このたび刊行された『占領都市 TOKYO YEAR ZERO II』。これは東京在住のイギリス人ノワール作家デイヴィッド・ピースが、『TOKYO YEAR ZERO』に続いて放つ《東京三部作》第二作です。描かれているのは「帝銀事件」。1948年1月26日、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店の行員らが、何者かによって毒物を飲まされて殺害された悪名高い事件です。ノワールを暗黒の散文詩の域に押し上げ、本国では現代イギリス文学として評価されるデイヴィッド・ピースのノワール小説。この『占領都市 TOKYO YEAR ZERO II』は、そんなピースが己の技量を総動員した究極のノワール作品と言えます。その刊行を機に、デイヴィッド・ピース氏にインタビューを行ないました。 |
——前作『TOKYO YEAR ZERO』では連続婦女暴行殺人事件、「小平事件」をテーマにしていましたが、今回の『占領都市 TOKYO YEAR ZERO II』で描かれるのは、日本犯罪史上に残る大量殺人、「帝銀事件」です。「小平事件」とは大きく性格の異なる事件ですね。
デイヴィッド・ピース(以下DP) 犯罪というものは、ある特定の時代と場所で、ある特定の理由によって発生するものだというのが私の考えです。まったくランダムに起きる犯罪など存在しません。ですから、ある犯罪を精査することで、その犯罪が起こった時代と場所について知ることができると私は思っています。
——帝銀事件を通じて、この時代の東京をうまく描くことができると思ったと。
DP そういうことです。前作で小平事件をとりあげたのも同じ理由です。帝銀事件のような犯罪は、一九四八年の東京でしか起こり得なかったと考えているのです。
わかりやすい理由をひとつ挙げましょう。犯人が帝国銀行の行員たちに毒を飲ませることができたのは、敗戦のあとで街に疫病が蔓延し、犯人が占領軍の腕章を巻いて、それによって権力を体現していたからでした。この二つがなければ、あんな犯行は不可能です。
事件に対して警察はどのような捜査をしたのか、新聞記者はどのように報道したのか、大衆はそれにどう反応したのか、そこにも、あの時代の日本が色濃く反映されています。ある者は、事件がアメリカと関連するものだと考え、ある者はソヴィエトの介在を疑い、またある者は旧日本軍の生物戦部隊である七三一部隊の影を見る、といった具合に。だから、この事件を通じて、あの時代のあの場所を学ぶことができると考えたのです。
第一稿はすべて破棄した
——伝統的な警察小説/ハードボイルド・ミステリの形式をとっていた前作と比べると、本書のスタイルは破格です。当初の構想は前作に近いものだったのですよね。
DP ええ。本書の執筆は『TOKYO YEAR ZERO』の直後に開始しました。当初は前作に登場していた服部と西の二人の刑事を語り手に立てて、章ごとに交互に語る形式を考えていたんです——いい刑事/悪い刑事、正気の刑事/狂気の刑事、というふうに。しかし半分ほどまで書いたところで、これでは不十分だと思えてきました。これでは帝銀事件の複雑性や多義性を捉えていないと思ったのです。なので原稿をすべて破棄しました。
——半分書いたものを破棄してしまったんですか。
DP はい。帝銀事件について資料を読み、取材を進めるにつれて、私はこの事件にどんどんとり憑かれていってしまったんですね。混乱も深まってゆきました——非常に多くの陰謀、仮説、側面が帝銀事件にはあって、事件そのもののイメージも曖昧になっていった。けれど、ひとつだけはっきりしていたことがありました。これは複雑性と不確実性にまつわる物語なのであり、単一の人物による単一の語りでは絶対に捉えられないということです。
そのときに私が立ち返ったのが、自分がはじめて読んだ日本の小説のひとつである芥川龍之介の「藪の中」と、黒澤明による映画版である《羅生門》でした。ひとつの強姦殺人について語る七つの物語が描かれ、観る者/読む者は、どの「証言」が「真実」であるのか、自身で決定しなくてはならない。これこそが帝銀事件を描くのに完璧なやりかただと思ったのです。
