一九六一年十一月下旬、アメリカの大財閥で名門ロックフェラー家の御曹司であり、ハーバード大学を卒業したばかりのマイケル・ロックフェラーがオランダ領ニューギニアで消息を絶ったというニュースが世界を駆け巡りました。転覆した船体に乗って海へ流されたマイケルは、陸地までいって助けを求めると友人に言い残して泳いでいったきり、消息不明になったのです。大がかりな探索がおこなわれましたが、死体が発見されることはありませんでした。ワニに食べられた、溺死した、サメに襲われた、といろいろな噂が流れました。結局、親族や当地の警察はマイケルは溺死したと結論づけ、この事件は一応の収束を迎えます。ところが――

 文化人類学や民族学とは縁のないわたしがこの重い内容のノンフィクションを翻訳することには、かなり大きな心理的抵抗がありました。「翻訳家の看板を掲げているので、どのような作品でも訳します」などと冗談交じりに言ってはいますが、得意な分野というものはやはりあって、本書はわたしには荷が重すぎるのでは、と思ったのです。
 しかし原書を読んだとき、対象に迫るための方法を探り、謎を解明するために現地に赴き、できる限りの手段を講じ、その結果得られた知識や情報を惜しむことなく開示していくカール・ホフマンの姿勢に圧倒され、ジャーナリストの魂を見た思いがしました。彼の関心事がたまたまマイケル・ロックフェラーであり、赴いた先がたまたまニューギニアであっただけで、その対象が違っていたとしたら、たとえばイラク戦争やシリア内戦であったなら、同じように力を総動員して事実を伝えようとしただろう、と。カール・ホフマンはわたしのなかで、『帰還兵はなぜ自殺するのか』を記したデイヴィッド・フィンケルや、『シリアからの叫び』を書いたジャニーン・ディ・ジョヴァンニに列なる人物になったのです。それで、こちらの躊躇いが消えました。
 もうひとつ、訝しく思うことがありました。五十年前の出来事を、著者がその場にいて目撃していたかのように書いていて、その書き出しもノンフィクションというよりもミステリー小説のようだったからです。ところが巻末の詳細な原註を読んだところ、著者自らが、当時の関係者間で交わされた手紙や報告書、日記、電報を読み、生存者に取材し、専門家の意見を聞き、現地でアスマットの人々と暮らし、マイケルが消息を絶った海の近くまで行った後で、再構築したものであることがわかりました。つまり、嘘や誇張は含まれていなかったのです。
 ミステリー小説に似ているといえば、本書は倒叙法で書かれた推理小説や「刑事コロンボ」のように、殺人事件とその犯人が最初に提示され、その謎を追うという形で書かれています。

 こうしてホフマンを水先案内人として、読者はニューギニアのジャングルの中へ誘われていきます。そこは湿地が広がりマングローブの茂る未知の世界でした。いまでこそボートが走り、携帯電話も通じる土地ですが、五十年前は裸で暮らす人々がいて、カヌーを操りながら村同士で殺し合いをし、しかも首を狩ったり、人肉を食べたりしていたのです。 
 マイケル・ロックフェラーがニューギニアのその地区に魅せられたのは、そこに素晴らしい工芸品があったからであり、それを手に入れた西洋人がいなかったからでした。しかも父親でニューヨーク州知事であるネルソン・ロックフェラーは、ニューヨークにプリミティブ・アート博物館を創設するほど熱心なコレクターでした。人々の役に立つことを使命とする財閥に生まれ、将来を期待されたマイケルは、潤沢な資金を後ろ盾にして、プリミティブ・アート博物館のために現地でさまざまな工芸品を手に入れることに熱中します。
 ヨーロッパ文化と文字のないアスマット文化との衝突、キリスト教宣教師とアスマット戦士たちとの交流、オランダ警察の強硬な統制手段、当時の変化するインドネシア情勢などがわかってくるうちに、アスマットの人々の霊的世界、この世とあの世が一続きになり、生者と死者とが交流する世界の存在が明らかになっていきます。そしてこれまで多くの国が経験したこと――その土地独自の文化が蹂躙され、圧倒的な威力と財力を持つ外の文化や宗教に絡め取られていく過程――が丁寧に語られていきます。
 冒頭の首狩りと人肉食を読んで残忍な描写だと思った人は、とりもなおさず、彼らの行為を偏見と予断をもって見ていて、その文化の本質について何もわかっていないことに気づくのです。わたしはそのとき、土佐藩士の切腹を目の当たりにしたレオン・ロッシュもかくのごとき文化の相違を味わったのではないかと思いました。こちらにとって当たり前のことも、違う文化のもとで育った人々の目には残虐で狂気に満ちた所業に映ったことでしょう。フランスのギロチンという処刑法が、その国の歴史を知らない人にとって極悪非道の行為に映ったのと同じように。
 本書の表紙を見て怯む人もいるかもしれません。そして冒頭の描写に怖じ気づく人がいるかもしれません。でも、ホフマンと共に深い森の奥地に入り込む勇気を持っていただきたい。そこに現れるのは初めて見る光景であり、初めて知る誇り高い文化なのです。

