読者の皆様、こんにちは。

 今回、「会心の訳文」という恐ろしいリレー・エッセイのバトンを渡されてしまった青木です。しかし、日ごろから、過去の偉大な翻訳家二人の言葉、「誤訳は水の中に水素が在るように在る(※)」(小林秀雄)と、「英語というのは絶対に覚えられないものなのであるから、そういうことは初めから諦めた方がいい。仮に、英語が読めたり、話せたりする人間がいたら、それは英語を知らないからそういうことが出来るのである」(吉田健一)を心の支えにしているわたしに、「よっしゃ、上出来!」と思える訳文などあるはずもなく、七転八倒の末、訳「文」ならぬ訳「語」で、それも「会心=気に入ること(広辞苑)」と解釈するなら何とか・・・・・・と、無理矢理絞り出した文章になりました。夏の夜の不条理奇談とでも読んでいただければ幸いです。

 さて、現在わたしの仕事の柱のひとつになっているのが、近未来を舞台にしたロマンティックサスペンス<イヴ&ローク>シリーズ(J・D・ロブ著)です。2058年のNYを舞台に、NY警察の警部補イヴ・ダラスが、幼少時の虐待による心の傷に苦しみながらも、頭脳と腕っぷしを武器に、次々と難事件を解決していくこのシリーズは、おかげさまで好評をいただき、翻訳チーム四人がかりですでに二十三巻までが出版されました。

 その第一巻『この悪夢が消えるまで』のお仕事をいただいたときは、本当にうれしかった! 理由はといいますと、(1)ヒロインのイヴが、口が悪くて食いしん坊で、きわめて乱暴なこと(=ああ、何て訳者にそっくりな!)と、(2)未来が舞台なので、さまざまな架空のメカや乗り物、家電その他が出てくること。

 1のほうは説明不要なのではぶきますが、2に関しては、ハインラインの『夏への扉』を愛する元SF少女(注:大昔)の翻訳者にとっては、長年の夢がかなう作品だったのです。『夏への扉』は、いまでもオールタイムベストを選べば必ず上位に入る、近未来のタイムトラベルものの傑作。明快かつ情感あふれるストーリーと、ハインラインの名人芸ともいえる筆の運びが本当に楽しい小説です。

 そして名訳者の福島正実さんが多用していらしたのが、未来の架空のものをあらわす言葉を日本語に置き換えつつ、原語の発音をルビでふる、という方法でした。「冷凍睡眠/(ルビ)コールドスリープ」「自動秘書機/オートマチック・セクレタリ」「記録保存局/ホール・オブ・リコーズ」、等々。

 なかでもいちばん印象的な訳語が、発明家である主人公の作った家事ロボット「文化女中器/ハイヤード・ガール」。昭和三十三年の訳なので(注:昭和五十四年に文庫化。文庫化以前の訳語が現行本と同一であるかは未確認です)、少々レトロな感はありますが、そこがまた、どこかノスタルジックな味わいのあるこの小説にはぴったり合っていました。いつかこんな訳語が作れたらなあと、ひそかに希望を抱いていたので、イヴ&ロークの原書にdroidという単語が出てきたときには思わず、「やったあ!」と叫びたいほどでした。

 droidはもちろんandroid(人造人間)を元にした言葉ですが、あえてdroidとしたところに作者のこだわりを感じ、新しい訳語を考えることにしました。(実はかなり真剣に「文化女中器」にしたかった…)。結果として、読者にわかりやすく、原語の発音によるハイテクなイメージも加味するため、「人工生命/ドロイド」となりましたが、肝心の出来はというと、うーん・・・・・・われながらあまり芸がない(笑)。まだ工夫の余地があったかも。実力が意気込みに追いつくのはまだまだ先のようです。

 イヴ&ローク・シリーズにはほかにも多くの架空物単語(?)が登場します。イヴがいつも身につけているweapon、各家庭に必ずあり、上級機種では高級グルメ料理もつくれるAutoChef、どうやらエスカレーターの兄弟分のようなglide、公娼制度のもとでの売春婦/夫licensed companion、進化したテレビ電話らしいtelelink、・・・・・・などなど、これだけでも第一巻に登場するもののほんの一部です。そして巻を重ねるごとに数は増殖中。何せ現代には存在しないものばかりですから、形態の見当がつかないことも多く、また、いつも「人工生命/ドロイド」のようなルビ式にするわけにもいかず、上記のものたちはそれぞれ「武器」「オートシェフ」「グライド」「公認コンパニオン」「テレリンク」と、ほぼ芸なしの訳語になってしまいました。

 少しは頭を使ったかな?というものだと、エステティシャンと美容整形医を兼ねたようなbody sculptorを「全身形整師/ボディ・スカルプター」としたり、高圧電流を使った棒状の武器zapperを「電撃棒/ザッパー」と訳出してみたりしたのですが、これまた芸のないことにはたいして変わりなく、シリーズが進んでも、未来のまだ見ぬモノたちに少しでもいい訳語をあてようと、日々あいかわらず、ない知恵を絞っています。

 最近は巻数が進んだこともあり、droidはルビなしで「ドロイド」と訳出するようになりましたが、この単語が出てくるたびに、『夏への扉』を夢中で読んでいたときの楽しさが頭の隅で目をさまし、同じように幸せな読書体験を読者にしてもらいたい、いい本を届けたい、という初心をちょっぴりよみがえらせてくれます。まだまだ力不足で、毎日が落ちこみと反省の繰り返しではありますが、そんなわけで、「人工生命/ドロイド」は、わたしに読書の幸せと、仕事でいちばん大切なものを思い出させてくれる、「会心の/お気に入りの」訳語なのです。はい。

 次回のエッセイには匝瑳玲子さんが登場されます。お人柄と同じく、仕事に対する誠実な姿勢にはいつも感動してしまいます。匝瑳さん、またノンストップ・ガールズトークしましょうね。

(※文中に引用した小林秀雄氏の文章は、氏訳の『地獄の季節』(初版)のあとがきにある、「誤訳に至っては水の中に水素が在るように在るでありましょう」が全文です。文中では短くさせていただきました。)

 青木悦子