つまるところ私は、本書の形式を芥川から盗んだんですね。もっとも「藪の中」も、アンブローズ・ビアスの一九〇七年の小説「月明かりの道」に影響されていて、さらにビアスも一八六八年のロバート・ブラウニングの詩「指輪と本」に影響されたと言われています。この詩は実在の犯罪をベースにした「犯罪詩」とでもいうべきもので、十二巻から成っています。うちの十巻は、ひとつの事件にかかわった別々の語り手が、別々の証言を「劇的独白」によって語っている。それを著者による最初と最後の巻がはさむ構成なのです。
——あなたは「構造」や「構成」に非常に自覚的な作家ですものね。
DP 三部作全体でいえば、私は《東京三部作》を三枚つづりの絵画のようなものとして観ています。これは西洋の宗教画によくある形式で、三枚の絵が三面鏡のように配置されるものです。私の三部作は、いわば、三枚の絵でひとつの巨大な黒い山を描き出しているのです。この山を登ってゆく旅は『TOKYO YEAR ZERO』で開始されました——あの作品の各「部」の題名にあったように、私たちは「肉の門」を抜け、「涙の橋」を渡り、ついに「骨の山」を登りはじめた。
そうしてたどりついたのが『占領都市』。これが中心に置かれた絵です。「骨の山」の頂にある「黒い門」、そこで物語は語られはじめる……
——そしてプロローグとエピローグとして、「黒門」で開かれる降霊会のようすが描かれるのですね、前作の死体発見現場である増上寺の黒門の残響のなかで。
十二の声が悪夢の事件を語る
——さっきおっしゃったように本書は「藪の中」のスタイルで十二の物語が連ねられます。英語では「文体」のことを「声」と言うことがありますが、『占領都市』を構成している十二の章/物語は、それぞれにまったく異なる「文体/声」で描かれているのが驚きです。
DP それぞれにふさわしい「声/文体」を見つけるのには苦労しました。とくにむずかしかったのは、犠牲者たち、生存者たち、犠牲者の母親たち、そして平沢貞道氏の各章です。
犠牲者と生存者の章で大きなインスピレーションとなったのはパウル・ツェランの詩でした。ツェランは第二次大戦の時代に両親をナチスに殺され、しかし自身は生き延びました。ツェランの詩は恐怖と悲劇についての苛烈な思索であり、罪悪感と恥の意識を描くものでもあります。
——「一本目の蝋燭」が被害者たち、「三本目の蝋燭」が生存者ですね。母親たち、というのは「十二本目の、最後の蝋燭」ですね、能の《隅田川》がモチーフとなった。
DP そのとおりです。同時に、ベンジャミン・ブリテンの歌劇《カーリュー・リヴァー》にも着想を得ています。この歌劇は、《隅田川》にインスパイアされたものなんです。この二つの演劇作品は、いずれも喪失と弔いについての物語です。そして愛する者を失うことの不確かさの物語でもある。失われた者の身に何が起こったのかがわからないという不確かさが、ここには謳われています。
ところで、私は平沢貞道氏は帝銀事件の犯人ではないと思っています。あれは冤罪だったと思うのです。しかしすべては謎のまま。ですから私は、十番目の章での平沢氏の語りが、本書のなかで、もっとも明晰でシンプルなものであるべきだと考えました。曖昧さの霧を鋭く抜けてゆくような語りであるべきだと。
——事件を捜査した刑事の手帳の体裁をとった「二本目の蝋燭」には息づまるようなものを感じました。
DP あの章に書かれていることは、現実の捜査活動に則っています。それが、刑事の手帳に書きつけられてゆく。無数の人名、地名、日付、情報。この刑事にとっては、情報の収集、捜査の進行が第一ですから、立ち止まって捜査の内容について熟考する時間などないというわけです。ちなみに「H」と呼ばれるこの刑事は、第一作にも登場した服部刑事で、のちの九番目の章の語り手である「N」は、第一作で主人公と行動をともにしていた西刑事です。
