【前編はこちら https://honyakumystery.jp/18588 】
■現実の犯罪をもとに小説を書くということ
編集N(以下N):以前に、「東京三部作」で描かれる犯罪/事件は、だんだんと大規模なものになってゆき、同時に曖昧さも増してゆくという話をしましたね。
デイヴィッド・ピース(以下P):そう、それも大事な点でした。小平事件は明らかな「犯罪」です。そしてはっきりした「解決」がある。小平は逮捕されましたからね。未解決の謎があるとしたら、被害者の正確な人数くらいです。小平が兵士として赴いた中国で何があったかというのも謎で、それが恐ろしげな〈影〉を落としはしても、すべてはひとりの人間のなかに収まるものでした。
N:つまりパーソナルな犯罪ですね。一人の個人が戦争の暴虐を持ち帰ってくる。
P:帝銀事件はもっと複雑です。もちろんこれは犯罪で、そこに疑いの余地はない。けれど、ご存知のとおり、わたしは平沢貞通が真犯人だと思ってはいません。なので『占領都市』はある意味、平沢貞通が無実であることを証明する書物でした。「帝銀事件」は犯罪ではあるが、明確に解決されてはいない。
N:より大きく、より曖昧ですよね。
P:そして下山事件です。そもそもこれは「犯罪」かどうかわからない──わたしは「犯罪」だと思ってはいますけれど、「犯罪ではない」と言うひともたくさんいます。そして、この三つの「事件」は時代を下るごとに政治的な重要性を増してゆきます。
N:事件の「犯人」と「被害者」の関係も薄くなってゆきますね。帝銀事件も特定の誰かへの殺意によって実行されたとは考えにくい。
P:面白いのは、『占領都市』については、いまも「書き終えた」という感じがしないんですね。機会があるごとに、あの作品と帝銀事件について考えてしまうんです。事件に関する小さなことで、いくつか気になってしかたのないままのものがあるんですよ。──ひとつ例を挙げると、事件の朝、帝銀椎名町支店の支店長がふいに体調を壊して早退していること。犯人が支店長に毒を盛って、彼を現場から引き離したのではないかとか。ひょっとすると支店長が何か……
N:……犯人と顔見知りだったとか。
P:あるいは支店長なら、犯人の偽装にひっかからず、事件は起こらなかったとか。帝銀も人にとり憑くようなところのある事件です。ただ、こうして現実の犯罪をモチーフに小説を書くことにフラストレーションをしばしば感じるのも事実なんです。
N:どういうことでしょう。
P:作家と犯罪のあいだには独特の関係性が生じます。とりわけ現実に起きた犯罪を扱うときに。つまり、わたしたちは搾取しているのではないかという。下山総裁には息子がいて、さらにその子供たちがいて、孫が、曾孫がいる。そこにわたしがこの小説を発表する。彼らは、あの事件のことを延々と聴かされつづけるのはもう飽き飽きだと思っているかもしれない。第二部で、黒田浪漫はある意味でこの犯罪に貢献してしまいますね。黒田と下山事件の関係は、作家と犯罪の不愉快な関係の極端な例なんです。わたし自身が感じる不愉快さの感覚があそこにはこめられています。わたしたちは、どこかの誰かの身に起きた悲惨や痛苦を飯の種にしているのですから。
N:それは僕たち編集者にも跳ね返ってくる問題でもありますね。
P:そういうのを全然気にしないひともいますけどね(笑)。でも、いまやわたしたちは、こうしたことにもうすこしセンシティヴになっていいのかもしれません。
■時間に追いつめられる者たち
N:ところで『TOKYO REDUX』では三人の主人公が身につけている腕時計が執拗に描写されますね。先日〈ヨークシャー四部作〉を読み返したら、そこでも腕時計が重要な役割を担って描かれていました。例えば『1974 ジョーカー』の主人公エディ・ダンフォードは父親の形見の腕時計を大事にしています。また『TOKYO YEAR ZERO』でも被害者の一人のネーム入りの腕時計が捜査の突破口になります。
P:『THE DAMNED UTD』でもブライアン・クラフが大事な腕時計を失くしますね。というふうによく出てくるわけですが、実のところそれほど意識しているわけではないんです。ただ、わたし自身が、例えば待ち合わせなどのときに早めに行かないと落ち着かないタイプなんですね。すごく時間を気にするんですよ。なので始終、時計をチェックしてしまう。そのせいじゃないでしょうか(笑)。
N:でも『TOKYO REDUX』の場合はさすがに意識的なんじゃありませんか?
