慈善家としても名高い銀行経営者が、ロンドンの自宅の密室で遺書を書いて自殺する。その部屋には、彼が残忍な殺人を犯した動かぬ証拠が残されていた。ところが、その自殺には別の人間がかかわっていた。それがレイチェル・サヴァナク、孤島で長年暮らしたのち莫大な遺産を相続してロンドンに移ってきた若い女性である。彼女はこの事件のまえにも、解決したかに見えた別の殺人事件の真犯人を見つけ出し、警察に恥をかかせていた。その真犯人も自殺している。いったいレイチェル・サヴァナクとは何者なのか。素人探偵? それともなんらかの犯罪者?

 小説作品では本邦初紹介となる、マーティン・エドワーズ『処刑台広場の女』の導入部です。これだけでも謎は充分で、ふつうはここから探偵や警察が腰をすえて謎解きに取りかかるわけですが、この作品はちがいます。読者はのっけから、「え? こんなに仕込んだ謎を解かないの?」と思わされる。「解くべき謎は何か」ということが「謎」なのです。しかもそれが次々とくり出されるので、読むほうはひたすら翻弄される。まさに「『いったい何が起きている/起こった/起こるか』がさっぱりわからない物語」なのです(引用は霜月蒼『アガサ・クリスティー完全攻略〔決定版〕』(早川書房)の『バートラム・ホテルにて』から)。舞台は1930年代の戦間期のロンドンで、クリスティーやセイヤーズやカーの探偵たちが活躍しはじめる時代ですが、設定は100年前でも本書がとても新しく感じられるのは、ひとつこのプロットの作りこみが理由かと思います。
 ただ、それだけではよくできたジェットコースター小説ということで終わってしまう。それに勝るとも劣らない本書の魅力は、キャラクターでしょう。なんといっても印象的なのは主人公のレイチェルです。つねに冷静で敵には容赦なく、アメリカの流行歌を口ずさみ、プールやジムつきの要塞めいた邸宅に住んでいる。彼女は邸宅で働く3人の使用人にしか心を許しません。
 そんなレイチェルに対峙するのが、北部のヨークシャー州出身でナイーブに思われるほどお人好しの新聞記者ジェイコブ。多くの読者は彼に共感して読んでいくと思いますが、不可解な数々の事件を追ううちに、やたらと危ないところに足を踏み入れるので、ハラハラせずにはいられない。最初はたんに取材する側とされる側だったふたりの関係が徐々に変わっていくのも、愉しい読みどころかと。ほかにもカラフルなキャラクターが大勢出てきて、そのへんはディケンズふうかもしれない。
 要するに、プロット、キャラクター、さらには雰囲気たっぷりの舞台装置(密室、奇術、劇場、処刑台広場、さまざまなガジェット……)と三拍子そろった傑作なのです。

 恥ずかしながら、私は今回の翻訳の仕事をいただくまでマーティン・エドワーズという作家を知りませんでした。しかし彼はイギリスの伝統ある〈ディテクション・クラブ〉の現会長で、そのクラブの歴史を綴った『探偵小説の黄金時代』(森英俊、白須清美訳、国書刊行会)というノンフィクションの著書が邦訳されています。英国推理作家協会(CWA)の会長も務めたことがあり、2020年には同協会のダイヤモンド・ダガー賞を受賞。長篇小説も20作以上発表していて、『処刑台広場の女』はレイチェル・サヴァナクを主人公とする新たなシリーズの1作目になります。
 巻末の千街晶之さんの行き届いた解説に、本書のゴーントという島の名前は、カーター・ディクスンの『弓弦城殺人事件』の名探偵ジョン・ゴーントに由来しているのではという指摘があります。それに私もトリビアをつけ加えると、本書の登場人物の名前はクリスティーの作品群から採っているのではないか。『ホロー荘の殺人』にヘンリエッタ・サヴァナクという彫刻家が出てきます。『茶色の服の男』にはサー・ユースタス、『死人の鏡』収録の短篇「厩舎街の殺人」にも、ユースタス少佐とジェーン・プレンダーリースが。レイチェルは、『無実はさいなむ』で最初に殺される奥さんの名前ですが、これはまあ、ふつうのファーストネームですから意図的ではないのかもしれない。まだあるかも。ともあれ、こういう目配せもする作家ではないかと思います。
 ついでに、読んだからには黙っていられないので言ってしまいますが、『処刑台広場の女』の次作のMortmain Hallも、やはりちょっとレベルのちがうおもしろさです。幕開けは19世紀後半から実在した「葬儀列車」、ロンドン・ネクロポリス鉄道の出発場面で、本当にこの人は舞台設定が巧みですね。
 というわけで、ミステリ通が読んでも、翻訳ミステリは初めてというかたが読んでも、きっと同じくらい愉しめる本書とそのシリーズ、訳者という立場を忘れて猛烈にお薦めします。

