『クリスマスのフロスト』

R・D・ウィングフィールド

創元推理文庫

He thrust forward a carefully aimed, stubby finger. “How’s that for center?”

フロストは慎重に狙いを定めると、太くて短い指を標的に突き立てた。「浣腸は好きかい?」

 担当編集者から『クリスマスのフロスト』の原書、Frost at Christmas を渡されたとき、予備知識として伝えられたのは、この作品はイギリスの地方都市を舞台にした渋めの警察小説だということだった。「まあ、とりあえず読んでみてください」と言われて読み始め、いくらも読み進まないうちに上記の部分に遭遇した。驚いたなんてもんじゃない。だって、渋めの警察小説の主人公が同僚の刑事のおいどに……まさか、そんなことする? 

 いやいや、それはないでしょう。だって渋めの警察小説だもの。どうにも信じられなくて、当時英語の疑問点を質問していたイギリス人の知人に「これはこういうことだと思うけれど、その理解で本当に間違いないか?」と訊いてみた。「そうだよ」とあっさりと返され、それでも納得できなくて何度もしつこく確認した。あまりに何度も訊きなおしたものだから、「そんなに納得がいかなければ実演してあげようか?」と言われたほどだ。もちろん、慌ててご辞退申し上げた。

 そうして、ようやく、これはわたしの心の奥底にひそむいやらしい心が長年の抑圧に耐えかねて読ませた妄想なんかではなく、フロストは同僚の刑事に本当にそういうことをしたのだと得心がいった。その先を読み進めていくにつれ、フロストという人物はそういう行動を取ってもなんら不思議のない人なのだという理解も生まれた。こんなことぐらいで驚いているようでは、とてもつきあっていけない相手だということも。

 そんなわけで翻訳に取りかかったときには、もうすっかり状況は呑み込めていたけれど、今度はこの台詞をどう訳したものか。うんうん唸ること数日。ふっと思い出したのが、今を去ること数十年前、小学校でスカートめくりに次いで大流行したあの“浣腸”というふざけたいたずら。もちろん、迷った。イギリス発の警察小説の主人公に、あんな台詞を言わせてしまってもいいものか、悩みに悩んだ。でも、一度思いついてしまうと、もうほかの発想が生まれなくて……赤っ恥覚悟で、えいやっと清水の舞台から飛び降りた。

 これで度胸がついた。そういう意味で言うと、これこそわたしにとって「会心の訳文」だったのかもしれない。その後もフロスト警部にはずいぶん鍛えていただき、おかげさまで心臓に極太の毛が生えた。アンドリュー・クラヴァンの『愛しのクレメンタイン』という、めちゃくちゃチャーミングなんだけれども卑語満載の作品を訳すことができたのも、フロスト警部の薫陶の賜物と感謝している。

 ところで、人には持って生まれた定量というものがあるらしい。人間が一生に使うものの量は、その人が生まれ落ちたときにすでに決められているのだとか。その伝で言うなら、卑語に関してはもうだいぶ使ってしまった気がするのだが、わたしに与えられた卑語の定量、もうちょっとだけ残っていてほしいと思う。フロスト警部とあともう少し、ウィングフィールドが遺してくれた残り2冊分ほど、おつきあいできればと願っているので。

 芹澤恵