田口 俊樹さま
サビッチの浮気は2回だけ、とどうして言い切れるのですか?

「翻訳ミステリー長屋かわら版」第39号(11月2日)で、田口俊樹氏が私のサビッチ評に対する反論を書いている。

 当サイトの七福神で私は、スコット・トゥロー『無罪』(二宮磬訳/文藝春秋)を取り上げ、「ダメ男は生涯ダメ男のままということだろう。四十歳でふらふらしているやつは、六十になってもふらふらしている」と書いたのだが、それを読んで目を疑ったと田口氏は書いている。その反論の骨子は次の3点だ。

(1)サビッチは心を病んだ奥さんのために寄り添って生活しているいいやつだ

(2)浮気は2回だけで、しかも今回、肉感的な若い女性がむこうから言い寄ってくるから、これをはねつけるのは困難だ

(3)それを「ダメ男」とは何事だ

 まず、(1)からいく。奥さんの看病というか、一緒に暮らすことは、この男の善良さを意味しているが、そのこととダメ男であることは矛盾しない。たとえば、ダメ男小説のベスト1である石和鷹『クルー』(すごいぞ、これ)の主人公も、余命いくばくもない妻が入院している病院にきちんと見舞いにいく。妻を放って遊び歩いているわけではない。これもまた善良な男といっていい。ただ、その病院の待合室で、女性を口説くから、ダメ男である。つまり、善良であることと、ダメ男であることは矛盾しないのである。

 次は(2)だが、どうしてサビッチの浮気は2回だけ、と言い切れるのかと思ったら、こういう記述があるんですね。

「結婚して三十六年になるが、州兵の基礎訓練を受けていたころ、酔っぱらってステーションワゴンのなかで女と寝たことをべつにすれば、妻以外にわたしが知った女は一人しかいない。あのとき、やむにやまれぬ狂気に突き立てられて道をまちがえ、快楽に溺れた結果、わたしはそのまま殺人容疑で法廷に引き出されることになった。おなじ過ちをくり返すことなかれ、という警句がわたしほどふさわしい人間はこの世にいないだろう」

 この記述に出てくる「妻以外にわたしが知った女は一人しかいない」というのは、『推定無罪』で殺害された女性検事補のキャロリンだ。それから二十年、今度のお相手は上席調査官アンナなのだが、それまで本当にただの一度も浮気しなかったのだろうか。かなり怪しいと私は思う。

 でも、本人がそう言ってるじゃん、と言われても、こんなの嘘に決まっている、と言いたいが、百歩譲ってアンナが2回目の浮気だとしよう。しかし田口よ、たった2回だから許されるというものではない。1回でもダメなのである。それが世の常識というものだ。

「いまでは二人だけになると、彼女は臆面もなく、露骨に秋波を送ってくる。仕種がいちいち意味ありげで、ウインクはするし、まさに触れなば落ちんの風情だ」

 たとえ、こういう局面でも、ふらふらしちゃいけないんである。一度もふらふらしたことはないと言い切る(本当かよ)KG山氏にそこんところ聞いていただきたい。そこをぐっとこらえるのが、妻を愛する本当の男というものなのである。「ここでふらふらしなくてどこでふらふらするんだ」というのは、結局はダメ男の言い分なのだ。

 それにこいつは、「おなじ過ちをくり返すことなかれ、という警句がわたしほどふさわしい人間はこの世にいないだろう」と言っておきながら、結局アンナにふらふら近寄っていくのだから弁護はできない。もう確信犯といっていい。

 ここまでのことは賢明なる田口氏も実はわかっていることだと思う。ようするに最後の(3)に、田口氏は引っ掛かっているだけだろう。だから、書いておく。ダメ男でいいじゃん、と。拙著『情痴小説の研究』の冒頭に、私は次のように書いた。

「本書では三十三人の作家を取り上げ、その作品をテキストにした。これらの情痴小説に登場する、泣き虫で、身勝手で、独善的で、流されてゆく男たちが巻き込まれる、いや巻き起こす修羅場は、けっして他人事ではない。したがって鏡に映るおのれの姿を見るような気がして時には嫌になってくるが、しかしそれが結構好きだったりもするから困ってしまう。こういうダメ男小説を読みながら心がなごんでくるというのは、まったく困ったことである」

 つまり、世間的にはダメ男であっても私、そういう男たちが好きなのである。かぎりなく共感を抱くのである。田口よ、私が貴君を好きなのも、一緒に酒を飲んで楽しいのも、貴君が私と同様に、ダメ男であるからなのだ。サビッチは実は、私たちなのである。

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