来る12月5日の第11回文学フリマにおいて、当シンジケート協賛の電子書籍が刊行されます。タイトルは『サバービアとミステリ 郊外/都市/犯罪の文学』。それを記念して、本サイトでは同書の一部を抜粋掲載いたします。少々長い記事になってしまいますが、ぜひご一読いただければ幸いです。

 全長版は当面「文学フリマ」における対面販売のみですが、後日インターネットからのダウンロード販売も予定しております。本書の前編にあたる『”この町の誰かが”翻訳ミステリファンだと信じて』も同様に販売の予定です。

 それではどうぞ、お楽しみください。

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■はじめに

 2010年11月22日、都内某所で座談会が開かれました。この電子書籍はその一部を抜粋収録したものです。出席者は、川出正樹と霜月蒼、杉江松恋というミステリ愛好家の三人。これだけでは視点がすべてマニアの内向きなものになりはしないか、という懸念から米光一成氏に冷静な審査者として加わっていただきました。

 このメンバー構成は、2010年7月に発表した電子書籍『“この町の誰かが”翻訳ミステリファンだと信じて』とまったく同じです。同書は、物心ついたときからずっと翻訳ミステリばかり読んできた人間が、自分はなぜそれが好きなのか、そもそも翻訳ミステリってなんなのか、考える対談でした。着地は意外な地点になりましたが、全体としては「1980年代から現代にいたる四半世紀において、翻訳ミステリがどのような位置づけの文化」であったかが展望できるものになったと自負しております。座談会において、米光氏から指摘を受けたことは、愛好家の三人が「共同体(コミュニティー)の中で進行している何かを描いた小説」に異常なほど執着し、関心を持っているということでした。新鮮な発見であり、そのことが第2回の座談会を持ちたいと願う直接のきっかけにもなりました。

 第2回の座談会は『サバービアとミステリ 郊外/都市/犯罪の文学』と題し、コミュニティーの動態を描いた小説という観点からミステリを眺めるということに挑戦しています。切り口として使用した作品は九割方がアメリカ産のミステリです。「所詮は他人の国の出来事」と感じられる方もいると思いますが、ひやかしでも結構ですので、ぜひお読みになっていただきたいと思います。サバービアという特殊な素材を扱うことにより、特殊から普遍へ、また過去から現在への導線が見えてくるはず。そうした期待をもってわれわれは座談会に臨みました。その成果は充分にあったと考えております。

 願わくばここからさらなる議論が芽吹きますように。参加者一同は、心からそれを望んでおります。どうぞ楽しみながらお読みください。

 杉江松恋(from幻想郷)

■サバービアのミステリはいつ誕生したのか?

杉江 日本でも関東大震災で東京市が灰燼に帰した後に文化住宅がいっぱいできると、それを肯定したような大正モダンの文化が起きたり、戦後の高度成長期になるとそれに即した住居の形式ができて、山田太一『岸辺のアルバム』(1977年。光文社文庫他)のような作品が書かれたりする。都市の風景は、当然フィクションにも反映されるんですね。今のまとめにはいろいろなタームが出てきましたが、根本的なところから始めましょう。これは確認なんですが、「アメリカにおいて郊外のミステリはサバービア(引用者注:第二次世界大戦後にアメリカで爆発的に拡大した、都市郊外の新興住宅地。またはその住人及び彼らの生活文化全般を指す)の誕生以前にはなかった」ってことでいいんですか?*1

川出 私の知っている限りでは、サバービアというものができたのがそもそも1945年くらいなので、それ以降でないと郊外住宅地を舞台にした小説というのは多分ないだろうと思う。アメリカのミステリを語るときに避けて通れないエラリー・クイーンのライツヴィルものの第一作『災厄の町』(ハヤカワ・ミステリ文庫)が1942年に書かれています。あれはそれまでニューヨークを中心とした都市型のミステリを書いていたクイーンが、初めて田舎を舞台とした作品です。戦前のアメリカン・ミステリってコーネル・ウールリッチにしろ、ヴァン・ダインにしろクイーンにしろ、みんな都市で事件が起きる話なんですよ。文化の中心が都市だから当然で、犯罪は都市で起きるし、語られるべき人間関係もすべて都市にある。

杉江 ライツヴィルって小さいコミュニティーですけど、あれはいわゆる郊外ではないですね。メイフラワー号のころから続く名家が中心の地方共同体のお話です。

川出 そうですね。スモールタウンはスモールタウンなんだけど、独立戦争前から存在するニューイングランド地方のスモールタウンが舞台なんですね。どちらかというと、イギリスのエドマンド・クリスピンの小説に出てくるような小さな村に近い。

米光 このへんで質問しとかないと、ついていけなくなりそうなので。エラリー・クイーン『Yの悲劇』(角川文庫他)とかはもっと後なんですか? 

