主人公「わたし」は、なぜ名前も外見も変えて逃げ続けるのか? 過去に何があった? 追ってくるのは誰? リサ・ラッツ『パッセンジャー』は、読み出したら止まらないノンストップ・サスペンス。

 主人公「わたし」は夫の経営するバーで時々働く20代後半の主婦。冒頭部分で、読者はいきなり彼女の夫の死体に遭遇します。自分は犯人じゃない、これは事故だ、と「わたし」は読者に告げるいっぽう、荷物をまとめ、引き出せるだけの現金を引き出して行くあてのない逃亡を始めます。不審死なので、間違いなく警察が来るからです。
 なぜ今までの生活を捨てて逃亡しなければならないのか。「わたし」に偽装パスポートを提供して逃亡を助ける一方で、殺し屋を差し向けてくる「オリヴァーさん」とは誰……これらの謎が、「わたし」と「ライアン」という男性とのメールのやりとりをヒントに、次第に明かされていきます。結末にむけ、次第にスピードとスリルを高めつつ「わたしの過去」の謎が解き明かされていくところが本書の第一の魅力です。

 とにかく行動力があって、タフな「わたし」は、髪を染め、体重を増やし、カラーコンタクトを入れて名前も外見も次々と変え、移動しつづけます。車を買い替えては乗り捨て、クレジットカードやキャッシュカードを捨て、使い捨て携帯電話を買って通話しては捨て……トライアスロンの選手さながらに泳ぎ、走り、時速百キロ越えのカーチェイスや、スタントさながらの荒っぽい運転で、いくつもの危機を切り抜けていきます。

「わたし」を助けてくれるのが、名脇役の女バーテン「ブルー」。「わたし」のパスポートが偽造であることをあっさり見抜いたと思うと、その直後に襲ってきた二人組をいともやすやすと射殺、ストーリーに大きな展開をもたらすと同時に、最終的な謎解きにも意外な役目を果たします。この「ブルー」と「わたし」とのテンポの速い会話では、知性と皮肉のきいたユーモアが楽しめます。

 自分の行き先は自分で決める。
他人にハンドルを握らせた昔の自分(運転席ではなく「助 手 席パッセンジャー・シート」にいた)を悔恨とともに振り返りつつ真相に向かって走り続ける、愛にも、友情にも、仕事にも、生き方そのものにも不器用で誠実な主人公は、まさに#わきまえない女。最近の翻訳ミステリの中でも出色の、読者が共感できるヒロインだと思います。

 平凡な外見の女は、男にとってはまるで「透明人間」。
 その愚かさを逆手にとって、「わたし」は髪や目を地味な色に染め、体重を増やし、さらに「結婚して苗字が変わる」「暴力をふるう夫から身を隠している」といった、女性にありがちなストーリーも隠れ蓑に逃げ続けます。ラッツは「別人になりすまして生きる」プロットを考えるにあたって、トマス・ペリー『蒸発請負人』などを参照したそうですが、女性ならではの手段を使った変身、という本書のユニークなアイデアは、作品全体のテーマともマッチした巧妙な仕掛けといえるでしょう。

 一方、小さな町の私立小学校の教員になりすます数か月を描いた章では、好奇心旺盛なアンドリューをはじめとする子供たちや、アンドリューの祖父でバーの経営者ショーンとの交流に心が温まります。逃亡は辛いだけでなく自由を求める旅でもあることが、「孫に外の世界のことを教えてやってくれ」と頼むショーンとのやりとりから見えてきます。著者ラッツは教員の経験もあるそうなので、子供たちと「わたし」の会話や授業の工夫などには、実体験が反映されているのかもしれません。「公共施設に隠れるとしたら、どこを選びますか?」(『クローディアの秘密』を読んだ時の宿題)なんていう授業を本当にやってくれる先生がいたら楽しいでしょうね。

