数年前、東京創元社で就職試験の面接を受けていたわたしは、こんな質問をされました。「誰かインタビューしてみたい人はいますか?」なるほど、好きな作家は誰かというような質問の変形だな、と頭ではわかっていたんですが、なぜかそのときわたしはこう答えていたのです。「ヴァツラフ・ニジンスキーです」……意味不明な答えだったと思うのですが、当時のわたしはバレエ鑑賞にはまっていて、ロシアの伝説的バレエ・ダンサー、ニジンスキーの評伝を読んだばかりだったのですね。もう死んでるからインタビューとかできるわけないやん……。

 さて、なぜいきなりわたしの黒歴史を暴露したかといいますと……。ある本の編集作業を行っていたときに、この恥ずかしい記憶を思い出してしまったからなのです。死んだ人には会えないしインタビューできるわけがないけど、行けるはずのない過去であっても、まるで自分がそこにいるかのような臨場感を味わうことができる歴史小説ってあるものなんだなぁ、としみじみ思ったのでした。

 ある本というのは、7月に刊行いたしました『7は秘密——ニューヨーク最初の警官』(リンジー・フェイ著/野口百合子訳/創元推理文庫)です。この作品は19世紀半ばのニューヨークを舞台にしており、なんとあのドラマや小説でおなじみ、ニューヨーク市警の創設期を描いた警察小説なのです。本書は、ニューヨーク市警が発足した1845年を描いたシリーズ1作目『ゴッサムの神々——ニューヨーク最初の警官』の続篇にあたる物語で、約半年後の1846年2月の物語です。シリーズ作品ですが、事件は独立していますので、本書からでも問題なく読めます。

 著者のリンジー・フェイさんは19世紀が舞台のこの作品を執筆するにあたり、ニューヨークの過去を調べるために図書館にこもって〈ニューヨーク・ヘラルド〉といった当時の新聞を読みあさったそうです。著者インタビュー( http://www.webmysteries.jp/translated/faye1307.html )によると、『ゴッサムの神々』を書いたときは、1845年の1月1日から12月31日までの〈ニューヨーク・ヘラルド〉はすべて読んだそうです! 自分の書く小説を実体験のように読者に感じてほしいので、執筆前に最低でも半年は舞台となる世界にどっぷりと浸かるとのこと。多くの日記を熟読したり、ニューヨーク歴史協会やニューヨーク公立図書館の敷地に寝泊まりしたりもするそうです。

 実際、この作品を編集しているときに当時の地図を見たら、通りや公園の名前がすべて一致していたので驚きました。現代ってほんとうに便利な時代で、インターネットで1846年のマンハッタンの地図( http://www.davidrumsey.com/maps1605.html )が調べられるんですぜ……。ほんとネットすごい。地図上だけでなく、ふとした風景描写や、登場人物が通りを歩いているだけの文章でも、すごく濃密な臨場感があります。馬車が行き交い、煉瓦の建物沿いには酒樽が並び、夜はガス灯がぼんやり灯る……。混沌としているけれども、生命力あふれる迫力満点の描写です。当時のファッションや、食べ物についても詳細に書かれていて、とても興味深いです。上記のような緻密な下調べがあってこそ、まるで自分が過去のその場面に存在しているような、そんな体験ができる作品なのです。小説を読む楽しみをしみじみ味わえるな、と編集中からずっと思っていました。

 そしてそういった力の入った筆致で描かれるストーリーが、またすごいんです。

 数々のフィクションに登場するニューヨーク市警って、創設したばかりのころはこんな感じだったんだ! まだ組織として未完成で、警官とごろつきが変わらないような状態です。給料も安いうえに、治安が悪くても自分の担当区域に住まなくてはいけなかったり、市民からも嫌われていたり。そのような、組織として未完成なゆえに起こる出来事があったり、解決の手法が意外だったりして、先の読めないスリリングな展開が続きます。

 主人公のティモシー・ワイルド(ティム)も、組織と同じく未熟で、でもポテンシャルは高い悩める青年警官です。このティムがとにかくいいやつで、わたしの担当書のなかでも応援したいキャラクターの1、2を争いますね。ピュアすぎていろいろなことに傷つき、それでも前に進もうとする姿が印象的な青年です。幸せになってほしいと心から願わずにはいられない……。彼はバーテンダーだったんですが、ニューヨークに壊滅的な被害をもたらした火事で顔にやけどを負ってしまい失業して、警察の分署長である兄の口利きで警官になりました。さらに、ティムの類いまれな観察力や推理力を市警本部長に買われ、ふつうの巡回警官ではなく、何か事件が起こったときにそれを解決する役目につきます。まだ「刑事」という職種がないなかでの、「最初の刑事」といえますね。

 著者のリンジー・フェイさんは筋金入りのシャーロッキアン(シャーロック・ホームズが大好きな人)なので、ティムの造形には「名探偵」の要素も反映されています。謎解きミステリとしてもしっかりおもしろい作品です。

 ティムは今回、兄の自宅で女性の死体が見つかるというおそろしい事件に出くわし、ただでさえあんまり幸せとはいえないのに、さらに苦難の道を歩む羽目になります。唯一の肉親である兄に嫌疑がかかることを恐れ、事件の捜査を始めます。この、自分より男として人間として“上”である兄への複雑な感情描写がね、またすごくいいんですよ。お兄ちゃんのヴァルはとにかく腕っ節が強くて、いわゆる「ワル」系のかっこよさがあります。でも料理がうまいというギャップ(?)があったりして、本書の校正者さん(女性)からも「ヴァルにときめきました」とメッセージをもらったくらい、いい男なのです。そんなヴァルの窮地に、ティムはどうするのか? 負けるなティム! 幸せになるんだティム! と応援しつつ、読んでもらいたい所存です。

 最後に、いちばん好きな場面をご紹介して終わりたいと思います。ティムと、ヴァルの友人のピアニストのジムの会話です。こういった会話から読み取れる登場人物たちの繊細さや、ティムをめぐる人間関係の変化も魅力です。

「ここでは一人ぼっちだという気がする」とうとう、わたしはぽろりとつぶやいた。

「そう?」ジムは小さくほほえんだ。「ぼくは一度もそんなことはないよ」

「どうして、ありえないだろう、こんな街で?」

「見て」彼は手で示した。「この窓は何百もの窓ガラスを見下ろしていて、そういう窓の向こうには何千人もの迷える魂が暮らしている。落胆して、自分を無力に感じるとき、ほかの大勢の人々も同じように感じているんだ。そして、落胆して無力に感じることにひどく腹が立つときには、無数のほかの人々も自分と一緒に思い悩んでいる。楽しいときも、それは同じだ。ちょっと似ているよ……以前、室内音楽をやっていたが、これは巨大なオーケストラだ。だから、決して一人ぼっちになることはない」

東京創元社S

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小柄な編集者。日々ミステリを中心に翻訳書の編集にいそしむ。好きな食べ物は駄菓子のラムネ。東東京読書会の世話人もしております。〈Webミステリーズ!〉で翻訳ミステリについて語る&おすすめ本を紹介する連載「翻訳ミステリについて思うところを書いてみた。」をはじめました。TwitterID:@little_hs