——「四本目の蝋燭」ではアメリカ人が視点人物となります。
DP じっさいに七三一部隊について調査するために来日した二人のアメリカ軍の科学者がいたのです。この章は書簡と報告書で語られますが、これも現実の手紙と報告書をベースにしました。ちなみに、この二人の科学者のうち片方も、自殺を遂げているのです。
——「五本目の蝋燭」には原文では「occult detective」と呼ばれる人物が登場します。これを読んだとき、真っ先に京極夏彦氏の「京極堂シリーズ」を連想しました。
DP 私は日本と東京の「オカルティックな歴史」というテーマに弱いんです(笑)。京極夏彦作品もそうですが、荒俣宏『帝都物語』、島田荘司『占星術殺人事件』といったような作品も好きなんですよ。この「邪教の探偵」も、現実の新聞記事から着想を得ています。帝銀の近くに住む男が、現場のはす向かいにある神社の境内に「捜査本部」を勝手に開いたというのです。その男は、そこを拠点に事件の捜査をしていたんですよ、ヒロポンを打ちながら!
——その記事というのは、新聞記者が語り手の「六本目の蝋燭」に出てくる記事ですか。
DP そうです。そもそも小説に必要なディテールを、私は当時の新聞記事から得ました。だからこの作品でも新聞記者の物語が不可欠だと考えたのです。彼自身の言葉と、彼の書いた記事の両方が。この章に挿入されている新聞記事は、ほとんどが実際の記事に基づいています。
つづく「七本目の蝋燭」は、兵隊/やくざ/商人/政治家である男の章。これは本書の中央、つまり三部作の中心に位置しています。この章こそが「黒い門」の、「占領都市」の、「骨の山」の頂上なのですね。と、この章についてはこれくらいにとどめておきましょうか。
——「八本目の蝋燭」には二人目の外国人が登場します。ソヴィエトの調査官。
DP この章と、次の「九本目の蝋燭」の文体は、個人的に誇りに思っているものなんです。
ソ連人の章には着想源がいくつかあります。ニコライ・ゴーゴリの『狂人日記』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、ショスタコーヴィチの音楽にタルコフスキーの映画。さらには聖書と、ロシア正教の聖人たちの生涯。そのすべてがここには投入されているわけです。
——そして「九本目の蝋燭」、この文体は究極的な感じがありますね。
DP 技術的にいえば、これまでにないほどの難物でした。私が書きたかったのは、その章自体が、事件全体の、そして小説全体の複雑性や多義性を象徴しているようなものだったのです。さまざまな読み方が可能で、さまざまな意味を持っているような作品。そのまま上から下へ読むこともできれば、普通の活字だけをつないで読むことも、太字(イタリック)だけをつないで、あるいはゴシック体(大文字)だけをつないで読むこともできるテキスト。それぞれの読み方によって、異なる物語、異なる意味が浮かび上がるようなもの……。
複数の活字を用いる手法などは、ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーの作品、とくに『落魄の岸辺 メディアマテリアル アルゴー船員たちのいる風景』に触発されたものです。このミュラーの作品もまた、エウリピデスの『メディア』と、T・S・エリオットの『荒地』に影響を受けています。さらに私はゲオルク・ビューヒナーの『ヴォイツェック』の要素をそこに加えています。なお、これは自慢できることなんですが、この章は今年の夏にフランスのアヴィニヨン演劇祭で舞台劇として上演されることが決まっています。
——残るは真犯人の章、「十一本目の蝋燭」。
DP 章題はホルヘ・ルイス・ボルヘスの『汚辱の世界史』から着想したものですが、文章それ自体は私の頭のなかでひびいていた「声」、私が夢のなかで聴いた声に準じています。事件についての資料を読み、取材をした末に私が聞いた、これこそが「真犯人」の声なのです。私の頭のなかで、私の夢のなかで、私の悪夢のなかで聞いた声です。
