1月の七福神 を見て、びっくりした。霜月蒼が推薦作として、リー・チャイルドの『アウトロー』(小林宏明訳/講談社文庫)をあげ、次のように書いていたのだ。
いまもっとも日本で過少評価されている作家はリー・チャイルドだと思うのです。カッコいい!と理屈抜きで思わせるヒーロー像とアクション、精緻なプロットと、律儀な謎解き。読めば確実にスカッとできる安心のエンタメとして、本当ならディーヴァーやコナリーとともに毎年の新作を待ち望まれるべきシリーズなのだ! 犯人が見え見えの無差別狙撃事件に隠された真相を暴く本作も、狙撃現場で手がかりを緻密に拾ってゆくプロセスはガチのミステリ、クライマックスは痛快の極み!
この文章の後ろ3分の2はいい。あえて異をとなえない。問題は前半の、特に3分の1だ。具体的には、「カッコいい!と理屈抜きで思わせるヒーロー像とアクション」という箇所だ。まさか霜月蒼がこんなことを書くとは思ってもいなかった。
だって、リー・チャイルド『アウトロー』の主人公ジャック・リーチャーはイヤになっちゃうくらい強いんだぜ。03年に『反撃』が翻訳されたとき、私は次のように書いた。
「快調なアクション小説ではあるものの、残念ながら緊迫感に欠けている。主人公がケタ外れに強いスーパーマンなので、活劇のカタルシスがないのだ。これでは辛い」
もちろん、今回の『アウトロー』でも、ジャック・リーチャーは強い。どうやっても負けようがない。すべての戦いで、戦う前から彼が敵を倒すことはわかっている。本人もそう思っていて、読者もそう思っている。そんな活劇が面白いと思いますか? もちろんアクション小説の主人公は最初から勝つことが決まっている、と言うことも出来る。しかしそれは結果であり、その結果にいたるまでのハラハラドキドキこそがアクションの利き目ではないか。近年の大傑作『暗殺者グレイマン』を見よ。あのスリリングなクライマックスを見よ。ところが『アウトロー』には、そういうスリルが一かけらもない。
誤解なきように書いておけば、リー・チャイルドの作家としての才能を否定するわけではない。たとえば09年に『前夜』が翻訳されたとき、たっぷり読ませると私は評した。それはこの作品にアクション場面が少なく、リー・チャイルドを読むときのいつもの違和感(つまり、アクションに活劇のカタルシスがないこと!)がなかったからでもある。アクション以外のところはかなり読ませるのだ。それは私も認めよう。だから、書かなきゃいいじゃんアクション。
問題は、アクションに興味のない人がこの『アウトロー』を褒めるのならまだ理解できるが、霜月蒼だぜ。これがショックだ。本の雑誌の10年3月号(321号)の書評特集に寄せた私のエッセイ「いま、霜月蒼がすごい!」は、『ブラック・ラグーン』というコミックを紹介した彼の日記を読んだときの驚きがもとになっている。クレイグ・トーマス『狼殺し』を連想すると書いたあと、そのとき彼はこう締めくくった。
「銃撃と活劇を好むすべての読者に、これを読めとおれは命じる」
おお、大変だ、とこれを読んで私はすぐに立ち上がり、その『ブラック・ラグーン』を買うために書店に急いだのだが、トーマス『狼殺し』とコミック『ブラック・ラグーン』を愛する人が、なぜこの『アウトロー』を褒めるのか。
いや、「精緻なプロット」や「律儀な謎解き」、さらに「手がかりを緻密に拾ってゆくプロセスはガチのミステリ」であり、「クライマックスは痛快」であることはいい。そういうことを褒めるなら、私も特に異をとなえない。しかし、この主人公ジャック・リーチャーがカッコいいヒーローであるというのだけは、霜月蒼の口から聞きたくない。それだけはやめてくれ。私の好きな活劇は、貴君も好む活劇だ、とずっと信じていたいから。