どこをどう間違ったのか、文章の達人たちの目に触れるこのコラムに何か書け、などという恐ろしい指令が回ってきた。いくら怪奇ものが好きな私といえども、これは相当ホラーな出来事だ。訳書がほとんどない万年かけだしの身が、諸先輩方に紛れ込んでこんなところに生首を突っ込んでいいのか。しかも前任者のとろりと心臓がとろけそうな文章の後とあっては、こりゃ、由々しき問題だ。「怪心の厄文」ならぬ「会心の訳文」など、とんと脳ミソに浮かんでこぬ。というわけで、まずは人の褌で相撲をとることに。この一年ほどの間に読んだ翻訳ものの中から、唸った言葉遣いをいくつか。

「あれほど濃密な営みのあとで、若い娘の熟睡(うまい)を破るような刺激があるだろうか」

ご存知、東江一紀氏訳『犬の力』上巻p236より。

熟睡を“うまい”と読むとは恥かしながら知らなかった。そう言われてみればよくわかるなんたる美しい日本語。殺し殺されの壮絶な話の中にこういった言葉がさりげなく挿入されているとなおさら。

「おったまゲロゲロ」

鈴木恵氏訳『ピザマンの事件簿』p137より。

いや、おったまげた。いったい、原文の単語は何だったのだろう。軽妙コージーにぴったりのこういった大胆な日本語が出てくる頭の柔軟性が、ただひたすらすごい。

 僭越ながら拙訳書から。どこが会心なの?などと、つっこむなかれ。

共訳だが、初めて拙訳文が世に出た『吸血鬼伝説』(原書房)から、

ロバート・ハワード「墓からの悪魔」より。

「ちぇっ、あれがインディアンの塚なら、とっくの昔に死んでんだから、その幽霊だって今ではすっかりくたくたのぼろぼろさ」

酒場でくだをまくおぢさんたちの口が悪くて下ネタ満載会話は、訳文の工夫のしどころのひとつだ。ここは農夫同士のくだけた会話で、けっこう好きだった箇所。

『漆黒の霊魂』(論創社)よりいくつか。

まずはジョゼフ・ペイン・ブレナン「帰ってきて、ベンおじさん!」より。

「すると合図のようにまた始まった。突然、すぐ近くで猛り狂ったような陰鬱な遠吠えが。恐怖と憤怒にかられた絶え間ない犬の鳴き声はまるで破滅がそこまでやってきているかのように夜の闇をつんざいた。「ベイトソンの犬だ」サラが叫んだ。「最初はペーターソン、次にグレイブトン、そしてベイトソン。誰かがこちらにやってくる!」

 思えば現在の誤った道に足を踏み入れる遠因となったのが、幼少のみぎりにガツンとやられたジェイコブズの「猿の手」。“ソレ”がずるずると少しづつ家に近づいてくるこの場面は、まさにあのラストシーンを彷彿とさせる。

ジョン・メトカーフ「窯」より。

「パニックに陥って半狂乱になり、叫び声をあげてあたりを叩き、拳が血だらけになる幻覚に襲われた。精神的苦痛はまさに地獄への序曲だと言ったのは誰だったか、考えると不快感が募る。焦げて煙のあがる衣服、あちこちでどんどん火花があがり始め、思考力が残っている限り、耐え難いほどの自己憐憫に突然恍惚となる。(世間はそんなことは決して起こらないと知っているはずだが!)そしてついに肉がはがれていき、炭化して、断末魔の叫び声をあげる。もはや人間ではない奇怪なものがやみくもに灼熱の鋼をかきむしって・・・・・」

閉じ込められて焼け死んだ人間の断末魔の様子をひとり想像して、自分の身にも同じことが起こったら、という妄想がどんどん膨らんでくる場面。この感じ、よくわかる、とけっこう感情移入した箇所。おや、あがるという文字が重なっている。う〜ん。

 語学ができれば、翻訳なんて簡単でしょ?と世間には思われているらしい。そうは簡単にいかないのが翻訳の奥深いところだ。作者の意図するところを的確に解釈して、読みやすい日本語に置き換える、と一言で言うのはたやすいが、文化も気候も生活習慣も違う国の人が書いた原文の雰囲気をうまく伝えるというのが、翻訳の一番難しいところだろう。情景を思い浮かべ、人物の感情・感覚を想い、共感して泣いたり、笑ったり、反発したり、憎んだり、それこそ脳ミソが沸騰するほど試行錯誤に明け暮れ、日々、パソコンの前でアサイラム状態なのが翻訳者の姿。このような孤軍奮闘の末、編集者、校閲者などさまざまな人の手を経て、世に送り出された翻訳本を、ぜひひとりでも多くの人に読んでもらいたいものである。

 語彙だけでなく、流れとして絶妙な日本語にするための悩みは尽きないが、そこに自分なりの仕上げの工夫スパイスをひと振りできる翻訳は、やはり苦しくも楽しいのである。と同時に訳者の読書量、人生観が反映されてしまう翻訳はそら恐ろしくもある。ベールに包まれた翻訳の奥の深さは、ぼっとんト○レの暗黒の深淵にも等しく、怪奇好きの食指を大いに動かす。やはり翻訳はホラーな仕事だったのか。おどろおどろしく、禍々しい訳文をひとつでも多く訳出できるよう、おっと、違った、会心の訳文を生み出せるよう、日々精進あるのみ。

 このような駄文に最後までおつきあいいただき恐縮至極。次回は『タイムアウト』の訳者、白須清美さんにバトンタッチします。ミステリだけでなく、他にも世界が広く、ユーモアを解するこの訳者のコラムをお楽しみに。