今回はゲイ・ミステリではありませんが、パトリシア・ハイスミスの Her Diaries and Notebooks をご紹介したいと思います。生前のパトリシア・ハイスミスはインタビューアー泣かせで知られ(イエスかノーしか答えず、答えは全部自分の著書を読めばわかるという)生きている間は決して伝記の刊行を許しませんでした。そのせいで自己を語りたがらない孤高の作家というイメージが強くて、彼女の死後、リネン・クロゼットからびっしりと並んで整理された五十六冊もの「日記」と「ノート」が発見されたときはちょっとしたセンセーションになりました。この「日記」と「ノート」を元にこれまで何冊もの伝記が刊行され、「人嫌い」の仮面に隠されていた「愛の狩人」としての姿が徐々に明らかになってきました。ハイスミスはこの膨大な記録をいずれ刊行するか、いっそすべて廃棄するかで悩んでいたようですが、結局死の直前に彼女の著作を管理する財団に決定をゆだね、総ページ数8000にも及ぶ記録が無事こうして陽の目を見ることになりました。この「日記」と「ノート」の違いですが、前者は個人的体験や感情の動きを記したものであり、後者はそれらをフィルターにかけてある程度昇華させたもので、ハイスミスがいうところの小説の「種」や芸術や小説に対する考察、やがて短編や小説となるアイディアや文章が書きつけられています。
 ちなみにハイスミスは語学の練習として日記を英語だけでなく、ドイツ語フランス語スペイン語で書いています。巻末にもその一部が収録されているのですが、フランス語バージョンはほとんど現在形で書かれているのが微笑ましく、昔フランス語に悩まされた筆者としては非常に親しみを覚えます。
 20代当時のハイスミスはとにかく美人で、溌剌とした、才気渙発な女性で、女性からも男性からも愛されたのですが、ハイスミスのターゲットはもっぱら年長のインテリ女性でした。そうした女性たちにニューヨークのレズビアンのサークルに連れていってもらい、写真家のバーニス・アボットや画家のバフィー・ジョンソン、作家のロザマンド・コンステーブルといった女性たちを次々に落としていきます。相手の女性たちや当時のレズビアン文化人サークルについてもかなり容赦なく描写しているので、裏文学史としてもなかなか楽しめます(しかし、これまでにつきあった女性のランキング表はやり過ぎだと思う)。さらには1940年代当時ジャネット・フラナー(『パリ点描』の著者)をはじめとする戦火を逃れてアメリカに移住したヨーロッパの文化人たちのサークルにも人脈を広げていきます。後半生はほとんどヨーロッパ大陸の漂流に費やしたハイスミスですが、こうした恋人・元恋人の人脈があるから困らなかったのですね。ちなみにハイスミスの名誉のためにいわせていただくなら、たとえ営利(?)のためとはいえ、彼女の恋はつねに命がけだったのです(ただ、切り捨て方はかなり酷い)。
 というわけで、日記の一部を紹介しようにも、あまりにも内容が濃すぎて、どこを紹介すればいいのか悩むのですが、ここはやはりみなさんになじみのある『キャロル』のモデル(外見上の)キャサリン・センに遭遇したときの箇所にしたいと思います。といっても美しい人妻とのデパートのおもちゃ売り場での出会いは日記では数行さらりと触れられているだけで(その代わりに『キャロル』の著者あとがきでかなりくわしく本人が述べています)、今回紹介するのは、その後日談といいますか、そのときの伝票の住所を頼りに一年半後、思い立ってその人妻の家を訪ねていくくだりです。

 1950年6月30日、ハイスミスは「小説に登場する殺人犯のように」ニュージャージー州リッジウッド行きのバスに乗りこみました。あまりの緊張に膝はがくがく震え、ライ・ウィスキーを二杯引っかけたのですが、しょっぱなからバスを乗り間違えるという痛恨のミスを犯してしまいます。エリザベス・センの住所はマレイ・アベニューでしたが、もちろんその近くでおりる勇気はなく、手前の別の通りでおりて、住所に記された数字をたどりながら緑が生い茂る、彼女の家があるはずの閑静な住宅地を歩いていきます。