加賀山卓朗(かがやま たくろう)
 翻訳者。愛媛県出身。おもな訳書に、S・A・コスビー『頰に哀しみを刻め』、ルヘイン『あなたを愛してから』、ル・カレ『スパイはいまも謀略の地に』、ディケンズ『大いなる遺産』、グリーン『ヒューマン・ファクター』など。

 

■担当編集者よりひとこと■


 古今東西、名探偵というものはどこかしらに怪しいところがある存在です。超人的な推理能力をもって事件の謎を解き明かしていく彼ら/彼女らは、名探偵ではない我々からすると理解の出来ない言動をしているようにしか見えない時があります。わざと事件をひっかきまわすようなことをしたり、必要以上に口を噤んで重要なことを語らなかったり、時には捜査のためと言って犯罪まがいの行いをしたり……。そうしたところが、ある種の「怪しさ」として見られてしまうのでしょう。ただ、この『処刑台広場の女』の名探偵、レイチェル・サヴァナクは「怪しさ」の次元が別格です。
 本を開いて数ページ、目に飛び込んでくるのは「母と父は殺されたのだ。まちがいなく。悪いのはレイチェル・サヴァナク」という文章。登場人物表に「名探偵」とある人物がいきなり罪の告発をされているわけですから、面を食らってしまいます。さらに読み進めていくと、なんと彼女が関わった事件の犯人を自殺に追い込んでいるシーンが出てきます。しかも、レイチェルを調べていた新聞記者が謎の事故に遭って危篤状態であることも判明し、ますますこのレイチェルという名探偵が怪しくなってきます。果たして、彼女は正義をもって悪を断罪する名探偵なのか、それとも、とてつもない闇を秘めた悪魔なのか。読者の皆さまには、最後の一ページまで気を抜かずに、名探偵レイチェル・サヴァナクの真の目的と正体、そして作者マーティン・エドワーズが仕掛けた罠について、あれこれと想像をふくらませながら読んでいただきたいと思います。

 最後に、裏話的なことを少し。最初に私がこの小説を読んだときは、あんまりにも面白くて、これは絶対に翻訳ミステリ史に残る作品で、今までのミステリの流れを汲みながらさらに一段階上へミステリを進化させた傑作だ、といろんな人に早口長文でその魅力を語りまくってしまいました。それほどまでにこの小説の魅力にあてられてしまったというわけなのですが、翻訳をしてくださった加賀山卓朗さんから本作への絶賛のメールが続々と届き、そこには私が興奮して言っていたことと同じようなことが書かれていました。おお、やはりこの小説はものすごい小説なのだな、と思っていたところ、解説を書いていただいた千街晶之さんからも、あまりに面白すぎて締切の五日前に一気に原稿を書き上げてしまったと連絡が(千街さんの素晴らしい解説はぜひ書籍でお読みください)。翻訳者・評論家・編集者の全員を興奮させ、とりこにさせた稀代の傑作『処刑台広場の女』。ぜひ本作を読んで、私たちと同じように興奮し、とりこになっていただきたいです。

(早川書房編集部 I) 

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