「北上次郎の質問箱」第四回 霜月蒼さま ジャック・リーチャーは本当に カッコいいですか?

 小学校の頃、わたしは角川文庫の西村寿行作品に付された北上次郎による解説を読んで、世の中には小説を筋道だって評する人間がいると知ったのである。あの体験がなければわたしは今ここにおらず、北上次郎が80年代に冒険小説ブームを起爆していなければ、やはり今ここにいなかっただろう。

 あれから30年。まさかその北上次郎氏から、まさか「活劇小説」について論争を挑まれようとは。おそるべき光栄である。まずそのことを記しておきたい。身に余る光栄です。

 そんな北上次郎氏が相手なのであるから、『質問箱』に対して、真正面からガチで返答を記すことにする。おかげで長くなってしまったわけだが、弟子が師匠に手合せ願うということで読者諸賢には諒とされたい。

 じつのところ、北上次郎が『質問箱』で記している『アウトロー』およびリー・チャイルド作品観に、わたしはほとんど同意する。もっとも北上次郎とは異なって『前夜』だけが傑出しているとは思わないし、『キリング・フロアー』と『警鐘』と『アウトロー』は(じつはそれぞれに美点は違えつつも)同等に快作だと思っているのだが、それは小さなことだ。北上次郎が言わんとしていることは100%解る。

 つまり、リー・チャイルド作品を収めるべき箱は、『狼殺し』をはじめとするクレイグ・トーマスの作品や『ブラック・ラグーン』、スティーヴン・ハンターの『真夜中のデッドリミット』、あるいはディック・フランシスの『大穴』や『証拠』や『度胸』の収まっている箱とは違うのではないか、ということ。そこに異論はないのである。

 ならば何が問題なのか。七福神レビューでわたしが記した「アクション」、「カッコいい」、「ヒーロー」という語。それをめぐる意見の相違なのだ。

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 さて、リー・チャイルドのジャック・リーチャー・シリーズのことを、わたしは「スーパーヒーロー譚」だと思っている。リーチャーは、クレイグ・トーマスの描くリチャード・ガードナー(『狼殺し』)やパトリック・ハイド(『闇の奥へ』他)、あるいはディック・フランシスのシッド・ハレー(『大穴』他)、広江礼威のロベルタ(『ブラック・ラグーン』)といったキャラよりも、スーパーマンやバットマンに近い存在なのである。

 さらにいうと、わたしの脳内でリーチャー・シリーズは、往年のディーン・R・クーンツ作品——『ライトニング』や『戦慄のシャドウファイア』の頃の——と同じフォルダに分類されている。すなわち、「どきどきするけれど、確実にハッピーエンドが待ち受けている小説」のフォルダ。リー・チャイルドの新作を手にとるとき、わたしはそういう期待——あるいは安心感——をもって読みはじめる。

 けっして負けないスーパーヒーローがもたらす明朗快活なカタルシス。それを期待して、わたしはリーチャー・シリーズを読んでいる。

 「ジャック・リーチャーがスーパーヒーローであること」には北上次郎も異論はないはずだ。じっさい、『質問箱』で引用された書評のなかで、北上次郎はリーチャーを「ケタ外れに強いスーパーマン」と評している(ここでの「スーパーマン」は一般名詞としての「超人」の意)。ここまでは見解が一致している。

 しかし、ここを分岐点に、わたしと北上次郎の意見は対立する。さきの「質問箱」には、

 もちろんアクション小説の主人公は最初から勝つことが決まっている、と言うことも出来る。しかしそれは結果であり、その結果にいたるまでのハラハラドキドキこそがアクションの利き目ではないか。

 とある。その「ハラハラドキドキ」が『アウトロー』にはない、ゆえに『アウトロー』(=ジャック・リーチャー)を「カッコいい」と評するのに違和感をおぼえる、と。だが、本当にそうだろうか。スーパーヒーローの物語はカッコよくないのだろうか。

 そんなことはないはずだ。というよりむしろ、「スーパーヒーロー」とは、「カッコよさ」の記号として生まれたはずではないか。その「カッコよさ」と、北上次郎のいう冒険小説/活劇小説のヒーローの「カッコよさ」はどう違うのだろうか。

 ヒーローには、読者が感情移入するヒーローと、感情移入しないヒーローがいるのではないか。北上次郎のいう「ハラハラドキドキ」は、ヒーローの苦闘に感情移入し、その内面とシンクロしていることを指している。

 ここでヒントとして日本のスーパーヒーローの代表格「ウルトラマン」の物語を見てみたい。

 ウルトラマンもののエピソードは、全30分のほとんどを怪獣なり異星人なりが地球を破壊するさまが占めるのが基本で、ウルトラマンの到来は最後の数分間である。ウルトラマンは事態が危機的になったときに神のように飛来し、怪獣を打ち倒す。観客はウルトラマンに感情移入するよりも、怪獣に蹂躙され、ウルトラマンに救われる地上の人間たちの立場で、その活躍を観て、喝采する。そもそもウルトラマンは地球の外から飛来した宇宙人、絶対的なエイリアンであるから、人間的な感情移入の依り代にはなりにくい。

 けっして倒れることのないスーパーヒーローは、多かれ少なかれ、そういう立場にいる。スーパーヒーローは敵を必ず倒す。そこは最初から織り込みずみだ。だからウルトラマンのエピソードで「怪獣との戦い」は毎回そう大差はない。そもそも戦いはつねに3分に限定されている。だからここの部分は「お約束」であるのだ。このことはバットマンでもスーパーマンでもアヴェンジャーズでも変わらない。