杉江 もっと前です。1932年かな。

米光 そんなに前なんだ。前回の座談会で薦められたヒラリー・ウォーの『この町の誰かが』(1990年。創元推理文庫)を読んで真っ先に連想したのは『Yの悲劇』なんです。『Yの悲劇』も、キチガイ一家って言われている一族の話で、彼らは町の中でも特別扱いをされている。その中でもさらにコミュニケーション不全の環境で育てられた、他人と意志の疎通ができない成員の化けの皮がべろっとはがれる、みたいなものがテーマの一つだったんだと思うんです。それは『この町の誰かが』にすごく近いという気がします。『Yの悲劇』の舞台はサバービアではないんですか?

霜月 あれはニューヨークの中に突然ゴシック様式のハッターという富豪の屋敷があるっていう設定なんです。クイーンが中期以降の作品で登場させた架空の町ライツヴィルには、あの屋敷に封じられたものを町の大きさにまで拡大したという側面もあるかもしれません。

川出 サバービアにはいくつか種類があります。一つは、郊外に土地を切り拓いたような何もないところできたに新興住宅地のサバービア。また、昔からある都市の周辺に段々人が増えて宅地が形成される、若者が戸建てを建てて流入していくものだから、都市と新興住宅地の境目がなくなって、古くからある都市を中核としてサバービアになるようなパターンもあります。あとはインターステートハイウェイですね、高速道路で都市と都市の間をつないでいくと、間にあった小さい村の交通の便がよくなって、そこに人が住むようになる。

杉江 新しい住人が増えているんでしょうね。

川出 さっきの米光さんの質問にあった『Yの悲劇』のハッター家というのは、マンハッタンのグリニッチ・ヴィレッジに赤煉瓦でできた古色蒼然としたお屋敷があって、その一族の間で起こる事件です。この屋敷中の空間と、それを囲む空間のイメージは、規模は違うけれども拡大するサバービアに通底するものがあるようには思いますね。

霜月 ライツヴィルものってそういうニューイングランドの昔ながらの狭い町で事件が起きるという話じゃないですか。これは別のところで一度書いたことがありますけど、ライツヴィルって「W」のつくWrightさんが興した町(-ville)だからWrightsvilleという名前になったとされています。つまりMr. Wrightの町なんだけども、これを音だけ聞くと「正しい町」になる。アメリカの「正しさ」を体現する町。英語では、女性にとって理想的な結婚相手のことをMr.Rightと言いますが、ライツヴィルは「Mr. Rightの町」とも解釈できる。そういう理想化された小さなユートピア、古き良き時代へのタイムカプセルみたいなものとして想定されているのだと思います。ついでに言えば、ライツヴィルもの以降のエラリィ・クイーンは「Mr. Right」の感じもありますね。

杉江 なるほど。

霜月 アメリカの小さい町、ということだと、スティーヴン・キングの小説の舞台が一貫してそうですよね。以前に芝山幹郎さんが、キング作品の舞台は、「日本人の知らないアメリカ」であるという話をしていました。アメリカというとぼくたちはニューヨークやロサンゼルスやシカゴを連想してしまうけれど、アメリカの大半を占める町はキングの舞台のような町なわけです。田舎と言われる中西部も、あんな感じなんだと思うんですよ。そういう、「都市」ではない居住圏という部分で、サバービアとライツヴィルは微妙に重なってくる。

杉江 ニューイングランドってセイラムの魔女狩りの事件が起きたところでもあるから、『災厄の町』に描かれたような、集団ヒステリーが発生する歴史的な立地条件なんだよね。

霜月 都市圏でもボストンなんてものすごい保守的な町だし。

杉江 サバービアの問題とはまた別に、保守的で内向的な視線しか持っていないところって一歩間違うとたいへんなことになるよ、という話が別にあるんだと思う。

霜月 キリスト教、それもカトリックでなくてプロテスタント、清教徒の問題ですね。そのへんを言い出すとキリがないけれども、ピューリタニズムと銃、というのがアメリカの根っこになっていて、しかもコインの表裏だということは触れておきたいですね。【仮説2:「キリストと銃」という価値観のセットから生まれたアメリカン・ヒーローは多数派か?】*2

