「北上次郎の質問箱」第四回 霜月蒼さま ジャック・リーチャーは本当に カッコいいですか?

北上次郎の質問箱・第四回の回答・前篇(執筆者・霜月蒼)

【承前】

 1986年、北上次郎の『冒険小説の時代』を読んでいたわたしは、ある作家の新作についての評に引っかかりをおぼえた。その作家とは——

 クライブ・カッスラーである。

 問題の書評は、1982年に邦訳されたカッスラーのダーク・ピット・シリーズ第5作『マンハッタン特急を探せ』をとりあげたものだった。このシリーズは「国立海中海洋機関(NUMA)」なる機関の特殊任務担当ダーク・ピットが、海にまつわるさまざまな陰謀と戦うという人気作品。このシリーズについて北上次郎は、代表作『タイタニックを引き揚げろ』を高く評価しつつも、以降邦訳された『氷山を狙え』『QD弾頭を回収せよ』といった作品について、一貫して違和感を表明してきた。そして続く邦訳『マンハッタン特急を探せ』に関する書評で、ダーク・ピット・シリーズは北上次郎のいう「冒険小説/活劇小説」には属さない小説であると確信したと記していた。

 一方でわたしは新潮文庫版のダーク・ピット・シリーズをすでに読んでおり、アリステア・マクリーンやデズモンド・バグリイの作品と同じような昂揚を感じ、「ダーク・ピットかっけー!」と思っていた。つまりダーク・ピット・シリーズが冒険小説であることを毫も疑っていなかったのである。そこに、他ならぬ北上次郎が苦言を呈したのであるから、わが動揺はいかばかりであったか。

 とはいえ、わたしもまだ15歳かそこらである。「そうかダーク・ピット・シリーズは冒険小説ではなかったのか」と、すなおに北上次郎の定義にしたがい、自分の脳内の小説マップのなかの「冒険小説」の境界上のところにダーク・ピット・シリーズを配置した。この定義を受け入れたうえで、小説を読んでいこう、と思ったのである。そしてそれは、以降、現在までつづく。——だから前篇で記したように、わたしは北上次郎が『質問箱』で言わんとしたことが100%わかるのである。

 ただし問題なのは、ジャンルがどうであれ、わたしにとってダーク・ピットがカッコよかったということなのだ。その「カッコよさ」は、ジャック・リーチャーの「カッコよさ」、スーパーヒーローの「カッコよさ」と同じものだ。——ダーク・ピットをめぐる1986年の問題と、ジャック・リーチャーをめぐる2013年の問題は、まったく同じなのである。

 では北上次郎をして「クライブ・カッスラーは冒険小説ではない」と確信させたのは何だったのだろう。

 その核心部分を、北上次郎は『マンハッタン特急を探せ』の一場面に求めている。主人公ダーク・ピットが冒険行の途中で水をたたえた立坑で溺死しそうになる、という場面である。著者カッスラーは、溺れるダーク・ピットの意識が途切れる瞬間に場面を切り替え、しばし別の物語を語ってから、ふたたびダーク・ピットの物語に戻る。この間にピットは危地を脱している(その経緯はあとで語られる)。

 冒険小説としてみたとき、ここが『マンハッタン特急を探せ』の、そしてダーク・ピット・シリーズの決定的な欠点だと北上次郎は記す。曰く、冒険小説であるならば、主人公が危機と格闘するさまを描かなくてはならず、ピットの死闘を描かずにすませたのは、カッスラーが「主人公の苦闘」よりも「おもしろい物語を展開させること」を優先しているせいではないのか。

 つまりカッスラーは「物語主義」に軸足を置いており、それは「冒険小説/活劇小説」の本質と相容れないというのが北上次郎の意見だった。ダーク・ピットへの北上次郎の違和感と、今回のジャック・リーチャーへの違和感は同じものだろう。