P:これは下山総裁の遺品の時計のせいですね。現場で発見された12時20分で停まっているガラスの割れた腕時計。そのイメージにとり憑かれてしまったところがあります。
N:またもや偶然の一致──もともとあなたが持っていた腕時計への関心があり、一方で現実に下山総裁の受難を象徴するものとして腕時計があったという。
P:腕時計になんらかの役割を負わせているのは確かなんですが、どう言えばいいか……
N:登場人物たちにのしかかるプレッシャーや強迫観念の象徴とか。誰かに見られている(being watched)というような──
P:そう、そういうことです。今回の作品では、シリル・コノリーの「西洋の庭園はすでに閉園時間(closing time)となっており──」がキーフレーズになっています。英語でしか成立しない言葉遊びではありますが、「閉じる」の「close(クローズ)」と「距離が近い」の「close(クロース)」の重ね合わせが暗示されています。「closing time」とは、「(終わりの)時間が迫っている」とも、「終わりの時間がきた」ともとれる。『TOKYO REDUX』の主人公三人はみな、タイムリミットが迫っているという思いに囚われていて、同時に「もう終わりである」とも思っているんです。
N:下山事件の発生直前にスウィーニーのもとにかかってくる怪電話、「もう遅い Too late」も時間にまつわるものですね。このフレーズは『REDUX』で他の人物も口にしますし、〈ヨークシャー四部作〉でも見かけます。
P:警官も刑事も探偵も、みんな「too late」な存在でしょう? 彼らの悔恨や罪悪感も「too late」の感覚に発しています。そういう意味で意図的ではあるものの、中心的なテーマではありません。
■わたしたちはつねにドッペルゲンガーである
N:ドッペルゲンガーもあなたの作品の多くに共通する重要な主題のようですが。
P:そう……かもしれないですね。『Xと云う患者』は明らかにそうでした。わたしは大正時代の日本に強く惹かれるんですが、谷崎潤一郎も分身テーマの作品を書いていました。乱歩も書いていた。個人的な関心でいえば、これは人間の本質の二面性と関連しているように思います。「悪いことをする善人/善いことをする悪人」の問題です。「両/二(dual)」の感覚というのがわたしは好きで、『TOKYO REDUX』の第三部は「二種(dual)」のナラティヴによって語られます。『THE DAMNED UTD』でも、二種のナラティヴを使って過去と現在を往還してつつ語りました。
N:『TOKYO YEAR ZERO』の主人公・三波の強迫観念にも、『占領都市』の探偵の挿話にも「分身」のテーマがありますし、帝銀事件では犯人のモンタージュが引き起こした悲喜劇も現実にありました。下山事件では総裁の替え玉がいたという説もあります。
P:わたしたちはみな、つねにドッペルゲンガーである──そんなふうに思うんですよ。わたしたちは昨日の自分のドッペルゲンガーであり、明日の自分のドッペルゲンガーと言えるでしょう。わたしたちは〈永続的なドッペルゲンガー〉なのではないかと。自分の作品のひとつひとつが、わたし自身を変えてくれるのが理想です。そしてわたしが読んだ本のひとつひとつが、わたし自身を変える。いまのこの対話が終わったあとのわたしは、その前とのわたしは違っているはずです。わたしたちは不断に変わりつづけていて、それゆえにわたしたちはつねにドッペルゲンガーであると思うんですね。
■UKDK/UK DECAY
N:わたしたちがはじめて著者と編集者として会ったのは2007年、『GB84』の版権を取得したときです。その席で〈東京三部作〉の企画が始動したので、『GB84』の刊行は三部作の完結まで待ちましょう、という話になったんですよね。
P:実はいま書いている新作『UKDK』は、『GB84』の姉妹編――というか、『THE DAMNED UTD』『RED OR DEAD』とも合わせて、ゆるい縛りの四部作を成す作品です。内容につながりは全然ないし、共通する登場人物もいませんが。ただし共通するテーマとして「イギリスの左翼の衰亡」があります。「サッチャリズムと右翼の興隆」とも言えますね。
N:1970年代のハロルド・ウィルソン政権下が舞台で、ウィルソン首相に対する陰謀を描くとうかがっています。この「陰謀」というのは歴史的事実ですか。
P:はい。イギリスの内務情報機関MI5の一部が、ウィルスンはソ連のエージェントではないかと考えたんです──実際はそうではなかったんですが。一方では右派の市民が、労働運動が左翼にのっとられてイギリスがひどいことになると考えはじめた。背景にあるのはこうした状況です。主眼になるのは北アイルランドの軍隊。1974年、プロテスタントによるストライキが行われたため、ウィルスン政権は軍にスト破りを命じます。しかし軍隊はその命令を拒否した。これは反乱、国家に対する反逆ですから、たいへんな緊張状態が発生したわけです。しかしなぜか誰もこの件について書いていないんです。
N:『GB84』は1984年の大規模な炭鉱ストライキをめぐる陰謀小説です。イギリス版には、「イギリスがもっとも内戦に近づいた時」という惹句があったと記憶しています。
