「が、父さんが鋭い視線を投げかけてきたので、あわてて口をつぐんだ」

        ——『ダークライン』(ジョー・R・ランズデール/早川書房)

 わたしはいわゆる死語をわりとよく使います。ピーカンとかナウいとか合点承知の助とか(歳がばればれ?)、言ったり書いたりしては友人にからかわれていますが、ぜんぜんめげません。めげないどころか、じつは確信犯。次はどんな死語であきれさせてやろうかと密かに闘志を燃やすこともあったりします。

 でも、そういうやりとりが成り立つのは、その単語なり言い回しなりが昔はよく使われていたけれど、今は廃れてしまったという背景が共通認識として存在するからこそのこと。世代がちがえば、その認識が共有できないこともあるわけで、こちらの好みで使った表現が必ずしも通じるとはかぎらないんですよね。

 そんなことを猛暑でとけそうな脳でぐじぐじ考えたのは、このリレー・エッセイのバトンを受けとってまっさきに思いだしたのが、冒頭の一文だったからです。告白してしまうと、「口をつぐんだ」の部分は、当初「口にチャックをした」と訳していました。

『ダークライン』の舞台はテキサス州の田舎町。一九五八年、引っ越してきたばかりの家の裏手にある森で、十三歳の少年スタンリーが古い手紙と日記の切れ端が詰まった小箱を見つけるところから物語は始まります。好奇心に駆られた彼は、姉のキャリーとともに箱の持ち主探しをするうちに、小箱の手紙と過去の未解決殺人事件の関係を知り、そのまま事件の真相究明にのめりこんでいきます。もちろんミステリの部分も面白いのですが、この作品の読みどころはやはり、つい最近までサンタクロースを信じていたうぶな少年が、“捜査”の過程で性の問題や人種差別、貧富の差、虐待、殺人といった現実や、生きることの哀しみやせつなさをまのあたりにし、驚愕かつ困惑しながらも少しずつ大人になっていく姿でしょう。その成長を助けるのは、家族と愛犬、それから使用人の黒人ふたりとの心温まる交流です。

 物語の後半、いい年をして高校生のキャリーに手を出そうとした男の老父がスタンリーの家に押しかけ、金をやるから息子の行為は忘れろと恥知らずな要求をしてくる場面があります。キャリーとスタンリーの父親は怒りを爆発させて老人を口汚く罵りますが、それを聞いて、スタンリーは声をたてて笑ってしまいます。冒頭の一文はここに続きます。思わずあげた無邪気な笑い声を父に無言で咎められ、あわてて口をつぐむスタンリー。当初「口にチャックをした」と訳したのは、波乱万丈のひと夏を過ごした彼からこぼれ落ちつつある子どもらしさ、初々しさをすくいとり、それを日本語にこめたいと思ったからでした。このあと終盤に向かって、彼がもっと過酷な現実に巻き込まれていくことを考えると、なおさらそうしたかったのです。

 ただ、「口にチャックをする」は多くの人が死語と分類する表現なんですよね。言い回しばかりでなく、チャックという単語もいまではファスナーのほうが一般的で、世代によっては通じなくなっています。迷いました。物語の時代背景を考えると、まだぎりぎり許容範囲のような気はしましたし、訳者としての思い入れもありました。でも、死語であるがゆえに妙に目立って、読者の気をそいでしまうのでは本末転倒です。編集者に相談し、校正の段階でも迷って、最後の最後に無難な「口をつぐんだ」に書き換えたのを憶えています。

 すみません、「会心」とは対極にある訳文を披露してしまいました。なんでもない箇所の死語の訳文、強いて形容詞をつけるなら「迷いの」となるでしょうか。なんだか頭のなかでこねくりまわしただけみたいな内容で、お恥ずかしいかぎりです。最後まで読んでくださってありがとうございました。

 次回は翻訳学校の先輩、潔い女っぷりの藤田佳澄さんです。どうぞお愉しみに。

匝瑳玲子