——日本版と他の国の版では、ひとつ大きな違いがありますね。海外の版では、各章のあいだにもプロローグとエピローグにあったような降霊会の場面が挿入されています。
DP ジャック・デリダが、書物というのは永遠に完成しないものだ、と述べています。すべての文章や書物は、読者によって読まれることで完成するのだと。——この意見に納得する一方で、作家もまた、自分の原稿を完成させることはけっしてできないと私は感じています。できるのは、ただ書くのを止め、手を放すことだけ。作家にとっていちばん大事なのは、「どこで止めるのか」を知ることなのです。『占領都市』より前のすべての作品で、私は、しかるべきタイミングで書くのを止めることができたと思っています。しかし、『占領都市』については、自信がありませんでした。手を放すのが少し早すぎたのではないかと考えていました。
この作品の構造に「藪の中」を使おうと決めたとき、私は十二の物語を書き、配置するのに苦労しました。短編作家であった芥川は、そんなことに悩まずに済んだのでしょうが、長編型の私としては、それぞれの物語をつなぐ「接着剤」がほしかったんです。ですから私は「作家」を登場人物として出すことにしました——坂口安吾です。最初の原稿では、坂口安吾は事件を基にした小説『帝銀物語』を書こうと苦闘している、というふうになっていました。苦悩の果てに黒門にたどりついた安吾は、そこで十二の蝋燭を円形にたてた降霊会に出くわします。そこで十二の「声」が『帝銀物語』を書く手伝いをする、というものです。
——最終的には坂口安吾の名前は出ずに、「おまえ」あるいは「作家」と書かれています。これは日本版にもプロローグとエピローグとして残されています。
DP はい。それは、この「坂口安吾」は、むしろ私自身であると思ったせいです。欧米で本になったのは、「おまえ」と呼ばれる作家と降霊会の場面が章と章のあいだに挟まったヴァージョンです。
ですが私としては、その原稿に完全に満足していたとは言いがたかった。そして日本語版の編集作業がはじまったときに考えはじめたのです、なぜだろう、なぜだ、なぜだ、と。なぜ自分はこの作品について気の晴れないものを感じているのだろうと。
そこで私は「藪の中」を読み直しました。その結果、自分がどこでまちがったのか気づいたのです。各章のあいだにある降霊会の場面は不要だと。ブラウニングの詩がそうであったように、冒頭と最後にだけあればいい。あとは読者を信じてまかせればいいのだと。読者が自分自身で、十二の声/物語から、それぞれの真実を見つけてくれればと……。
これでようやく、私はこの本から手を放すことができたのです。
アンチ・クライム・ノヴェル
——この作品の第一稿を添付したメールに、あなたは「これはアンチ・クライム・ノヴェルだ」と書いていたことが非常に印象に残っています。これは造語ですか。
DP そうです。以前からずっと、「犯罪は娯楽である」とばかりに小説や映画が売り出されていることに、違和感を感じていたのです。犯罪というものは現実には残忍なものであり、その結果は悲劇的なものです。犯罪の現実と実際には、いかなる興奮も娯楽もありません。
帝銀事件について調べ、執筆しているあいだ、私はこの事件の恐怖と悲劇性に圧倒されていたように思います。事件の犠牲者とそのご遺族のことを考え、平沢氏の胸中を思うと、圧倒されるとしか言いようがなかった。ですから私は、そうした恐怖や悲劇性を単に「おもしろい娯楽」にしたくなかったのです。いっときのひまつぶしのための遊戯や気晴らしにはしたくなかった。この恐怖は、現実の人間の身に、現実に起こったことなのです。しかもこの悲劇はまだ終わっていない。未解決のままです。だから私は、この作品を「アンチ・クライム・ノヴェル」と呼んだのです。単純な娯楽としての「クライム・ノヴェル」に対する「アンチ」だから。
