清水の舞台から飛びおりたつもりで、恐怖の、いえ、栄誉のバトンを受けとりましたが、やっぱり自分でゼロから書くのは難しい! それに、会心の訳文? うーん、会心って……。広辞苑を引いてみると、「心にかなうこと。気に入ること」。なるほど。気に入った訳文ということなら、もちろんあります。このエッセイを読んでくださっている方が気に入ってくれるかどうかは、また別問題ですけど。

 それでは、ヘンリー・スレッサーの短編集、『最期の言葉』(論創社)からいくつか紹介させていただきます。

 まずは、「大佐の家」より。

Bonny was a thin woman fighting her forties with vivid makeup.

ボニーのほうは痩せぎすで、化粧を塗りたくって四十代という年齢をごまかそうとしている。

 ボニーは、父親である年老いた大佐を療養所(という名の老人ホーム)へ放り込もうとしています。当然、「いやーな女」として表現していくわけですが、vivid makeupでつまずきました。「厚化粧」という訳語がすぐに思い浮かんだものの、厚化粧では、年齢をごまかすどころか、よけいに老け度があがってしまうような気がして却下。「派手な化粧」、「若やいだ化粧」、「華やかな化粧」など、さんざん考えたあげく、ナチュラルメイク=薄化粧ではないことを思い出して、「化粧を塗りたくって」にしました。

 つぎは、「唯一の方法」より。

“As to price,” Flench said cheerfully, “we consider this a sort of introductory offer, and can make you a very attractive deal.”

「値段についてですが」フレンチは陽気に言った。「わたくしどもは、今回はご挨拶代わりと考えておりますので、たいへんお求めやすい金額で提供させていただきます」

 これは、ある実業家が、フレンチに隠し撮りされた写真で脅されている場面です。フレンチは身なりも態度もきちんとしていて、セールスマンそのもの。ごくふつうの商談を進めているような感じですが、introductory offerに恐喝者の本性が現れます。そう、恐喝が1回で終わるなんてことはないんです……。

 もう一つ、「ルビイ・マーチンスンの変装」より。

The clerks around there have seen me plenty of times, looking at the watch.

俺はあの腕時計を見に何度も行ってるから、店員に面が割れてる。

 ルビイ・マーチンスンはご存じの方も多いと思います。バブル真っ最中のころ、小泉今日子さん主演で『怪盗ルビイ』という映画にもなりました。原作のルビイは23歳の青年で、表の顔(?)は公認会計士です。

 このルビイが、恋人の誕生日プレゼントに高価な腕時計を手に入れようと、いつものように従弟の「僕」を巻き込んで、あれこれ画策している場面です。そこで、seen をどうするか。なんでもない単語ですが、大悪党を気取っているルビイにふさわしい日本語は? ああでもない、こうでもないと言葉をこねくりまわしていると、「“面が割れてる”だろ」というツッコミがルビイから入りました(頭のなかでです、念のため!)。ルビイ、ありがとう。

 こんなふうに、登場人物が日本語でしゃべりかけてきてくれると大助かりです。そこへいくと、いま取り組んでいる作品の主人公は……。辻馬車の御者といえばおしゃべり好きなのに、ヴィクトリア時代の青年はめったに日本語で語りかけてきてくれません。はやり他力本願ではなく、自分で「会心の訳文」となるよう、日々精進しないといけないということですね。

 最後までお付き合いくださって、ありがとうございました。次回はJ.D.ロブのイヴ&ロークシリーズを多数訳されていらっしゃる青木悦子さんです。どうぞお楽しみに!