今回ご紹介するのは2019年度アメリカ探偵小説作家協会賞(MWA)犯罪実話部門を受賞したロバート・W・フィーゼラ―Tinderbox(2018)です。最近ではアンソニー賞の評論部門にカーティス・エヴァンズ編のMurder in the Closetがノミネートされるなど、こうしたミステリー関連の賞にもLGBTQの歴史とミステリーの関係を題材にしたノンフィクションが見られるようになりました。

 1973年6月23日夜、ニューオリンズのゲイバー、アップステアーズ・ラウンジの入口階段に何者かがライターオイルを撒いて点火し、炎はあっという間に階段を駆け上がり、フロアにいた人々を炎に包み32人(うち1人は女性)の犠牲者と15人の負傷者を出しました。49人が犠牲になった2016年のオーランドのゲイ・クラブ銃撃事件まではアメリカのゲイ史上もっとも最悪の大量殺人事件といわれてきたにもかかわらず、いまだに公式には犯人は不明のままとされています(最重要容疑者は警察から釈放された後自殺したので)。
 アップステアーズ・ラウンジは一見さんお断りのゲイバーで、LGBTQ解放運動のきっかけとなった1969年のストーンウォール暴動の翌年、ニューオリンズのフレンチクォーターの三階建てビルの二階にオープンしました。当時はまだアメリカのほとんどの州でソドミー法が施行されていたので、こうしたバーのほとんどは非合法でしたが、同性愛者にとってのバーは単なる親睦の場というだけでなく「教会(神)」であり「家(親)」でもありました。前回紹介したマイケル・ナーヴァのCarved in Bonesには、両親にも教会にも拒絶された主人公の絶望と哀しみが切々と描かれていましたが、この「教会」の役割を果たしていたのが、当時唯一同性愛を受け入れていたメトロポリタン・コミニュニティ教会(MCC)でした。MCCはマイノリティ差別の廃止を訴え、電話相談のためのホットライン設立といった社会活動も広く行い、アップステアーズ・ラウンジはニューオリンズのMCCの拠点にもなっていたのです。
 6月23日の夜は5時から7時まで恒例のビール飲み放題が行われていましたが、8時前にはビール目当ての客たちの半数は帰り、60人近くの常連が残っていました。その中にはは障害を負った子供たちのための病院を設立するための資金集めの打ち合わせに残っていたMCCの中枢メンバーたちもいました。
 まもなく8時になろうかというころ、来客を知らせるブザーが鳴り、じゅうぎょういんが応えてドアを開けると次の瞬間噴きあがってきた炎にバーは包まれていました。階段はすでに通れる状態ではありませんでしたが、裏にある非常口の存在を知っていたバーテンダーの案内で、かろうじて十数人の人々は屋根伝いに逃げることができました。残された逃げ道は二階の窓から飛びおりることでしたが、窓には防犯用の鉄格子がはめられおり、退路を断たれた人々は折り重なるようにして炎の中に斃れていきました。MCCのビル・ラーソン師は空調装置を外して空いたスペースから脱出しようとしましたが、落下してきた窓枠に下半身をはさまれたまま動けなくなり、身を乗り出したまま息絶えた衝撃的な姿は、永らくニューオリンズ市民の記憶に刻まれることになりました。消防車は野次馬や車にはばまれたあげく、ようやく窓に閉じ込められた人々を見つけ、ただちに鎮火作業が行われましたが、火事が起こってから十六分が経っていました。生き延びた負傷者たちは道路に並べられ、バーのスタッフや顧客たちが身元を確認してまわりました。命からがら逃げ延びた人々は、翌日何食わぬ顔で出勤し、何も知らない同僚たちと火事についての話を合わせなければなりませんでした。
