編集N(以下N):今日はこんなものを持ってきたんですよ。(↓のポラロイド写真を渡す)
デイヴィッド・ピース(以下P): ああ、これは懐かしい!
N:2001年の9月、『1977 リッパー』のサイン会にお邪魔したときの写真です。このときが僕らの初対面でした。ちょうど20年前ですね。
P:お互い若いなあ……。(しげしげ見たあとに)やっぱり室田秀樹はわたしですね(笑)。
N:室田ですか? 『TOKYO REDUX』の第二部の主人公の。元刑事の私立探偵の彼?
P: 実は室田はわたし自身なんですよ。
N:彼はずんぐり体形のおじさんですよね。歳はたしかにあなたと同じくらいですが。
P:わたしはしじゅう体重が増えたり減ったりするんです(真顔)。
N:ぜんぜん太ってないじゃないですか(笑)。たしかに室田は『TOKYO YEAR ZERO』から20年後の再登場ということで、ずいぶんと老けてはいますけれど。
P:自分ではそんなふうな加齢を感じるんですよね。なので、彼の原型が誰かというなら、わたし自身です(笑)。
N:室田の出てくる第二部は、安部公房の『燃えつきた地図』のオマージュの要素があるとおっしゃっていたでしょう? あの小説は勅使河原宏監督で映画化されていて、主演は勝新太郎です。なので、てっきり室田のイメージはあの映画の勝新太郎だと思っていました。
P:映画のほうは観てないんですよ。観る手段がなくて。室田にはいろいろな要素が組み込まれていて、『燃えつきた地図』の主人公の探偵も多少はあるし、わたし自身からもある。あと、辰巳ヨシヒロの『劇画漂流』の主人公からもイメージをもらっています。
N:『燃えつきた地図』はDVD-BOXでしかソフト化されていないようなので、ちょっと見るのにハードルが高いんですよね。ところが偶然にも『TOKYO REDUX』の編集の最中、渋谷で勅使河原レトロスペクティブをやっていて、それで観てきました。お誘いすればよかったですね。と、ことほど左様に、この作品の刊行にはいろいろと「偶然の一致」がありました。
P:翻訳を担当なさったのが黒原敏行さんだというのもそのひとつですよ。黒原さんはコンラッドの『闇の奥』の翻訳者ですから。黒原さんが『Xと云う患者 龍之介幻想』の翻訳を担当すると聞いたのは、以前にわたしたちふたりで柴田元幸さんとお会いしたあと、東大の赤門あたりを歩いていたときだったと思うんですが、そのときはとくにコンラッドの話は出ませんでしたよね。
N:あれは『Xと云う患者』の版権を取得した直後でした。あの小説は英訳版の芥川作品の文章とあなたの文章が混然一体となっていて、版権を買ったがいいけど、これを日本語に翻訳するのは不可能じゃないかと途方に暮れていたんです。でもひょっとすると黒原さんならできるかもしれないと思ったんですよ。──で、黒原さんはやってのけた。
P:やってのけましたね。
■コンラッド、マッカーシー、ベケット、エリオット
P:これを偶然の一致と言ったのは、『闇の奥』はわたしにとって重要な作品だからなんです。とくに『TOKYO REDUX』の第三部にはコンラッドの影響が非常に大きい。
N: 1988年から1989年にかけて展開する老翻訳者ライケンバックのパートですね。ライケンバックは日本でのGHQの工作をCIAの側から見るという任務で、まだ黎明期のCIAの東京支局長として日本へやってくる。そして下山事件のあと、日本文学の紹介者/翻訳者として東京に暮らし続けます。
P:ライケンバックは東京行きの前に、CIAの一部門である「ラット・パレス」を訪れますね。あの場面で、編み物をしている二人の女性の姿が描かれます。あれは『闇の奥』からの引用です。そのあとの医師との対話もそう。これのみならず、『闇の奥』の影響は『TOKYO REDUX』全体に及んでいます。GHQの秘密工作機関だった〈キャノン機関〉を率いたキャノンという人物がいました。
N:本書ではジャック・ステットソンという名前になっていますね。松本清張の『日本の黒い霧』などでもよく言及される怪人物です。
