもユーモアを 乾信一郎の自伝的な評伝」を纏められ、それを拝読させて戴きました。

 綿密な調査の許に書かれた本稿は、乾信四郎と書いて、かんしんしろう、と読ませるつもりだったが気恥ずかしいので信一郎にした、などというペンネーム誕生秘話をはじめ、トリビア情報が満載。その翻訳者としての筆名は、本名の上塚貞雄に始まり、乾信四郎を経た乾信一郎名義が最も使用頻度が高く、そのほかに小田勝平、山町帆三、吉岡龍、岩田文生、失名氏、高樹十四夫などがある、等々、実に示唆に富んだ内容でした。乾さんご自身に、『「新青年」の頃』(1991年 早川書房)など、断片的な回想録はありますが、天瀬さんの労作が上梓されることを祈ってやみません。

 これを読んで発見したのは、おそらくぼくがお仕事をさせていただいた翻訳家の中で、一番キャリアの長い方が、乾さんだったのではないか、という事実でした。

 職業翻訳家のトップランナーである大久保康雄氏が単独訳を出されたのは、おそらく昭和6年(1931年)刊のポール・トレント『共産結婚』(尖端社)が最初でしょう。となると、乾さんが本名の上塚貞雄名義で、〈新青年〉誌の昭和3年5月号にP・G・ウッドハウスの「写真屋の恋」とE・P・バトラーの「守り神」を掲載したほうが早いことになります。

 このとき乾さんは未だ青山学院大学の3年生、弱冠22歳でした。この翻訳で、38円40銭の原稿料を得たといいます。大学卒の初任給が35円程度という時代でした。乾さんはさらにその翌年にはユーモア小説を書いて〈新青年〉に掲載され、作家としてもデビューを果たしたのです。その後、〈新青年〉誌の呼び物の一つとなったユーモア・コント「阿呆宮」の執筆も、乾さんの代表的な業績でしょう。

 これを機に、乾さんと博文館や当時同社の編集者であった横溝正史とのつきあいが始まります。そして同社の渡辺温が谷崎潤一郎宅に原稿依頼に行った帰り、夙川の踏切で事故死したため、代わりに博文館の編集者となり、〈講談雑誌〉や〈新青年〉の編集長を歴任することになるのです。探偵小説が思うように書けなくなった時、横溝正史に人形佐七などの捕物帖を書いたら、と持ちかけたのはぼくなんだよ、とは乾さんから伺った逸話です。

 1938年、乾さんも同社を退社して筆で立つ決意をします。以後、放送作家やユーモア、動物ものの作家として活躍するようになり、1960年代後半からは翻訳を主な仕事とされるようになります。

 それ以前の訳書ではP・G・ウッドハウスなどのユーモア小説の翻訳がやはり目を引きますが、一番気になるのは1951年、雄鶏社から上梓されたF・W・クロフツの『マギル卿最後の旅』です。というのも、探偵小説好きだった折口信夫が生前最後に読んだ本がクロフツのこの本だった、と何かで読んだことがあるからです。『マギル卿最後の旅』は戦前の1937年に日本公論社から邦訳が出ていますが、乾訳は折口の亡くなる二年前の刊行ですから、時期的にはぴったりな気がします。折口信夫が最後に読んだ本が乾さんの翻訳であったという可能性は、極めて高いのではないでしょうか。

 さて、ぼくが担当させていただいたのは、E・D・ビガーズの『チャーリー・チャンの追跡』Behind that Curtain (1928)、とG・K・チェスタトン編『探偵小説の世紀 下』A Century of Detective Stories (1935) に収録されたやはりビガーズの「一ドル金貨を追え」The Dollar Chasers (1924) という長めの中編でした。創元推理文庫からはその前に、マッカレーの『地下鉄サム』が出ています。これは〈新青年〉時代からなさっていた訳稿を1956年から刊行していた「世界大ロマン全集」の一巻に収めさせて戴いたものの文庫化で、1959年7月、創元推理文庫創刊間もない時期に上梓されました。大ロマン版には、これも乾さんが戦前おやりになったウッドハウスの「専用心配係」が併載されています。

 ですから、『チャーリー・チャンの追跡』と「一ドル金貨を追え」は、東京創元社として乾さんに訳し下ろしをお願いした初めてのお仕事だったことになります。ビガーズはその前に『チャーリー・チャンの活躍』Charlie Chan Carries On (1930)を佐倉潤吾さんの訳で刊行し、これがよく売れていました。たまたまこの翻訳をお願いした1970年頃、チャーリー・チャンものが揃ってPyramid Books から復刊されたのを、銀座のイエナだったか、日本橋の丸善だったかで見つけ、それならもう一冊くらい出そうか、と検討し、『カーテンの彼方』の訳題で既訳のあったこの作品を乾さんに依頼した、という次第でした。