——「anti-crime novel」を日本語に訳すと、「アンチ・ミステリ」となります。じつは、まさにそう呼ばれる特殊なミステリが日本には存在します。小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、夢野久作『ドグラ・マグラ』、中井英夫『虚無への供物』といった作品のことです。
DP 「アンチ・ミステリ」という言葉は知りませんでした。とても興味深いコンセプトだと思います。いずれの作家の名前も知っていますが、いま挙がった作品で読んだことのあるのは『ドグラ・マグラ』だけです。一九八八年公開の松本俊夫による映画版を観たのがキッカケで、ほかにも短編を二作、読んでいます。じつを言うと『TOKYO YEAR ZERO』の主人公・三波は、『ドグラ・マグラ』の登場人物、呉一郎にインスパイアされたんです。呉一郎も三波刑事も、探偵・犯人・被害者の一人三役を演じていると読むことができると思います。
——「アンチ・ミステリ」は、「怪奇な謎を論理的に解明する」というミステリの形式をラディカルに追求した果てに、幻想や不合理の域にたどりついてしまった小説、と要約することができます。だから『占領都市』も「アンチ・ミステリ」と呼ぶべき作品だと思うのです。
DP ご存じのとおり、ミステリの黎明期の名探偵たち(オーギュスト・デュパンやシャーロック・ホームズなど)は科学のひとでした。論理と理性をもって、分析と推論をおこない、解答と解決をもたらす。しかし一九三〇年代までに、科学や科学者が実験や理論によってもたらすものが、「解決」だけではなく、犯罪や狂気であることが見えてきた。フランケンシュタイン博士の亡霊が舞い戻ってきたのですね。
だから夢野久作や小栗虫太郎といった作家たちが、科学と科学者、犯罪と狂気について書きながら、同時にミステリの定型に対する実験を行ない、結果として「アンチ・ミステリ」が生まれたというのは非常におもしろいですね。彼らは、ある意味で未来を予見していたのかもしれません。狂人としての科学者、悪夢としての科学——それは現実においてはヒロシマとナガサキでの原爆であり、中国で七三一部隊の行なった実験に対応するのではないでしょうか。
——最後に、第三作の構想についてお聞かせ願えますか。
DP 《東京三部作》の最終作は下山事件をモチーフにしたもので、The Exorcistsという仮題です。下山事件は非常に有名な事件ですから、膨大な数のひとたちがそれぞれの説を持っています。なのに今度は「藪の中」スタイルは使えないのが問題です(笑)。
さきほども言ったように、私はこの三部作を「三連作の絵画」として観ています。つまり、第三作は構造的に、『TOKYO YEAR ZERO』の鏡像となります。三波をはじめとする刑事たちの幾人かが再登場するのではないかと考えています。しかし、下山事件が小平事件や帝銀事件と大きく異なるのは、これがそもそも「犯罪」であるのかが今も不明であること、アメリカによる占領体制が事件の捜査にも下山氏自身の死の経緯にもはっきりと関わり、影響を及ぼしていたこと、この二つです。そんな理由から、いまの構想では第三作の語り手はアメリカ人にするつもりでいます。占領者です。
——『占領都市』には、GHQや日本政府、あるいは旧軍のために動いている「影」のような人物が見え隠れしています。下山事件は政治という底流がつきまとう事件です。そうした「影」が、完結編で明らかにされるのでしょうか。「日本」の暗い過去、政治と戦争と占領の影が。
DP 現実の犯罪について書くとき——それもじっさいに何が起きたのか判然としないようなものの場合——私が目指すのは(傲慢で子供じみていることは承知で言いますが)真犯人を捕まえ、死者に安らぎをもたらし、謎を解決することです。そう望んでいるのですよ。そうできるように祈っているのです。
けれど同時に私は知っています、つねに「影」は存在し、つねに謎は残りつづけるのだと。
(構成・文藝春秋編集部/二〇一二年七月)