 通りの左側にはビルがあり、右側には立派な家々が並んでいた。そこには二台の車が止まり、ポーチでは女性たちが座っておしゃべりをしていた(中略)。通りの両側は完全な住宅地であり、歩道すらなく、わたしは完全に不審な部外者だった。樹木がますます生い茂り、ついに彼女の家だと見当をつけた最後の一軒になったとき、わたしはそれ以上先には行かないようにした(そちらをちらりと見ることもしなかった!)。彼女は今頃芝生かポーチに出ているのだろうか。突然立ち止まったりしたら、きっと怪しまれるだろう。わたしは通りの反対側を歩いたが、まだマレイ・アベニューに入ってもいなかった。

そして踵を返して元来た通りに戻ろうとしたとたん、

 マレイ・アベニューから淡緑青色の乗用車が出てきた。運転しているのは濃いサングラスをかけた、短いブロンドの髪の女性だった。その女性はひとりきりで、淡いブルーか淡緑青色のショートスリーブのドレスを着ていたように思う。わたしのほうをちらっとでも見ただろうか? ああ、時間のなせる驚異よ。もちろんわたしの心臓は飛び跳ねたが、思ったほどでもなかった。なんといってもあれは一年半近くも前の、ほんの数分の出会いに過ぎなかったのだ。どれだけ覚えていられるというのだろう。リッジウッドはあまりにも遠すぎる! またニューヨークで彼女に出会えるだろうか? パーティか何かに行けばばったり出会えるとか?

 しかし、これだけで終わりではありませんでした。翌日の日記に彼女はこう書いています。

 わたしは殺人者の心理というものにひどく惹かれている(中略)。昨日わたしはほとんど人を殺したいという思いに駆られた――1948年の12月にたった一度出会っただけで恋に落ちた女性を。愛というものはセックスに、一種の「所有」に似ている。彼女をとらえて、その喉に手をかけたいという(本来だったらキスしたいと思うはずの)欲求に駆られたのだ。あたかも彼女を写真に撮り、一瞬のうちに彫刻のごとき冷たい、存在に固定しようとするかのように。昨日、列車の中でもバスの中でも歩道を歩いていても、人々はじろじろとわたしを見ていた。まるで顔にそれが出ていたみたいに。だが、わたしは不思議に落ち着き、冷静だった。それにもしあの女性からなんらかのジェスチャーを示されたとしても、わたしは怖気づき、逃げていたに違いないのだ。(引用部分は筆者訳)

 このときのハイスミスの愛が過ぎて近づけない心の動きこそ、まさに後年の作品『妻を殺したかった男』『愛しすぎた男』などに代表される拗らせ男(女)そのものではありませんか。不安のあまり空回りするところは『見知らぬ乗客』のブルーノにも似ています。
 晩年になるにつれ、日記やノートの文章はどんどん短くなり、出来事の羅列になっていきますが、それでも物議をかもしたユダヤ人への差別発言や(おそらくパレスチナへのシンパシーからと思われる)、フランス政府との税金をめぐる仁義なき戦い、アメリカでの出版をめぐるいざこざなど、面白いエピソードには事欠きません。さすがに病魔に苦しめられた最後の二年の記述はほとんど途絶えていますが。
 彼女の一生を文学面から総括すればまさに「不安の詩人」(byグレアム・グリーン)ですが、その私生活はいわば生涯「愛しすぎた女」であったといえるでしょう。これらの日記やノートにこめられたハイスミスの愛の叫びはやがて作品として昇華され、本人も作品だけで評価してほしいとはいっていますが、それでもやはりどこかでわかってほしいという思いがあったからこそこれらの記録を残したのではないでしょうか。

柿沼 瑛子(かきぬま えいこ)
  翻訳家。主訳書にローズ・ピアシー『わが愛しのホームズ』(新書館)、パトリシア・ハイスミス『キャロル』『水の墓碑銘』(河出書房新社)、アン・ライス『ヴァンパイア・クロニクルズ』(扶桑社)。共編書に『耽美小説・ゲイ文学ガイドブック』(白夜書房)。元山歩きインストラクター。ロス・マク&マーガレット・ミラー命。埼玉読書会世話人その② 腐萌え読書会影の黒幕。@sinjukueiko





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