 北上次郎と「物語主義」といえば、やはり『冒険小説の時代』に収録されている北方謙三の初期傑作『檻』についての評言を思い出さずにはおれない。

『檻』は、スーパーの店長として静かに暮らしていた男が、ひょんなことから、眠らせたはずの暴力衝動をめざめさせてしまい、それに引きずられるように徐々に破滅してゆく、という小説である。いま「ひょんなことから」と書いたが、この「ひょんなこと」というのは、主人公の経営するスーパーにチンピラによるイヤガラセが相次ぎ、主人公がそれを解決しようとする、という冒頭の部分。だが、このエピソードは本筋と関係ない。『檻』という小説を駆動する主人公の暴力衝動を起動するためだけに、この冒頭のエピソードがある。

 ここを北上次郎は、北方謙三が「物語主義」に堕していないとして高く評価した。後年、北方謙三は『檻』の主題と流儀を発展させ突きつめて心理小説的ノワールとでもいうべき作品、『擬態』『煤煙』などの傑作を送り出すことになる。これらの作品では、主人公の外部にある状況や、主人公が外部に向けてアウトプットする行動よりも、主人公の内部で状況に導かれて生じるものや、アウトプットを導き出す心理のほうに重点は置かれている。

 こうした北上次郎の問題意識を象徴するのが「70年代の壁」という語である。『冒険小説の時代』『冒険小説論』の双方で、北上次郎はこの言葉を用いて冒険小説の一問題について考察している。「70年代の壁」とは、この時代以降の冒険小説が、その舞台背景や陰謀の様相に凝りはじめた結果、主人公の肉体/身体に根ざした迫真性が失われたことを指す。これを解決するためには肉体性に立ち戻らなくてはならないと北上次郎はいう。

「背景」と「肉体」——主人公の「外部」と主人公の「内部」——「物語」と「心理」。

 北上次郎がリー・チャイルド/クライブ・カッスラーを通じて問題視するのは、物語主義と肉体性の相克である。つまり、「主人公が物語の進行に奉仕する」のがチャイルド/カッスラーであり、「主人公を描くために物語がある」のが北上次郎のいう冒険小説なのである。主人公=冒険者が、プロット進行のための装置であるのかどうか——「狂言回し」であるかどうか、が問題なのだ。

「物語」と「心理」の問題を、前回わたしが書いた「感情移入できるヒーロー/できないヒーロー」の二分法と合わせてみると、こう言い換えることができる——ある物語のなかで展開する活劇に、「読者が心理的に当事者として関わる」か、あるいは「一歩ひいた場所から観客として観る」かという違い。北上次郎が「冒険小説/活劇小説」というとき、それは前者を指す。活劇を通じて活写されるヒーローの内的ドラマを重視するか、あるいはヒーローを通じて推進される物語りを重視するか、ということである。

 わたしは本サイトでの『アガサ・クリスティー攻略作戦』第九十一回『死への旅』を扱い、「冒険小説/活劇小説は、つきつめれば心理小説である」と書いた。これは北上次郎の「肉体性」の重視と同じことを言っている。つづけてわたしが書いているように、「小説というのは言葉で紡がれるものであるから、『肉体性』は、視点人物の『感覚/心理』を通じてしか描けない」からだ。

 この「心理小説としての冒険小説」は、読者が主人公とシンクロして『活劇』の当事者として物語に関わっているタイプのものを指し、ここで心理描写は、主人公の心理を読者に共有させるツールになっている。翻って、ダーク・ピット=ジャック・リーチャー=スーパーヒーローの物語はどうか。これらは危機の(デスペレートな)心理の描写を欠いているがゆえに、読者は主人公の外側に立って、その行動を見守る立場にとどまる。このとき「カッコいい!」というカタルシスの感情を読者にもたらすのは、「肉体性=心理描写」ではなく、それと対置されている「物語性」ということになるのだろう。これは前回わたしが記した「復讐小説のカタルシス」ということだ。主人公の内面の切迫ではなく、「設定=物語構造」に導かれるカタルシス。

 さて、長い長い回り道を経て、ここでひとつの結論を出すことができる。

 わたしは『アウトロー』におけるジャック・リーチャーをカッコいいと思った。一方でディック・フランシスのシリーズの主人公たちをカッコいいと思っている。このふたつの「カッコよさ」は別種のものなのである。