P:彼は、『闇の奥』でアフリカ奥地で専横をふるうクルツのような人物でした。つまり占領下の東京という植民地にクルツ=キャノンがいる。一方、第一部の主人公として下山事件を捜査するGHQの捜査官スウィーニーは、『闇の奥』でいえばマーロウです。スウィーニー=マーロウは、ステットソン=キャノン=クルツに立ち向かう。アメリカはイギリスに対する反乱によってできた国家なので、自身のことを「帝国」とみなさない傾向がありますが、実際のところ植民地主義的、あるいは帝国主義的なやり方で活動していますよね。
N:『闇の奥』の影響がそこまで強いものだとは思っていませんでした。黒原さんがコーマック・マッカーシーの翻訳者だというのも偶然の一致ではありませんか? 『TOKYO REDUX』で、あなたは「 」を使わずに会話を書いていて、マッカーシーのスタイルを思わせます。
P:あれは実際マッカーシーにインスパイアされたものです。わたしがマッカーシーを読んだのは随分遅くて、『ザ・ロード』のときだったんですね。これに感銘を受けて『ブラッド・メリディアン』へ……というふうに読み進めました。フェイバリットは『血と暴力の国』ですね。わたしに言わせれば、あれは犯罪小説です。
N:まったく同感です。おそらく21世紀初頭のアメリカのクライム・ノヴェルに最大の影響を与えた作品だと思っています。
P:まちがいなく傑作ですよね。あの作品のシンプリシティとピュリティは、ダシール・ハメットが『ガラスの鍵』でやったことに非常に近いように思えます。
N:『TOKYO REDUX』の第一部、スウィーニーを主人公とするパートはハメット式で書いたとおっしゃっていましたね。
P:ハメット式の乾いた文体をはじめて試したのは『RED OR DEAD』(未訳)でした。あれは1960年代から70年代のスコットランドのサッカー指導者についての小説なので、日本の戦後についての犯罪小説からは遠いように思われるかもしれませんが、ハリー・スウィーニーというキャラクターを造形するのにとても役立ったんですね。
N:あなたはサミュエル・ベケットの名もしばしば挙げます。『TOKYO REDUX』第二部の幻のラストは戯曲形式だったと先日うかがいました。三部作第二作『占領都市』も、全体に舞台劇のような風合いがある。演劇は重要な要素なのですか。
P:ベケットについていえば、どちらかというと彼の戯曲よりも散文のほうに惹かれています。『TOKYO REDUX』の初期のヴァージョンには、ベケットの『ゴドーを待ちながら』を下敷きにした挿話があったんですよ。下山事件に関するノンフィクションを読むと、泥棒らしき二人の男の目撃談がしばしば出てくるんですが、この泥棒の視点のパートがあったんです。この二人の泥棒が誰かを待っている。待ち人は盗品の買い取り業者か何かだと思うんですが、結局来ない。なので時間つぶしに二人で会話をしていると、線路に向かって下山総裁の死体を運んでいる男たちを目撃してしまう。で、二人は東京中を逃げまわる羽目になる、というパートでした。これはベケットの戯曲に触発された場面ですね。
N:それは読みたかったなあ。
P:あと、黒原さんも「訳者あとがき」に書いていますが、第三部のライケンバックの過去のパート、「おまえ」二人称の語りは、ベケットの小説『伴侶』に影響されています。そもそもわたしは二人称「you」によるナラティヴが好きで、これは明らかに『伴侶』を読んだせいです。読んだのは13歳か14歳くらいで、ものすごい衝撃を受けたんですね。あとT・S・エリオットの影響もかなりあります。「I grow old … I grow old … / I shall wear the bottoms of my trousers rolled.」(T・S・エリオット「アルフレッド・プルーフロックの恋歌」)みたいな韻文です。
N:なるほど、ピース節の源流にはエリオットもあるわけですね。
■情報を集め、捨て、書き、削る
N:それにしても、捨ててしまったパートがたくさんあったとうかがうと、当初予定より10年も脱稿が遅れたのも仕方ない気がしてきました(笑)。
