『恋するA・I探偵』

ドナ・アンドリューズ/島村浩子訳

ハヤカワ・ミステリ文庫

“This is for you, Zack,” I thought, as I felt my power supply beginning to fade and that’s the last thing I knew before everything disappeared.

「仇は討ったからね、ザック」わたしは自分の電源が落ちていくのを感じながらそう考え、それを最後に何もかもがかき消えた。

 思いきりネタばれ気味ですが、人工知能(AI)チューリング・ホッパーが主人公の『恋するA・I探偵』(ドナ・アンドリューズ著)からの一文です。

 作品の舞台は現代のアメリカ。とあるIT企業が非常にすぐれたAIの開発に成功したという設定で、何種類ものAIがネット上でユーザーの調べものを手伝ったり、チェスの相手をしたりしています。なかでも、(周囲には秘密にしているものの)人間と同じような感情を持つようになったチューリング・ホッパーは、そのずば抜けた人間らしさが人気を呼び、このIT企業のドル箱とも言える存在になっています。ところがある日、チューリングは自分の開発者であるザックが行方不明になっていることに気づき、そこから恐ろしい陰謀に巻きこまれてしまいます。

 翻訳者はリーディングと呼ばれる作業をすることがあります。出版社が日本での出版を検討する作品について、原書を読んで、あらすじや所感をレジュメにまとめるのです。わたしはアンドリューズの別シリーズを訳していた関係で本書のリーディングを依頼されたのですが、なにしろ超ローテク人間ですし、「AIが主人公の本なんて読めるだろうか……」とちょっと及び腰になったのを憶えています。でも、そんな不安は杞憂に終わりました。冒頭からたちまちこのチューリング・ホッパーというキャラクターに惹きつけられ、物語の世界にはいりこめたからです。チューリングは『密造人の娘』などで有名なマーガレット・マロンから“現在のミステリー界で最も優秀で最も傷つきやすい女性探偵”と評されたとおり、デジタルの世界では全能に近い力を持ちながらも子供みたいに無垢で、そしてチャーミングなAIです。さらにミステリー・ファンには大きな魅力になるかと思うのですが、プログラミングの段階で過去のミステリーの名作すべてを知能の一部として取りこんでいて、ユーザーのその日の気分に合わせてオススメの作品を選び、コンピューターにダウンロードしてくれたりします。

 さて、冒頭の一文に戻ると、これはザックを誘拐した一味とチューリングが対決する場面の台詞で、”This is for you, Zack”は自分をこの世に送り出してくれたザックに対するチューリングの気持ちが作品中でいちばん強く表れている部分と言えます。じつは「仇は討ったからね」という訳は、わたしがリーディング・レジュメをまとめたときに、すでにあらすじのなかで使っていたものでした。実際の訳出作業でこの場面まで来たとき、またこの言葉を使うかどうするか迷いました。なぜなら、“仇を討つ”という言葉には、なんというか、ちょっと浪花節的で古風な響きもある気がして、チューリングのイメージにそぐわないかもしれないと感じたからです。いっぽう、彼女の健気さを出すにはこれぐらい強めの言葉がふさわしいように思え、悩んだ結果、原書を最初に読んだときの直感に従うことにしました。

 この場面はいまでも思い出すと胸がじんとなります。“会心”の訳にはほど遠いけれど、本書を読んでくださった読者のみなさんには、ここでザックに対するチューリングの思いの強さを感じとっていただけていたら嬉しいなあと思っています。

 ええと、最後にきて“会心の訳文”ではないことをカミングアウトしてしまいましたが、よもやわたしにこのようなコラムの執筆がまわってこようとは思ってもおらず、どちらかというと“記憶に残る一文”ということで書かせていただきました。この“記憶に残る”も、近い過去ほどよく思い出せないという○化現象のせいでネタばれ気味な一文になってしまったんですが……あ、でも、この一文を読んでいても、物語自体はじゅうぶん楽しんでいただけると思うので、未読の方もどうぞご安心を。チューリング・ホッパーはわたしの心に残る主人公のひとり(厳密には人間じゃないけど)です。

 近い未来に会心の訳文が書けることを祈りつつ、つぎの執筆者にバトンを渡したいと思います。次回はわたしとはまた違った雰囲気の作品を訳されてる熊谷千寿さんです。熊谷さん、どうぞよろしくお願いします。

島村浩子