45年ぶりの新訳である。

北欧ミステリの先駆けであり警察小説の元祖にして金字塔。「刑事マルティン・ベック」シリーズ全10作は長く角川文庫で親しまれてきたが、年月を経て一冊また一冊と品切れ、アメリカ探偵作家クラブ賞受賞作である『笑う警官』だけがかろうじて生き残ってきた。いつしか「渋い外文」枠入りし、長いこと扱いが地味であったことは否定出来ない。

 流れが変わったのは、言うまでもなくスティーグ・ラーソンによる『ミレニアム』に端を発する北欧ミステリブームである。さらに角川文庫で言えば、コナン・ドイルやエラリー・クイーン等、ミステリーの古典の新訳が好調に推移していることも大きく作用したと言ってよいだろう。誰もが知る名シリーズの新訳企画は、スムースに会議を通過した。

 3D感を強く意識させられるアクション主体のミステリーに対し、地道に刑事や探偵が人を訪ねては新たな手がかりを得ていく古風なスタイルのミステリーこそ、いまの時代に読まれるのではないか。確信に近い直観があった。

 シリーズは『ロセアンナ』にはじまり、全10作。4作目から新訳をすることになったのは、これが紛う方なきシリーズ最高傑作だからである。シリーズの頭から読むのもよいが、ナンバーワンから読むのも面白い。何よりも『笑う警官』をスウェーデン語訳の第一人者・柳沢由実子訳で、と言えば、それだけで話が通る。

 1965年から75年までの十年間、世界は大きく揺れた。流布する清廉なイメージとは逆に、麻薬犯罪や自殺問題を多く抱えるスウェーデン社会を、本シリーズはストックホルムにある警察本庁犯罪捜査課の刑事たちの目を通して描いている。

 本国ではそもそも、警察小説とか文芸とかいう枠組はないのだ、とスウェーデン大使館広報・文化担当官のアダム・ベイェ氏は言う。エンタテインメント性を前面に打ち出しながら、ある一時代の世相を描き、なおかつ古びた印象を与えないのは、謎解きと人物、人間社会の軋轢を、余すことなく緻密に描いているからだろう。

 マルティン・ベックは、私生活では妻とうまくいっておらず、いつも風邪を引いている。ちょっと風采のあがらない感じ。同僚たちのチームワークは悪くないが、常に殺伐とした話題に満ちた刑事部屋だから、和気藹々、というわけでもない。淡々と事実を探り、考え、関係者に会いに行き、事件や被害者、犯人に思いを馳せる。背後にデモや移民労働、麻薬に売春などのシリアスな問題が、そっと描き込まれている。

 マイ・シューヴァル、ペール・ヴァールーという二人の事実婚夫婦による共同執筆で描かれた点も特異である。どのように執筆を進めたのかは非常に興味深いが、殊に、少し全体も短くなった歯切れの良い新訳で一気に読むと、二人の著者の役割分担など考える隙がないように思われる。

 スウェーデンでも2012年9月に新装版が刊行されたが、そこには二人の描いた、事件現場となるバスの形状や座席の位置関係の詳細な図面が付されている。当時の運転席のハンドルまわりは複雑怪奇で、レバーなどいまの何倍もくっついている。その1本1本が事細かに描き込まれた図面を見ていると、どちらかが調べどちらかが書いた、というような分かりやすい役割分担ではなかっただろうことが想像される。45年(以上)前のバスの込み入った形状を、マイとペールの二人がじっと見つめ、頭に叩き込み、その上で事件をつくり上げていった様が思い浮かぶ。何か二人の間に、人格融合があったかのようにさえ感じてしまう。削ぎ落されたモダンな訳によって、背景となるストックホルムの街や、その中で社会を見つめ続けた二人の作者の姿が、いっそうくっきりとしたように思う。

 45年前のストックホルムを立ち上げることは、容易ではない部分もあった。マイとペールの描いた街のディテールは、精確で細やかだ。正しく1967年を指す地図を探すのには、多くの困難が伴った。大使館にはじまり都市開発国土局、国立公文書館、軍事アーカイブと、メールとはいえ、たらい回しにされる羽目に陥った。最後には某出版社への使用許諾申請を行う必要に迫られたが、折悪しくバカンス時期が重なって、地図一枚の製作に膨大な時間が費やされた。一見してはわかるものではないが、現在のストックホルムとは道路の形状など異なる部分があるので、気になる方はぜひ口絵の地図もご覧いただきたい。

 帯には作家の今野敏さんより、「この作品は、私の警察小説の教科書です」と言葉を頂いた。杉江松恋さんの言葉を借りれば、「ためいきが出るほどおもしろい」ミステリーである。

文責:G(株式会社KADOKAWA 角川書店 第一編集局第一編集部)