P:資料が膨大だったせいもあります。あなたやわたしのエージェントが次々に英訳して送ってくれた資料ですよ。ヨークシャーにいた時期もそうした資料に目を通していましたし、日系二世の書いた本などを読んだりしてもいました。下山事件について書かれたものは膨大で、こうした資料の山が手に負えなくなったりもしましたね。
N:ヨークシャーには2年いたんですよね。でもあまり執筆には向かなかったということで日本に戻ってきたと。
P:日本に帰ってきてからは――あなたも何度か同行したことがあったけれど――事件にゆかりのある場所をいろいろと巡って、事件を「解決」しようとしていたんですね。
N:僕も下山総裁が失踪した日本橋の三越と、その地下を一緒に見に行きました。
P:死体発見現場にも何度も行きましたし、そういうことにずいぶん長い時間をかけたんです。下山総裁が監禁されていたかもしれない場所を探したり、国会図書館に行って当時の地図を見ながら、失踪地点から遺体発見現場までのルートを検討したり。事件について書くのではなく、事件自体を解決しようとしていたというのはそういうことです。
N:『TOKYO REDUX』にも出てくる「下山病」というやつですね。そんなふうに書き手が魅入られてしまうのは、下山事件という「謎(mystery)」には、そもそも「解決(solution)」が存在しないせいでしょう。第二部で、下山事件を取材中に消えた作家・黒田浪漫は「解決の謎(mystery to a solution)」という奇怪な言葉を口にします。こうした「謎」と「解決」の倒錯した関係は、以前にあなたが『占領都市』について言っていた「anti-crime fiction」――すなわち「アンチ・ミステリ」――を想起させます。
P:下山事件に「解決」をつけることができないことはわたしもどこかでわかっていた。でも目の前に資料の山はあるし、自分には事件が解決できると願う部分があったんですね。最終的に、そっちは本筋ではないと気づいたわけです。
N:私見ですが、取材して集めた資料や情報のうち、不必要なものを思い切って捨てられるのが優れた作家の証だと思っています。もったいないと思ってはいけないんですよね。
P:わたしのことについていえば、まずは最初に「すべて」を知りたい。あらゆるディテールや事実を得るために、できるかぎりの資料や本を読む。最終的な決断を下すのに必要だからです。そうでなくとも小説を書いていていちばん難しく、しんどいのは「言葉を削る」ことです──これは学生たちにもよく言っていることです(註:ピース氏は東京大学で文学と創作についての講座を持っている)。たとえ最高の会話や最高の場面が書けたとしても、それらを削ることができなければならない。
N:わかります。
P:『TOKYO REDUX』でひとつ例を挙げれば、ラストシーンです。あの人物があの人物のもとを訪れる場面を書くために、かなりの取材や下調べをしました。素晴らしい場面もたっぷり書けた。しかし最終的にそれを削りに削って、いまあるものにしたんです。
N:エピローグのことですか? あれたった2ページしかないじゃないですか! そう聞くと、「もったいない」と言いたくなる(笑)。
■ある時代と、ある犯罪
P:執筆に時間がかかったもうひとつの理由は、「ある犯罪が変化してゆくさまをどう描き出せばいいのか」ということをつかむのに時間がかかったことです。この犯罪――いや、「犯罪」と呼ぶべきではないですね、この「謎」を、1949年に日本人や日本のメディアはどう見ていたのか。1964年には、さらには1988年にはどうだったのか。わたしが描きたかったのは、この事件がそれ自体の生命を持っているかのように変容してゆくさまでした。これは帝銀事件でも、小平事件でもそうでしたし、初期の〈ヨークシャー四部作〉もそう。どの本も、「ある時代とある犯罪」を描いていました。
N:ジェイムズ・エルロイについて語るとき、あなたはいつも「歴史」と「犯罪」の関わりについて言及していましたね。
P:あるとき、下山事件について書くには、「三つの時代」が必要だと気づいたんです。いまとなっては他の方法は考えられませんが、そこに至るまで長い長い時間がかかったんです。この事件を文学作品とするにはどうすべきか。例えばハリー・スウィーニーが1949年に知り得たことには限界がある。そのルールを破って読者を失望させるのは厭だったんです。
