ぼんやり生きているうち気づくと、あらま古希を過ぎ、だらだら訳しているうち、早40年年が経ってしまいました。やれやれ(私と同世代の村上さん風に)。
先が見えるなどということは人生いくつになってもないにしても、それでも私ぐらいの年まわりになると、大したものはもうあまり先には見えてこない。いいことは特に。まえを向いても横を向いても大したことはない。で、うしろを振り返りたくなる。世の回顧録というのはだいたいそういう心境になった人によって書かれるものなんじゃないでしょうかね、たぶん。
本書もその類いです。
自分のこれまでの仕事をこの歳になって改めて読み直すと、何か新たな発見があるやもしれぬ、なんてちょっと欲張った目論見も実のところ、なかったわけではありません。ですが、案の定というか、果たせるかなというか、結局、一番いっぱい発見しちゃったのは誤訳でした。
あとはほんとにものを知らなかったなあ、という慙愧に耐えない事実。たとえばミステリーにはつきものの銃のこととか。四十年近くまえの駆け出しの頃とはいえ、私、散弾銃の弾丸の大きさは“口径”とは言わず、“番径”と呼ぶのさえ知らなかった。だから昔の拙訳のひとつには散弾銃なのに口径、口径という訳語が鬼のように出てくる。出てくるたびできることなら念力で変えたくなりました。
もうひとつ大きなところでは、downtown には“都市の中心部”以外に“警察署”の意味があることも知りませんでした。で、これがばれちゃったときには、当時ご本人が編纂なさったハードボイルド・シリーズの訳者に私を抜擢してくださった故小鷹信光さんも、さすがに渋い顔をなさいました。そのときのご尊顔を今でも時々思い出します。
で、「翻訳ざんげ」というわけです。
読者の方には謝るほかないですが、そういう冷や汗を別にすると、読み返す作業そのものはけっこう愉しかったです。若い頃にはおれ、こんな訳やってたんだ、みたいな極私的な発見もあったりして。さすがに40年という歳月は長く、その間の世の言語状況の変化が見えたりもしました。訳していた頃の自分やその時代が思い出されて懐かしくなったり、ひとえに人と運に恵まれた結果とはいえ(才能もでしょ? いえいえ、とんでもない)よく四十年続けてこられたものだといった感慨を覚えたりもしました。
ま、そんな個人的な思いも多く含まれますが、本書は私が長年講師をしている翻訳の専門学校〈フェローアカデミー〉の会員サイト〈アメリア〉に連載していたコラムをまとめたもので、そもそも翻訳学習者向けに書いたものです。なので、取り上げたのは翻訳ミステリーですが、半分ぐらい翻訳そのものおよび英語が話題になります。でも、そこはうけるのが大好きな私のことです、ええ。ハイセンスなユーモアあふれる筆致(あくまで個人の感想です)で書かれていますので、翻訳にまったく関心のない方でないかぎり、いわんや翻訳ミステリーファンのみなさんには、きっと面白く読んでいただけるのではないかと自負しております。
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田口俊樹(たぐちとしき) |
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ローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ、バーニイ・ローデンバー・シリーズを手がける。趣味は競馬と麻雀。 |
ざっくり言うと「回想録」です。40年の翻訳稼業を自らの訳書を再読して振り返ろうという試みです。とはいえ、キッシンジャーではなく田口俊樹さんですから、ただの回想録ではありません。一般に回想録というと、オレ(もしくはワタクシ)はこんなすげえことをやってきたんだぜ、という業績がづらづらと並ぶイメージがありますが、なにせ『日々翻訳ざんげ』なのです。かの田口俊樹にざんげをしなければならないようなことがあるのか!? いやあ、あるんですね。それも山ほど!
ブルーミングデールズに「大手のスーパーマーケット」と訳注をつけて小林信彦氏につっこまれたり、確定申告書を「税金の還付金」と申告する前にもらったり、おまけにふたりの男ががなり立てている「The Weight」がザ・バンドの代表曲(映画「イージー・ライダー」の劇中歌としても有名)であることに気づかなかったりと、ミュージシャン田口俊樹としてもどうなんだと首をかしげざるを得ないような誤訳、勘違いのオンパレード。もちろん告解だけではなく、八十七分署ではなく「八七分署」、三十七口径ではなく「三七口径」である理由、先生ではなく「あなた」なのはなぜか、「が」と「は」の使いわけなど、自らの手のうちをさらした翻訳指南書でもあり、翻訳門外漢である私はへーっとボタンを押しまくったり、おっと驚いたりの連続。面白くためになる本であることは間違いありません。
再読した数々の訳書の読みどころを訳者視点で教えてくれる読書ガイドであることにくわえ、ジョン・レノンが射殺された翌日、高校の授業(教師時代です)をジョンの「労働者階級の英雄」一曲を聞かせただけで終えたというしびれるエピソードをはじめ、編集者、作家、翻訳家との逸話も満載。ハイセンスなユーモアあふれる筆致で書かれていますので、翻訳ミステリーファンのみなさんはもちろん、翻訳、ミステリー、本、英語、日本語に少しでも興味のある人は絶対に楽しめる本である、と声を大にして言っておきたいと思います。よろしくお願いします。
(本の雑誌社 浜本茂)