 1972年2月の刊行、ということは前年の春頃お願いしたのではないでしょうか。ぼくが入社した年の終わりか2年目の初めではないかと思われます。そんな頃にもう企画を立てて、翻訳家の先生に依頼をしていたとは、ちょっと自分でも意外な感じがしますが、洋書店の店頭でPyramid Booksのペイパーバックを見かけ、纏めて購入したことはよく覚えていますから、これをやりましょう、と編集部長の厚木に持ちかけて企画を通して貰ったに違いありません。

 久し振りに書架から『チャーリー・チャンの追跡』を取り出してみると、1ページ目から割り付けの寸法を間違えていて、赤面ものの一冊でした。

 乾さんのお宅は駒込病院のすぐ近くで、御茶ノ水駅前から駒込病院行きの都バスに乗って行ったことを覚えています。先生のお宅には飼い猫のほかに置物やら縫いぐるみやらの猫があちこちにあるばかりでなく、庭には近隣の猫が集まってきていて、宛ら猫屋敷の感がありました。

 そして乾さんご自身はというと、長身痩躯の身体にチェックのジャケットを召して、昭和初期のモボというのはこういう人のことか、という正にモデルのような方でした。

 天瀬さんのお書きになったものによると、乾さんは1906年の5月、アメリカのシアトルで生まれ、小学校に入るため、ご両親の里の熊本に戻ったとのことですが、興が乗ってお話しになる内に、巻き舌のべらんめえ口調になるところがまたニューヨーカーならぬ新青年人という趣で、微笑ましくそのお話を拝聴したものです。

 乾さんの訳業を概観すると、ユーモアものと動物ものが目に付くのは当然のことでしょう。ジョイス・ポーターのドーヴァー警部ものが廻ってきたのもそのためでしょうが、その一方でアリステア・マクリーンからマイクル・クライトン、あるいはトマス・トライオンと非常に幅広いジャンルの小説を手がけておられます。さらにアンソニー・バージェスの『時計じかけのオレンジ』A Clockwork Orange (1962) や、ジョージ・バクストの『ある奇妙な死』A Queer Kind of Death (1966)といった前衛的とも言える作品を60代半ばに訳しておられます。『時計じかけのオレンジ』は主人公の少年たちの言葉が難解で、ロシア語を元にし、しゃれや言葉遊びの横溢するこの会話文に手を焼いたことを、あとがきで吐露しておられます。『ある奇妙な死』はファロウ・ラブという黒人でゲイの刑事を主人公にした三部作の第一作なのですが、とうとうこの第一作しか邦訳は刊行されませんでした。売れ行きの関係かと思われますが、実はこの連作には三部作に亘る仕掛けがあって、そういう意味でも第一部しか訳されなかったのは、誠に残念というしかありません。ビートルズの「抱きしめたい」を「君の手を握りたい」といった具合に訳されたりしているところはあったと思いますが(その辺は、編集者がフォローすべきだったのでは)、乾さんの訳は、非常に意を尽くしたものだったと思います。

天瀬氏によると、乾さんの長年に亘る訳業の中で、「将来に残したい名訳を三つ挙げる」とすると、それはマッカレーの『地下鉄サム』、バージェスの『時計じかけのオレンジ』、そして『アガサ・クリスティー自伝』だろう、と言っておられます。

 クリスティの自伝は早川書房から1978年、2巻本の単行本として刊行されました。ある日、ぼくがお宅におうかがうと、乾さんは待ち構えていたように奥様にあれを、とおっしゃり、ひとつ頷かれた奥様が奥の部屋からハードカバーを二冊持ってこられ、今度こういう仕事をしたので、ぜひ読んでみてください、と渡してくださったのが、『アガサ・クリスティー自伝』でした。そのときの乾さんの誇らしげなお顔が忘れられません。クリスティ晩年の作品を何作か訳された乾さんにとって、ミステリの女王の自伝を訳したというのは、格別に嬉しい仕事だったことでしょう。

 2000年(平成12年)の1月29日、93歳でお亡くなりになりました。

戸川安宣(とがわ やすのぶ)

1947年長野県生まれ。立教大学文学部史学科卒。1970年東京創元社入社。2012年定年退職。主な著作『少年探偵団読本』(情報センター出版局 共著)。日本推理作家協会、本格ミステリ作家クラブ、SRの会会員。

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