川出 そういう意味ではクイーン作品の中で、もっともヒラリー・ウォー的なサバービア小説である『この町の誰かが』と似ているのは、ライツヴィルものの系譜に近い『ガラスの村』(1954年。ハヤカワ・ミステリ文庫)でしょう。ど真ん中のサバービア小説だよね。今話題になったライツヴィルの隣にある村が舞台で、土地にSin(原罪)の文字が入っている。クイーンお得意の宗教的なモチーフなんだけど、そこで殺人が起きて町の人たちが余所者をスケープゴートにして吊るし上げていく。まさに『この街の誰かが』と同じ構図の作りです。

杉江 『ガラスの村』を執筆したとき、当時吹き荒れていた〈赤狩り〉マッカーシズムのヒステリーに対する抗議をクイーンが意図していたというようによく言われますね。

川出 ミステリ的な技巧に引きつけて話をすると、アメリカのミステリにはファイロ・ヴァンスという1920年代に生み出された名探偵のトップスターがいたわけです。そこから派生して出てきたエラリー・クイーンなんかも、みんな名探偵だった。シャーロック・ホームズ的な名探偵が出てくる浮世離れしたミステリが、やがて袋小路に入る。クイーンも行き詰って、40年代になるとライツヴィルを舞台にして新しい謎解きミステリを書こうとした。それは、クイーンが文学的な広がりをもった作品に打開の活路を見出しそうとしたんだ、というようなことが過去の通説なんだけど、僕は多分、クイーンが作家として葛藤する中で、ミステリの舞台として都市からアメリカの原風景に目を向けて、ディスカバリー・オブ・アメリカみたいな感覚を手に入れようとしたんだと思うんだよね。『災厄の町』には冒頭にエラリーが「僕は提督になったようだ。コロンブス提督だ」という一行がある。それは非常に示唆的なんだけど、アメリカの原風景の静かな田舎町に目を向け始めて、そこから謎解きミステリの将来を考えていこうかなって思っていたのが40年代なんじゃないかと思う。

杉江 なるほど。

川出 それに対してヒラリー・ウォーは、最初ハードボイルドのエピゴーネンみたいな、バイオレンスとセックスの小説を書いて40年代に全然売れなかった。これからは何かリアルなものを書かなきゃいけないんだけど何をしたらいいだろうって模索している時期に、彼は第二次世界大戦後に非常に人気が出た、犯罪実話に行き当たったのね。リアルな方向にもっと目を向けて書いたら、読者にとって身近で、かつ今まで誰もやっていないことをできるんじゃないかと思ったと、ウォーは言っているんですよ。出世作の『失踪当時の服装は』(1952年。創元推理文庫)がまずそうなんだけど、誰も目を向けなかった小さい地方都市に目をつけて、その後『ながい眠り』(1959年。創元推理文庫)で本格的にサバービアを舞台として扱うようになった。アメリカン・ドリームの象徴のような郊外の住宅地、そういう明るく見える場所にも暗い影の部分——悩みや葛藤——があって、犯罪の可能性があったりする。それらを見つけて、警察小説の結構をとっているけど中身は謎解きミステリという作品を書いていったんです。そういう意味でクイーンとウォーには、共に都市文化から都市の外に目を向けたという共通点がある。クイーンはスモールタウンに、ヒラリー・ウォーはサバービアというものに着目したんだと思う。非常に形は近しいけれども完全に同一ではない。ここでようやく杉江さんの質問に戻るけど、【仮説3:サバービアなもの、郊外を舞台にしたミステリの嚆矢はヒラリー・ウォーである】ということだと思う。

(抜粋以上。なお、杉江松恋が主宰をつとめる書評サイト「BookJapan」にも本座談会の一部が抜粋収録されていますので、併せてご覧ください。http://bookjapan.jp/note/note101202_2.html

 第11回文学フリマ詳細はこちら。

*1:本座談会は大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍)を導線として行っております。同書は現在品切れ中ですが、著者である大場氏のサイトでその全文を読むことができます。サバービアの定義に関心がある方は、ぜひhttp://c-cross.cside2.com/html/j0000000.htmを訪れていただき、同書をひもといてみてください。序章に、ほぼ完璧な形でアメリカのサバービアの全容が素描されています。

*2:本座談会では全体として綺麗なまとめをあえてせずに、いくつもの仮説を立ててそれを残すようにしました。さながらサボテンの棘のように。その棘の部分が何かに引っかかって、また新たな議論を生むのではないかという期待があったからです。