 犯人と目されるロジャー・ニュネズは、放火事件の直前にバーで悶着を起こして追い出され、「この場所を燃やしてやる!」という捨て台詞を残しているところを目撃されており、常連客のひとりは現場をうろついているロジャーを見つけ、居合わせた警官に引き渡そうとしましたが、警官は取り合わず、逆にこれ以上騒ぐなら捜査妨害で逮捕すると脅しました。当時、警官に逮捕されることはそのまま社会的な「死」を意味していたので、その常連客はロジャーを解放して退散せざるを得ませんでした。その後ロジャーは警察の訊問を受けますが、顎を負傷していたために警察から病院に搬送された後に脱走し、二度の脳外科手術を受けた後に20歳以上年上の女性と結婚して、74年に自殺を遂げます。ロジャーらしき人物がライターオイルの缶を買ったことを近くの雑貨屋の女性店員が証言していますが、1980年にニューオリンズ市警は「容疑者不明」のまま事件の調査を終了しました。
 皮肉なのはもともと同じゲイ同士のいわば「逆恨み」から発生した事故だったのに、警察やマスコミや教会といった同性愛者に敵対的な勢力の格好の標的になってしまったことです。マスコミたちは鬼の首を取ったように煽情的な記事をかきたて、死者の名前を了承なく公開し、カトリック教会は「天罰」とみなして犠牲者たちの葬儀を拒否しました。警察は何度も容疑者を訊問したにもかかわらず、実質的には野放しのままにして自殺させてしまいました。これほどまでに大規模な災害だったにもかかわらず、ニューオリンズ市当局はとんど沈黙したままでした。何よりも痛手だったのはニューオリンズのゲイ解放活動をになっていたMCCの主要メンバーが一気に失われてしまったことでした。
 葬儀はMCCや犠牲者に同情的な教会の聖職者によって行われましたが、遺族の中には犠牲者が同性愛者だったことを恥じて遺体を引き取ろうとしない家族もいて、最後まで身元不明だった4人は共同墓地に葬られました(うち2名は後に身元が判明)。新聞社やテレビ局はこの時とばかりにカメラをかまえて待ち構え、弔問客は裏口から見られずに出ていくことを勧められましたが、これまで死ぬほど顔をさらすことを恐れていた人々の多くは正面玄関から顔を隠さずに出ていくことを選びました。しかし、新聞社や公共放送はすぐに事件に興味を失い、生き延びた人々はあまりの衝撃と自責の念を抱え、事件のもたらした激しいゲイ嫌悪の前に口をとざし、この放火事件はほとんど歴史に埋もれ、ニューオリンズの「黒歴史」と化していました。
 それから25年後、ひとりの若いMCCの牧師の努力によって、それまで匿名をつらぬいてきたアップステアーズ・ラウンジの生存者たちはようやく重い口を開き、事件から25年を記念する追悼式典には、当時まったく無関心だった、ニューオリンズの元市長、警察関係者、聖職者らが集い、ここにようやく「歴史」として認められたのでした。
 実は私自身も二度ニューオリンズを訪れ、どちらかといえばゲイ・フレンドリーな街という印象を受けていたので、今回の本で初めてこの事件を知った時はかなり驚きました。なぜ一番の被害者だった人々が口をとざさなければならなかったのか、なぜこれほどまでの惨事が歴史に埋もれてしまったのか――作者のロバート・フィーゼラーは生き残った者たちの証言を丹念に拾い集め、当事者ひとりひとりの息遣いが聞こえてきそうなほどの迫力でよみがえらせています。目の前で起こった惨劇に傷つきながらも、決して破壊することができない何かを保ちつづけた生存者と、それを後世に伝えようと努力する人々の存在があったからこそ現在のニューオリンズがあるのだということを、この本であらためて思い知った次第です。

柿沼 瑛子(かきぬま えいこ)
  翻訳家。主訳書にローズ・ピアシー『わが愛しのホームズ』(新書館)、パトリシア・ハイスミス『キャロル』(河出書房新社)、アン・ライス『ヴァンパイア・クロニクルズ』(扶桑社)。共編書に『耽美小説・ゲイ文学ガイドブック』(白夜書房)。元山歩きインストラクター。ロス・マク&マーガレット・ミラー命。埼玉読書会世話人その② 腐萌え読書会影の黒幕。@sinjukueiko




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