『パッセンジャー』の著者リサ・ラッツは、1970年、カリフォルニア出身。アメリカでは一家全員が探偵という家族の長女イザベルを主人公とする「スペルマン・シリーズ」の著者として有名(邦訳は『門外不出 探偵家族の事件ファイル』〔清水由貴子訳、ソフトバンク文庫〕 のみ)です。本書の他にも、私立の寄宿高等学校を舞台に、悪質なセクハラ事件に立ち向かう女性教師と女生徒たちが活躍する「#MeToo学園もの?!」と評されたThe Swallows(2019)や、三人の女性の人生と友情を描いたHow to Start a Fire(2015)など、ここ数年は話題作続き。日本ではもうひとつ知名度が高くないラッツですが、今後の一層の活躍が期待されるところです。閉塞的で憂鬱な人生を、ガッツとちょっとシニカルなユーモアを武器に生き延びようとする女性たち、そして知的に張り巡らされた伏線等、「スペルマン・シリーズ」をベストセラーに押し上げた特徴が、ノン・シリーズのほうにより強く出ているようにも思うのです。

 訳者(杉山)は2011年にカリフォルニアで行われたラッツのトークイベントで、当時の最新作Heads You Loseを購入して以来のファンなのですが、その後一読して、これはぜひ日本の読者に紹介したい、と思っていた本書を翻訳・出版することができて本当に嬉しいです。

 女であることの不条理に直面しても前向きに生きることをあきらめない、#わきまえない女が主人公の話を読みたい――そういう読者にぜひ読んでいただきたいです。
 世界でも日本でも、女性をめぐる変化があったり、一方あまりの変わらなさに愕然としたりする状況が続いています。米国発信で他国にも波及した#MeToo、日本でも#MeTooにかけて、職場におけるダブルスタンダードを問題にした#KuToo運動、性暴力に声をあげる「フラワーデモ」、2021年、オリンピック・パラリンピックをめぐる要職者の女性蔑視発言をきっかけにした#わきまえない女のトレンド入りなどが時代の空気の中の変化を感じさせる一方、2017年に判明した複数の大学医学部で女性受験生を差別していた問題をはじめ、多くの問題に決着がついていません。
 その中で、お隣の韓国でチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(2016)がベストセラーになって映画化もされ、日本でも2018年に翻訳が出版されるや多くの読者を得たことが、あらためて本書を翻訳・出版したいという気持ちを後押ししてくれました。
 念のために申し添えると、フェミとか知らないし、というあなたにも十分に楽しんでいただけると思います。

杉山直子(すぎやま なおこ)
 神戸出身。主な訳書にアマンダ・クロス『インパーフェクト・スパイ プロフェッサーは女探偵』(三省堂)ベル・フックス『アート・オン・マイ・マインド アフリカ系アメリカ人芸術における人種・ジェンダー・階級』(三元社)『ウィメンズ・アメリカ 資料編』(ドメス出版 共訳)、主な著書に『アメリカ・マイノリティ女性文学と母性 キングストン、モリスン、シルコウ』(彩流社)『アメリカ文化年表』(共著 南雲堂)がある。日本女子大学教授。
■担当編集者よりひとこと■

「そうね、その通りよ。ウーマンリブの目標はまさにそれ。男女平等じゃなくて、失礼な態度をとる権利の獲得よ。……」
 本書の中で私が一番好きな、主人公のセリフです。バーで新聞を読んでいる時に話しかけてきた無礼な男から、「近頃の女は、礼儀ってもんを知らないよな」と言われた際、主人公が咄嗟に言い返した言葉。主人公とほぼ同年代の私としては、「クゥ! カッコイイ」と思わず膝を打ちました。
 しかし主人公も最初からこう啖呵を切れる性質たちではありません。大人の都合に押し切られ、流されて逃亡を余儀なくされる過去を背負う主人公が、夫の死後、警察の取り調べを逃れるために逃げた先で出会った人々との交流や、アクシデントを通して、少しずつ変化していくのです。最初は強気ながらもどこかで遠慮気味で、トラブルを回避するために画策しますが、物語が進むにつれ、体当たりで危険を顧みない行動にもでる。冒頭の引用は、物語の半分ほどで出てくるセリフです。
 杉山先生の小気味良い翻訳に乗せられ、主人公とともに緊張したり怒ったり悔しがったりしているうちに物語のクライマックスまで運ばれてしまう、あっという間の340頁。主人公の人生の助手席に座って、読者の皆様もこの逃亡劇の道連れになっては如何でしょうか?

小鳥遊書房 林田こずえ

 


 

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