ああ、ついに来てしまった。「会心の訳文」の原稿依頼。

 といっても、もちろん、来るぞ、来るぞと思いながらじりじりしていたわけではない。まさか来るとは思ってなかったの。まさに青天の霹靂。会心の訳文なんて、そんな恐れ多い、と思いつつも、敬愛する同門の先輩からの依頼を断れるはずもない。そりゃもう「よろこんで〜!」てなもんである。

 と、居酒屋店員のように叫んだはいいが、会心の訳文かあ、そんなのあったかなあ。気に入っている訳文ならあったと思うけど……つねに頭のなかにあるわけではないので、すぐには出てこない。日々あくせく翻訳作業(日銭稼ぎとも言う)をしていると、目のまえの原文&訳文のみに意識が集中してしまい、過去に思いを馳せる余裕がないのだ。ああ、「もっと余裕がほしい」と空耳アワーの安斎さんに言われてしまいそう。

 なんてなげいていてもはじまらないので、とりあえず自分の仕事を振り返ってみよう。

 わたしはなぜかシリーズもののお仕事をいただくことが多い。とってもありがたいことだし、シリーズ・キャラクターとは長いつきあいになるので愛着もわいて、いつも楽しく翻訳させていただいているのだが、シリーズならではの苦労もある。「これだ!」と思って選んだ訳語が、シリーズが進むにつれてなんかちょっとズレてるような気がしてくることがあるのだ。まあ、作品が進化している(?)せいもあるのかもしれないけど、たびたび出てきそうな訳語選びにはかなり慎重を要する。

 とくにジョアン・フルークの〈お菓子探偵ハンナ・スウェンセン〉シリーズは、十作目の『キャロットケーキがだましている』まで出させていただいていて、現在は来月刊行予定の十一作目のゲラ作業中(原書は十三作目まで出ています)。長いシリーズなので、登場人物は膨大な数にのぼるし、それぞれのキャラクターのエピソードも多岐にわたる。ああしておけばよかった、こうしておけばよかった、と思うことばかりだが、気に入っている訳語もある。それはハンナの飼い猫モシェの呼び名「でっかいくん」。原文は Big Guy で、デブ猫のモシェをこう呼ぶのはハンナのふたりのボーイフレンド、マイクとノーマンだけだ。男っぽくて、親しげで、ちょっとかわいい感じが出ていると思うのだが、どうだろうか。

 ハンナ・シリーズを訳していてとくに楽しいのは、ハンナ、アンドリア、ミシェルのスウェンセン三姉妹のガールズトークだ。三姉妹の性格や、強烈キャラの母ドロレスが加わったときの力関係などがだんだんわかってくるのも興味深い。

“I’m a real lightweight when it comes to pulling all-nighters, like when I have to study for a test. Maybe I should get pregnant and then I’d have more energy.” Michelle noticed the shocked expression on her sisters’ faces and she giggled. “Just kidding. I want to wait to get pregnant until I’m as old as Hannah.”

Hannah groaned. She wasn’t sure if that was an insult, but it sure felt like it.

“That’s a bad idea. Don’t wait that long,” Andrea advised.

Hannah groaned again. This time she was sure it was an insult. “Forget about my biological clock. Mother’s already got that covered.”

——Lemon Meringue Pie Murder

「テスト前に徹夜で勉強するには、わたしは体重が軽すぎるんだわ。妊娠すればいいのかもね。そうすればもっとエネルギーがわくから」ミシェルは姉たちの驚いた表情に気づいてくすくす笑った。「冗談よ。わたしはハンナ姉さんぐらいの歳になるまで妊娠したくないもの」

 ハンナはうめいた。自分が侮辱されたのかどうかはわからなかったが、侮辱されたと感じたのはたしかだった。

「それはよくないわ。そんなに長く待つことないわよ」アンドリアが助言した。

 ハンナはふたたびうめいた。今度のはたしかに侮辱だ。「わたしの体内時計のことなら心配しないで。そっちのほうはもう母さんが心配してくれてるから」

——『レモンメレンゲ・パイが隠している』

 言うよね〜! このときアンドリアは第二子を妊娠中の二十六歳、ミシェルは大学生、長姉ハンナはミシェルより十歳年上でもちろん独身。妊娠したら以前よりエネルギーがわいてきた、というアンドリアの報告を受けてのシーンだ。天真爛漫なミシェルと、ときどき空気が読めない天然のアンドリア、ちょっぴり自虐的なハンナの性格がよくわかる。

 自虐的といえば、カレン・マキナニーの〈朝食のおいしいB&B〉シリーズのナタリーもかなり自虐的だ。

She was dressed in formfitting jeans and an Aran sweater that somehow managed to accentuate her curvy figure. I love my own Aran sweater but was only too aware that it made my silhouette look rather like that of a sheep with an overgrazing problem.

——Murder Most Maine

 ヴァネッサはぴったりしたジーンズにアランセーターを着ていたが、どういうわけかそのセーターは曲線美を強調することに成功していた。わたしは自分のアランセーターが気に入っているが、それを着るとわたしのシルエットが草を食べすぎる傾向のある羊のように見えることは重々承知していた。

——『危ないダイエット合宿』

 だよね〜! アランセーターを着たらみんな羊に見えるっつーの。でもこのサイズゼロの女ヴァネッサはイヤミなほど細いんである。まあ、ダイエット合宿のリーダーだからそうじゃないと説得力ないんだけど、この女、実はナタリーの恋人ジョンの元カノなんだよ〜。やっぱむかつくよね〜。

 こうして書いてみると、登場人物にかなり感情移入してるな〜(〜が多いし)。翻訳の基本は「何も足さない、何も引かない」だと思うが、あんまりはいりこみすぎると、これがなかなかむずかしい。でも作品に対する愛、登場人物に対する愛は、当然ながら原作者も同じだと思うので、これからも登場人物の言動に一喜一憂しながら訳していくことになると思う。それが原作者の愛を伝えることになると信じて。よし、キレイにまとまったぞ!

 なんだか「会心の訳文」というより、作品の気に入ってる部分を紹介しただけになってしまったが、こんな思いで訳してます、ということで、ごかんべんを。

 次回の「会心の訳文」はなんと最終回! アンカーは頼れる兄貴、鈴木恵さんです。