 しかしそれでもスーパーヒーローの戦いにはカタルシスがある。そこにはある種のカッコよさがある。そうでなければスーパーヒーローの物語がかくも普遍的に愛されることはないはずだ。そこにあるカタルシスとはどんなカタルシスであるのか。

「敵をぶっ倒すカタルシス」。それであろう。「敵をぶっ倒してくれるカタルシス」と言ったほうが正確だ。つまりこのカタルシスは復讐小説のカタルシスに近い。スーパーヒーローものよりもリアリズムに寄ったものでいえば、『必殺仕事人』のカタルシスと言ってもいい。スーパーヒーローは憤懣を抱く作中の被害者(=読者)に委託されて、加害者を討つということである。

 しかし北上次郎は言う、

 その結果にいたるまでのハラハラドキドキこそがアクションの利き目ではないか。

 左様、「負けるかもしれないけれど勝つ」というのが活劇小説のカタルシスの根幹ではある。だが、上記の「スーパーヒーロー物語≒復讐譚」のドラマを考えると、「負けるかもしれない」という部分、「ハラハラドキドキ」を担う部分、それは活劇の最中にあるのではなく、活劇に先立ってあるということになる。その事前の蓄積が、読者と物語の内部に憤懣の圧力を溜めてゆき、最後の「神のごときヒーロー」の到来によって一気に解放される。

 リー・チャイルドの『アウトロー』でいえば、それは最後の対決までの「無差別狙撃事件の調査と謎解き」部分にあたる。ウルトラマンで顕著なように、個々のエピソードの綾は、「最後の数分間」に先立つ部分のバリエーションにある。そこで展開する物語によって、「最後の数分間」が帯びる「意味」は変わってくる。それはときには残虐な怪獣をうち倒すものとなり、ときには悲しい出自を負った異星人をやむなく排除するものとなる。キーポイントは、「対決までの物語」にある。

 リー・チャイルドは、そこに手を決して抜かない。北上次郎も、

「精緻なプロット」や「律儀な謎解き」、さらに「手がかりを緻密に拾ってゆくプロセスはガチのミステリ」であり、「クライマックスは痛快」であることはいい。

 と、そこには同意している。『アウトロー』の悪辣な陰謀と、その精緻な解明きのプロセスは、黒幕の非情なやり口を明らかにする。ここでわたしたちは、「陰謀」への怒りをためこみ、それをリーチャーが打ち倒すことを待望するのである。

 リーチャーが、手がかりを拾いながら一歩一歩、陰謀の全容へ迫ってゆくプロセス自体が、「主人公が困難をひとつひとつ越えながら敵に迫ってゆく」という活劇の構造になっていることも、リー・チャイルドの巧さだろう。さきほどの感情移入の問題に戻るなら、ここで読者はリーチャーに感情移入するのではなく、リーチャーのそばでそれを見守る者の感情にシンクロしていることになる(そう、その意味でリーチャーはホームズ、読者はワトソンであり、このことはクラシカルな名探偵ミステリがスーパーヒーロー物であることを暗示している)。シリーズ第三作『警鐘』は、物語全体の興趣が「リーチャーが迫ってくる」というプロセスに置かれていて、そこに多彩なアイデアが満載されている。

「ハラハラドキドキ」の末の「活劇」。溜めこんだ圧力の一挙解放——スーパーヒーロー物語の快感、復讐物語のカタルシス、任侠映画における「殴り込み」の痛快。こうした局面では、登場人物たちが行動で事態を解決するという「行動それ自体」「活劇それ自体」がカタルシスであり、「スーパーヒーローがスーパーヒーローであること」こそがカッコよさであるのだ。そこに内省や苦悩といった面倒なものは存在しない。

 だからわたしは『アウトロー』を「理屈ぬき」で「痛快」だ、と評したのである。その点で、ジャック・リーチャー・シリーズに寄せる期待と、かつてのディーン・R・クーンツ作品への期待は重なりあうのだ。

 だが、わたしは『アウトロー』を「冒険小説」「活劇小説」と明快に呼ぶことをためらった。一方で昨日アップされた「2月の七福神」原稿に記したようにわたしは、まったくアクション要素のない『護りと裏切り』に「冒険小説」の相貌を見出している。この差は何であるのか。

 『アウトロー』をカッコいいと評したわたしの根拠はすでに上記で述べた。しかしそれだけでは、今回提起された問題の半分しか語っていない。

 問題のもう半分——わたしにとって冒険小説とは何であるのか、というのを記さなければならないだろう。北上次郎に向かって投げたボールは、いま放物線の頂点にある。そこから北上次郎の手へと戻ってゆく後半の軌跡を、わたしは記さなければならない。

 そして、ここでわたしは思い出す——1986年、15歳だったときのことだ。

 わたしは北上次郎の名著『冒険小説の時代』を図書館で借りて読んでいた。北上次郎の冒険小説への熱っぽい愛が充填された同書に激しく読書欲を煽られていたわたしだったが、ある箇所で「ん?」と思ったのである。そこでは、ある作家のある作品が俎上に上げられており、北上次郎は疑問を投げかけていた——これは冒険小説ではないのではないか、この主人公は冒険小説のヒーローではないのではないか、この作家は冒険小説作家ではないのではないか、と。そこに当時のわたしはひっかかりをおぼえた。このひっかかりは、今回の問題に直結するものだった。

 そう、2013年に火蓋の切られた論戦の種は、27年前の1986年に蒔かれていたのだ。

 その問題の作家とは誰であったか。

(つづく)