こういう思い出話を書いていると、ときおり後ろめたさを感じることがある。要は、当時といまの翻訳業界の落差(格差)である。あの頃はいうなれば「翻訳バブル」、初版部数も重版の頻度も仕事の数もいまよりはるかに多かった。そんな頃の話を得々と書いていていいものだろうか、氷河期に頑張っている現役の翻訳者の方々は不快ではないだろうかという思いが頭の隅を離れないのである。

 と言い訳めいた前ふりをしてから、お酒の話を始めることにしよう。まだ安月給の編集者に同情してだろう、当時はずいぶん翻訳者の方がご馳走してくれた。ふつう接待といえば出版社側がするものだが、無知というか幼さというか、それほど不自然には思わなかった。そのくせ翻訳者になってからは、担当編集者にやれ銀座の文壇バーだ、やれ高級天ぷら屋だ、と連れていってもらって涼しい顔をしていたのだから、なにをかいわんやである。せいぜい今後はささやかな社会奉仕でもしないと、いい死に方はできないかもしれない。

 翻訳者の方々それぞれに定番があって、たとえば小倉多加志さんには西新宿の台湾料理、沢川進さんには南千住の老舗うなぎ屋、中村保男さんには神田の鳥なべ屋で何度も呑ませていただいた。どれも繰り返し訪れても飽きない店だった。いまと違ってグルメ情報誌などない時代だったから、おかげでずいぶん自分の世界が広がったように感じたものだ。

 もちろん、呑みながら聞くお話も楽しかった。談論風発、長年女子大学で教えられていた小倉さんから、冬の雨の日などに教室に入ると学生の化粧の濃密な香りがむっと押し寄せてきて息が詰まると伺って妄想をふくらませたり、ジャズ喫茶を経営したことのある沢川さんが日本ではなんでビル・エヴァンズではなくビル・エバンスと表記するんだと憤る姿に原音表記にこだわる姿勢を学ばせてもらったりした。

 そんななかでも印象が強烈なのが、小泉喜美子さんだ。『弁護側の証人』で知られた推理作家だが、翻訳のほうは本格的に始められたばかりの頃で、こちらも大ベテラン翻訳者よりはいくぶん気楽に接することができた。就業時刻が終わる頃に電話があったり、わざわざ会社においでになったりしてお誘いがかかる。まだ仕事があるのに困ったなとつぶやきながらも、いそいそと出かけていった。場所は新宿のゴールデン街が多かったが、ほかにもあちこち連れまわしていただいた。一度きりだが、全盛期の「青い部屋」にもお供したことがある。戸川昌子さんのやっていた伝説的なシャンソンサロンで、三島由紀夫、美輪明宏などが常連だったという、レズビアンバーのはしりである。車座のような配置の席に座って呑みながらシャンソンをライブで聞くいかにも都会的で、少々怪しい雰囲気のある店だったが、あいにくの暗い照明のために酔眼では有名人の姿を見つけることはできなかった。同年代で、しかも女流推理作家同士だった戸川さんと小泉さんが打ち解けて話していらしたのが記憶に残っている。

 小泉さんは築地の洋服屋さんのお嬢さんで(つい最近まで築地を歩いていると、ビルの3階か4階ぐらいに弟さんが継がれた「杉山洋服店」の看板が出ているのを目にしたが、いまはどうなっているだろうか)、歌舞伎座は目と鼻の先だから、自然歌舞伎にも詳しかった。根っからの都会派で、レイモンド・チャンドラーとハードボイルドを愛し、ウィットやユーモアのないミステリを嫌っていた。翻訳がしたくて飛び込みで出版社をまわっていたら運よく早川書房で下訳者として採用され、ついでにそこで働いていた敏腕編集者に配偶者として採用されて結婚。だが、出版社を辞めてハードボイルド作家となった夫は妻に創作と翻訳を禁じる。その禁を破って文芸誌に応募した小説が、入選は逃したものの選考委員の推挙で単行本として発売され好評を得る。以降、筆を断つが、このこともしこりとなって後年離婚。その後、創作と翻訳の二本立てで仕事を再開……と、ドラマにできそうな経歴である。考えてみると、P・D・ジェイムズも、ジェイムズ・クラムリーも、ジェイムズ・エルロイも、本邦初紹介作品はすべて小泉さんのお仕事だった。「翻訳家」という肩書きは必ずしも似合わない人だったが、運を引き寄せるのも才能のうちだったのだろう。

 お酒は豪快な呑み方で、なにしろ長っ尻だった。夜も更けてくると目が据わってきて、「帰りたければいつでも帰っていいのよ」と凄みのある声でおっしゃる。そういわれるとなおさら帰りづらくなり、始発電車までお付き合いすることになる。呑み疲れてきたときの定番の話題が「元カレ」「元カノ」ならぬ「元テイ(亭主)」。嫌いになって別れたわけではない、いまでもよく電話でアドバイスしてくれる……等々、まるで「現テイ」ののろけのようなお話を何度聞かされたことか。

 つい先ごろ、青山南さんのエッセイ集『ピーターとペーターの狭間で』を読み返していたら、中の1章がそっくり小泉さんの話に割かれているのに改めて気づいた。小泉さんと青山南さんではなんとなくミスマッチのような気がするが、何度か一緒に呑みにいった仲らしい。小泉さんが1985年に新宿の酒場の急階段で転落して、享年51歳で亡くなったの知って、青山さんはその亡くなり方に「小泉さんの無頼というか、粋さをかんじる」と書いている。その章の後段のくだりがおもしろい。青山さんは翻訳家の先輩に敬意を表して、「翻訳の基本とされる、“訳す前に最低3回読みなさい”精神はホントにみんな実践してる」のかと訊いたことがあるという。それに応えて、小泉さんいわく。「読むもんですか。あたしは一回も読まずにぶっつけ本番よ。だって読んじゃったらおもしろくないし、おもしろくなかったらどんどん訳していこうって気持になれないでしょ」。たしかに、それに類した言葉は何度か耳にしたことがあった。それはちょっと乱暴じゃないでしょうか、と口に出かかる一方で、なんとなく小泉さんらしいなと納得していた部分もある。青山さんの言葉を借りれば、「小泉喜美子は翻訳という仕事を、無頼で粋な小泉喜美子的にやっていた」ということなのだろうか。

 たまに深夜、じゃああたしのうちで呑み直そうということもあった。ずうずうしくお邪魔すると、文字どおり本の山に囲まれたこたつで読書に勤しむ内藤陳さんが、なにも言わずににやりとチェシャ猫のようなスマイルで迎えてくれた。その内藤さんも昨年鬼籍に入られた。まさに、往事茫々である。

*誠に曖昧な記憶で書いていますので、間違いは多々あると思います。お気づきになられた方がいらしたら、ぜひご教示ください。次回以降で訂正させて頂きます。

染田屋茂(そめたやしげる)編集者・翻訳者。早川書房(1974〜86)、翻訳専業(1986〜96)、朝日新聞社出版本部(1996〜2007)、武田ランダムハウスジャパン(2007〜)。訳書はスティーヴン・ハンター『極大射程』(新潮文庫、佐藤和彦名義)など30冊ほどあるが、ほぼすべて絶版。

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