N:現在の視点で事件の謎を解くというのは、事件当時の捜査官には入手不可能だった情報をも推理に組み込むということでもあります。
P:そんなある日、仕事場に山をなすさまざまなヴァージョンの書きかけの原稿を見たときに、「ここにある」と気づいたんです。「もうすでに書かれている」と。それをひとつに合わせればいい。「時代」を理解して、然るべく組み合わせればいいんだと。
N:第一部では歴史的な事実やディテールをほとんど変えていませんよね。
P:変えていません。第一部を書くうえでGHQの記録を見られたのは幸運でした。作中に実際の名前のままの人物とそうでない人物とがいるのは、歴史的事実に関わっています。つまり、名前を変えているのは現実の記録からはみ出す行動をとる人物なんです。例えば片山副総裁(註:実際には加賀山)や、GHQで鉄道を管轄する民間運輸局の局長シャノン(註:実際にはシャグノン)がそうです。一方ウィロビーなどはそのままになっています。
N:ジャック・キャノンも名前が変えられた人物です。
P:キャノンが実際に何をしたかはわかっていませんから。謎めいた死を遂げたことくらいで。ジェイムズ・エルロイは、死んでしまっている人物については好き放題に書きますけどね、「知らねえよ」といわんばかりに(笑)。
N:ハリー・スウィーニーにはモデルがいるんですか?
P:GHQのハリー・シュパックという捜査官がモデルです。彼は実際に下山事件の捜査を担当したんですが、彼に関する資料が国立国会図書館にあった。それを閲覧したところ、エレベーターボーイに暴行を加えた廉でシュパックが懲戒を受けたという記述がありました。それをもとに、第一部でスウィーニーが生意気なエレベーターボーイを殴る場面を書きました。イギリスのフェイバー社の編集者は、読者が主人公に共感できなくなるといって、この場面があまり気に入ってはいなかったですね。でもあの場面は重要でした。スウィーニーはわたしにとって共感できる人物ですが、共感できないこともする。これはわたしの世界観のようなものなんです。わたしは「悪いことをする善人」にも、「善いことをする悪人」にも興味を惹かれるんですよ。それがわたしたちの生きる世界の現実だと思うからです。
N:あの場面は非常に印象に残ります。何かもやもやしたものが残るというか。スウィーニーはヒーローのように見える人物ですが、彼の内面は描かれていない。あの場面は、彼が何かを心のなかに隠しているらしいと読者に暗示します。
P:あのエレベーターボーイは、彼なりのやりかたで「占領」に反撃しようとしているんです。つまりエレベーターボーイとスウィーニーのどちらも「悪人」ではないんですよ。そういうことが世の中では起こり得ます。
N:戦勝国と敗戦国、占領者と被占領者の衝突というわけですね。占領者に戦いをしかける被占領者といえば、筆頭は千住晃です。〈東京三部作〉すべてに登場する数少ない人物、ヤミ市からのしあがった男。あなたは以前、彼が三部作でもっとも重要な人物であり、だからこそ『占領都市』のまんなか、つまり三部作のまんなかに彼のパートを置いたと言っていました。
P:千住は新橋のヤミ市から頭角をあらわして、組織犯罪に手を染め、最終的に『TOKYO REDUX』ではフィクサーのような存在になり、立派なビルに立派なオフィスを構えています。彼は日本のダークサイドを代表する人物なんです。すでに相当な権力を持っていて、彼のバックにはアメリカ人たちがいる。彼は児玉誉士夫のような人物、軍とのコネクションを駆使し、占領をも利用し、のしあがった人物です。やがて彼はロッキード事件のような件でも暗躍することでしょう。戦後日本の裏社会を代表する人物として、千住は三部作すべてに登場する。『TOKYO YEAR ZERO』には、読みかたによっては彼はもう死んでいるのではと思わせる記述がありますが、千住がうそぶく「自分は誰にも殺せない男だ」というセリフが、わたしは気に入ってるんです。彼のような男たちを消すことはできないんです。
【11月17日掲載予定の後編につづく】