 一方で日本でいう「冒険小説」は、英語では「thriller」、つまり「thrillをもたらすもの」になるが、わたしが双方に感じた「カッコよさ」は、この「thrill」の果てにもたらされる感情という意味では同一のものでもあるのだ。

 ここにある二種類のヒーローと、それぞれの「カッコよさ」。「thriller」と「冒険小説」。北上次郎は、古今のthrillerを精査した結果、thrillerから冒険小説を峻別したといえそうだ。そして『冒険小説論』などによって、「物語の狂言回しとしての活劇ヒーロー」をしりぞけ、「読者が心理的にシンクロするタイプのヒーロー」の物語を「冒険小説」と位置づけた。

【ただし、thrillerにおけるダーク・ピット的な人物の行き着く果てに、トム・クランシーの生んだ「ジャック・ライアン」という人物の問題があるのはたしかである。これについてはオレン・スタインハウアー『ツーリスト』解説に「ジャック・ライアン症候群」として記したのでここでは詳述しない。要するにダーク・ピット=ジャック・リーチャーもジャック・ライアンも物語を駆動させるための「道具」ではあるが、ピット=リーチャーは日本語でいう「キャラ」たり得ている一方で、ジャック・ライアンは「キャラ」よりも抽象化された「記号/装置」である、という点に違いがある。北上次郎と異なり、わたしは「ピット=リーチャー」と「ジャック・ライアン」には決定的差があるとみているということだ。

 さらについでにいえば、『死への旅』は、主人公像がジャック・ライアン的に空虚であることに加え、物語も、それによるカタルシスを導くに足るほどの切迫性を持っていないということになる。冒険小説としてはもとより、『死への旅』は、あらゆる意味でthrillerとして評価できる基準に達していないのである】

 とくに国産の冒険小説をみるとき、北上次郎以降に生み出された作品のほとんどは、その「冒険小説観」を設計図として書かれた。これは日本における「本格ミステリ」が、江戸川乱歩による「本格探偵小説観」のもとに生み出されていったのと同じ構図である。この影響関係を無視して「冒険小説」という4文字を冠した作品を論じるのは現実を見失っているといっていい。

 ツイッターでの議論をまとめたTogetterに、「フィクション作品のハッキング描写は次の演出を考えてもいい時期ではないだろうか」というまとめがある。

 http://togetter.com/li/31899

 これは、「映画でのハッキングは矢鱈とキーボードを叩いてウィンドウを大量に開いているけど、それは現実にそぐわない」というものなのだが、ページの下方にあるコメント欄をご覧いただけば、そこに「小説にはもっとリアリスティックな描写がある」という意見がいくつかあることがわかる。この「ハッキング」を「アクション」として観ると示唆的だ。

 現実に即したハッキング行為は、アクションとしてビジュアル的に地味なのであろう。だから映像作品においては、「ハッキングをアクション/動作として面白くするための虚構」が必須になってくる。しかし小説においては、いかにビジュアル的に地味なハッキングというアクションでも、それは行為者の心理を通じて描かれるがゆえに、行為者の心理による豊穣な意味づけが加わる。

 エンターキーを指先でヒットする行為は、映像的には「エンターキーを指先でヒットする」という行為以上のものではない。しかしそれは、文字によって描かれるとき、もっと多彩なニュアンスを獲得することが可能だ。これが小説というものの魔法である。映像に心理は盛り込めない。

 だが他方で映像は、見事な体技や美しい運動を、それ自体として写しとることができる。カーチェイスや格闘の壮絶や、美しい風景や光を盛り込むことは、文字列にはできないのだ。

 そう、その意味で、映像がもたらすセンセーションは、ダーク・ピット=ジャック・リーチャーに感じるカッコよさに似る。わたしたちは心理を共有しない観客だからだ。スーパーヒーロー物語が、小説よりも映画やコミックやアニメのほうで隆盛であることと、このことは無縁ではないだろう。

 つまりこういうことだ——北上次郎が「冒険小説」と呼ぶ物語には、どんな小さな行為をもthrillingなものにし、最終的に「カッコいい」という光輝をもたらす、小説特有の言葉のマジックが息づいているのである。

 そしてわたしがそういう小説を愛していることは言うまでもないだろう。

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