P:『UKDK』もスパイ・スリラーの要素が強い。イングランドによる北アイルランドへの侵攻という構図もあって、いわばイングランド人にとって帝国主義はアイルランドではじまったんです。ここにも『闇の奥』の構造が見出せるわけですね。わたしはつねにコンラッドと『闇の奥』に立ち戻ってゆくようなところがあるんです。『闇の奥』は、中編小説のような短い作品なのに、二十世紀で最重要の小説と見なされていて、それは二十一世紀の今も依然としてそうです。ついこのあいだのアフガニスタンでの混乱を見たでしょう? 『闇の奥』はわたしにとって、つねにキー・テクストでありつづけています。
N:ところで『UKDK』とは何の略なのですか。『1983 ゴースト』でも、壁の落書きか何かで「UKDK」が出てきました。
P:「United Kingdom, Divided Kingdom(「連合王国、分断王国」の意)」の略です。なのですが、同時に、「UK decay(「イギリスの腐蝕」)」も意味します。イギリスのパンクバンドでUK Decayというのがいますし、パンクについてのドキュメンタリー映画の傑作で『UK/DK』というのもあります。同じタイトルのコンピレーション盤もいいですよ。
N:知りませんでした。今度聴きます。
P:わたしはパンク・ミュージックの大ファンですからね。そう、とあるアルジェリアの小出版社が1982年のワールドカップについてのノンフィクションを企画していて、こないだ短い原稿を依頼されたんですよ。いま書いているところなんですが、それに「UK82」というタイトルをつけたんです、The Exploitedにちなんで。「UK82」はご存じですか?
N:The Exploitedは知ってますが。
P:Slayerは知ってますよね。
N:もちろん。
P:SlayerがIce-Tと「Disorder」という曲をやったことがあったでしょう(註:コンピレーション盤『JUDGMENT NIGHT』収録)。あれは実はメドレーで、「UK82」も入ってるんですよ。途中で「LA, 92!」というシャウトが入るでしょう。
N:ありました!
P:あそこがThe Exploitedの「UK82」。とにかくそんなわけで(笑)、わたしはConflictとかDisorderとかDischargeといったパンク・バンドが好きで──Dischargeが今でもベストですが――The Exploitedも大好きなんですよ。
N:『GB84』という題名にもThe Exploitedのエコーがあるわけですね。「UK82」からの。
P:『UKDK』は今年の頭に書きはじめて5月までに6万5千語くらいまで行ったんですが、どうもイマイチだと思って全部捨ててしまって。いつものことですが(笑)。でももう突破口を見つけたので、『UKDK』が次の作品なのは間違いないです。
■書け、書きつづけたまえ。
N:三部作が始動して14年、はじめてお会いしてからは20年。初対面のサイン会では『1977 リッパー』の最初のページにサインをいただきました。20年後、『TOKYO REDUX』の最初のページに自分の名前が載ることになるとは当時は思ってもいませんでした。お互いにとって「What a journey!」という思いです。
P:まったくです! あの20年前の午後、わたしは『1983 ゴースト』――イギリスでは翌年に刊行されました――を少し前に書き上げていて、それまでのサーペンツ・テイル社から、文芸出版社のフェイバーに移る契約を結んだばかりでした。フェイバーからの第一作になる『GB84』の取材もはじめていました。そして何より、わたしは生まれてはじめて副業のない専業作家になっていた。非常にエキサイティングな局面に立っていたんです。このあと、わたしは7冊の本を出し、4つの映像作品が生まれ、自分の作品のプロモーションで世界を回るという素晴らしい体験をしました。20年前にわたしたちが会ったときには、そんな幸運は予想もしていなかった。もちろん、これはたくさんの人たちのご助力のおかげです。いちばん残念なのは、わたしのエージェントだったウィリアム・ミラーが三部作の完結編『TOKYO REDUX』の刊行を待たずに世を去ってしまったことです。
N:14年前に『TOKYO REDUX』第三部にも出てくる有楽町の外国人特派員協会でわたしたちを引き合わせてくれたのもウィリアムでしたね。その何年か前、ロンドン・ブックフェアの空き時間に、当時の新作『1980 ハンター』が素晴らしかったとウィリアムに熱弁をふるったことがあります(笑)。もともとはイギリスのカリスマ文芸編集者だった彼が、駆け出し編集者の僕に親しく接してくれたキッカケは、あのときだったように思います。
P:彼の助言と応援があったればこそ、わたしは東京三部作を生み出せたんです。然るべくわたしたちを引き合わせてくれたのもそのひとつでした。きっと彼は『TOKYO REDUX』も〈東京三部作〉全体も誇りに思ってくれたと思いますが、でも、わたしは彼がこう言うのが聞こえるような気がします――「何を言ってるんだね、書け、書きつづけたまえ。もっともっと良い本が書けるよう不断に努力したまえ」と。ウィリアムに言わせれば、旅は決して終わるものではなく、いつだってはじまったばかりなんですから。