世界を救う100歳老人窓から逃げた100歳老人

「杉江さん、ヨナス・ヨナソンがやっと日本に来てくれるんですよ」

「おお、やっとですか」

「そう、やっとです」

 そんな会話を駐日スウェーデン王国在日大使館広報文化担当官のアダム・ベイェさんと交わしたのは、今年の春ごろだっただろうか。11月に行われるヨーロッパ文芸フェスティバルのオープニング・アクトのゲストとして招聘が決まったのだという。ヨナソン氏がやってきたら話の聞き手を頼めますか、と聞かれたので、もちろん、とすぐに承諾した。

 この、やっと、のニュアンスはたぶん、ベイェさんと私にしかわからないと思う。

『窓から逃げた100歳老人』の作者であるヨナソン氏に来日してもらおうという話はこれが最初ではなく、以前にもあったのである。あれはたしか3冊目の邦訳書である『天国に行きたかったヒットマン』が刊行されたときだから、2016年のことか。紀伊國屋書店で来日イベントまで決まっていたのだが、途中で駄目になって、結局ビデオレターで愛読者にご挨拶、ということになった。このときは結局、スウェーデンに留学経験のある講談師の旭堂南陽氏(現・四代目玉田玉秀斎)に『天国に行きたかったヒットマン』の抜き読みをしてもらい、翻訳者の中村久里子さんと私を交えた鼎談という形になったのだった。

 で、来た。

 到着から出国に至るまでは、氏の邦訳書を刊行している西村書店のみなさんがアテンド役を務められた。同社の公式フェイスブックにレポートが載っているので、そちらもぜひご覧いただきたい。そういえば10月15日には、来日に向けてのプレイベントとして、スウェーデン大使館で読書会も開催したのだった。詳しくはレポートをどうぞ。

 ヨナソン氏は、10月31日に到着したんだったかな。翌11月1日に大使館の中にある大使公邸にお招きいただき、ヨナソン氏と関係者を含む数名でペールエリック・ヘーグベリ大使、レーナ・フォン・シドー公使参事官との昼食会に参席した。深く考えずに行ったら、英語で会話することになったのでびっくりしたのである。あまり会話できなかったけど。同じ席にいらっしゃった翻訳家のヘレンハルメ美穂さんは、ヨーロッパ文芸フェスティバルに別のイベントで参加することになっていた。お聞きしたら、ベイェさんから誘われてやって来たが、大使が出てくるようなきちんとした昼食会だったのでやはりびっくりしたとのこと。驚くよね。

 ここで初めてヨナソン氏と対面した。大使と話しているのを横でふんふんともっぱら聞くばかりだったので、個人的な会話はせず。自己紹介のときに自分の肩書を何にしたらいいのかよくわからず「犯罪小説の批評を主にやっています」と言ったので、この男は何者なんだろう、と思っていたのではないかな、内心。ヘーグベリ大使も。

 その日の夜には紀伊國屋書店で、ヨナソン氏と明治大学国際日本学部の鈴木賢志教授の対談があったのだが、残念ながら私はそこには参加できず。以前より予約していた浪曲の会があったので、浅草木馬亭にいたのである。ヨナソンもスウェーデンから来るけど、真山隼人だって大阪からやって来るのだ。会で何が話されたかはその日の夜に編集者から教えてもらい、翌日の質問事項を若干整理した。もしかするとハシゴで見える方がいらっしゃるかもしれないし。

 11月2日、ヨーロッパ文芸フェスティバルの初日が私の出番である。プログラムの作成時、単にヨナソン氏の名前を冠するだけではなくて、オープニング・アクトということで何かタイトルをつけてもらいたいと言われていた。とりあえず思い浮かんだのは、ヨナソンの主人公アラン・カールソンがそうするように「ヨーロッパの外へ、そして中へ」というものだった。質問もそれに関する項目を若干入れてある。

 会場は千代田区六番町にあるインステトゥト・セルバンテスである。開場よりだいぶ早く着いたのだが、困ったことに関係者が誰もいない。控室は最上階だ、と言われて行ってみると、ヨナソン氏のものではないイベントの関係者しかおらず、所在がないので地下のホール横に降りた。そこで開場まで時間を潰す。

 ヨナソン氏はぎりぎりまで下りて来られなかった。あとで聞いたら、閉鎖的な空間に長くいると息苦しくなってしまうので、嫌なのだそうだ。もちろんインステトゥト・セルバンテスは窓もあって開放的な建物なのだけど、それでも嫌なのらしい。それなら仕方ないですね。事前打ち合わせはしていないけど、前日に会っているし(個人的な会話はしていないけど)、質問事項も渡しているので大丈夫だろうと判断し、ぶっつけ本番で行くことにした。

 やや押しで開演となる。ヨナソン氏と連れ立って登壇したのだが、ここで困ったことが判明した。同時通訳のイヤフォンが不調で、使い物にならなかったのだ。やむをえず、通訳ブースから音声を流してもらっての逐次訳に切り替えた。このやりとりと、逐次訳対応のために質問事項を切り詰めたので、本来準備していたよりも話の掘り下げが浅くなってしまったのは残念なことだった。トラブルだから仕方ないのだけど。当日いらっしゃったお客様にはこの場を借りてお詫び申し上げます。

 質疑について、いくつか拾ってみる。

 最初に聞くべきだと思ったのは、なぜ最初の小説で100歳の老人を主人公にしたのか、という誰もが抱くであろう疑問についてだった。これについては小説の構造からの要請だった、というお答えである。つまり、いろいろな問題があった20世紀を俯瞰して眺める視点が欲しかった、と。そのためには世紀を通じて読者のガイド役を務めてくれる人物が必要だったので、主人公は理の当然として100年生きることになった、というわけである。最初は単なるガイド役だったのが、書くにつれてアランが動き始め、最後はスーパースターになってしまった、とも語っていた。

 もう一つ、これはあまりインタビューでも話されてなかったので私が個人的に聞きたかったのは、ピカレスク・ロマンの影響だった。純粋な人間が社会の不公平さゆえに故郷から離れ、放浪の果てに帰還するというピカレスクの物語形式が『窓から逃げた100歳老人』でも使われている。「ここがピカレスク発祥の地であるスペインのセルバンテス・ホールだから聞くわけでもないのだけど」と質問すると「もちろん『ドン・キホーテ』は愛読しています。アランはドン・キホーテというよりはむしろサンチョ・パンサではないかと思いますが」と受けた上での答えは、影響があるとすれば『兵士シュヴェイクの冒険』だろうというものだった。「私のinstagramのアイコンはシュヴェイクです」とも。なるほど、言われてみればたしかにそうなのである。

 チェコの作家ヤロスラフ・ハシェクが描いた『兵士シュヴェイクの冒険』は、第一次世界大戦を舞台にした諷刺滑稽小説で、陽気で愚直な兵士が戦場でさまざまな人物と出会い、騒動を繰り広げるという内容である。シュヴェイクが自分自身では深く考えることをせず、触媒として作用する、という物語の形式は言われてみればアラン・カールソンそっくりだ。この回答が貰えただけでも、聞き役を務めた甲斐があるというものであった。

 終演後に建物の上階にあるレストランに移動し、昼食を摂った。食べながらも多忙なヨナソンは媒体のインタビューに答えなければならなかったのだが、空いている時間を見つけて、ちょっとだけ個人的な質問をしてみたのである。

「ヨナソンさんがお住まいの、ゴットランド島ってどういうところなんですか」

 今は引っ越してしまったようなのだが、ヨナソン氏は以前、スカンジナビア半島の南西に浮かぶゴットランド島にお住まいだった。地図で見ていただくとわかるが、バルト海に南北に細長い島がある。中世に巨大な城壁が築かれて、それが今も残っている。写真を見せていただいたが、街並みが綺麗なのであった。

「ここは、金属探知機の使用が禁じられている島なんです」

「金属探知機が。どうして」

「どこを掘っても中世の遺物が出てくるから。掘るとすぐに出る」

「お宝じゃないですか」

「私の隣人は農家だったんですけど、掘り当てると『なんだ、またか』と言って、ポイ」

 ここでヨナソン氏がした仕草は、落語に詳しい方は「茶の湯」のサゲを思い浮かべていただきたい。

「ゴットランドはね、雪があまり降らないんです」

 ああ、海流の影響なのかな。

「暖かいんですね、スウェーデンの中では」

「そうそう。だから住んでいる。雨もあまり降らないしね」

 そう言ってヨナソン氏は、雨嫌だなー、という顔をしてみせた。こういうのは万国共通のボディランゲージだ。

 昼食会が終わり、握手をしてサヨナラ。そういえばヨナソン氏はこれが最初の来日ではなく、ずっと若い頃にも来たことがあったのだそうだ。お金がなくて貧乏旅行だったとのこと。時間があったら、そのとき何をしたのか聞きたかったな。

 そんなわけで、ヨナソン氏来日記であった。ヨーロッパ文芸フェスティバルの模様は一応録音を残してあるので、機会があったら他の質疑応答についてもどこかで書いてみたい。愛する家族を置いて遠い国までやってきてくださったヨナソン氏に改めて感謝。また、お会いしましょう。