 カール・ホフマンは「ナショナル・ジオグラフィック・トラベラー」の編集者で、「アウトサイド」「ウォールストリート・ジャーナル」などに旅行記を寄稿し、これまで七十五ヶ国以上の国を旅してきました。著書はこれまでに四冊を上梓し、本書(原題Savage Harvest)は三冊目にあたります。前二冊は邦訳があります(『幻の大戦機を探せ』『脱線特急 最悪の乗り物で行く、159日世界一周』)。

古屋美登里(ふるや みどり)
 著書に「BURRN!」で連載している書評をまとめた『雑な読書』『楽な読書』(シンコーミュージック)。訳書にエドワード・ケアリーのアイアマンガー三部作(『堆塵館』『穢れの町』『肺都』)(東京創元社)、映画「光をくれた人」の原作M・L・ステッドマン『海を照らす光』、ラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』(以上ハヤカワepi文庫)、イーディス・パールマン『双眼鏡からの眺め』(早川書房)、ダニエル・タメット『ぼくには数字が風景に見える』(講談社文庫)、デイヴィッド・フィンケル『帰還兵はなぜ自殺するのか』『兵士は戦場で何を見たのか』、ジャニーン・ディ・ジョヴァンニ『シリアからの叫び』(以上亜紀書房)、アトゥール・ガワンデ『予期せぬ瞬間』(みすず書房)など。倉橋由美子作品復刊推進委員会会長。倉橋由美子の単行本未収録エッセイ集『最後の祝宴』(幻戯書房)を監修刊行。

 

■担当編集者よりひとこと■

この本では、訳者古屋さんの紹介文にもあるように、のっけからマイケル・ロックフェラーがアスマットたちに「喰われてしまう」場面が鮮やかに描かれます。
かなりリアルでショッキングなのでグロ系に弱い人は閲覧注意なわけですが、最初から犯人と被害者と犯行現場が明かされているので、最初読んだときは、このあと何百ページも持つのかな、途中で飽きちゃうんじゃないかな、と不安がよぎりました。
ところが、著者ホフマンはがっちりと読者の興味をつかまえて離しません。

犯行の動機はなんなのか
なぜ、マイケルは喰われなくてはならなかったのか

この謎の答えに、著者は時空を行き来しながら、粘り強く、近づいていきます。
そしてこの問いは、もっと根本的な問いを背景に潜ませています。
「異文化理解」と簡単に言うけれど、そんなこと可能なのか。つまり、

ひとは本当に他者を理解できるのか

という問いです。
ネタバレを少し言うと、主人公マイケルにはそれができなかった。若くて、野心家で、世界有数の権力者の血筋だった彼は、自分がひとを踏みにじっている可能性に気づけなかったのです。
でも、自分がマイケルだったらどうだろう。繊細で柔軟な精神をもって、異文化のなかに溶け込み、他者と関係を築くことができるだろうか。
著者はそのように自問しながら、「他者理解」へと接近していきます。
そのとき、読者は、ホフマン自身とともに、まなざしの「反転」を経験します。

残酷なのはどっちだ

「残酷でおぞましい」首狩り族の物語、そう思って読んでいた私たちは、「本当に残虐でおぞましいのは、もしかしてこちらじゃないのか」と疑い始める。そして、そもそも、「残酷とはなんなのか」と、深く考えこんでしまいます。本書の原題は、「Savage Harvest (野蛮なる実り)」です。

自分のあたりまえが揺らぐ
他者を考えることで、自己が解体される

「キワモノ」的なテーマから、上質な謎解きに導かれて、はるか遠いところへと連れて行ってくれる本書の世界に、どっぷりと浸かっていただけたら幸いです。熱帯が舞台の本書、熱くなるこれからの季節にぴったりだと思います。

(亜紀書房 内藤寛)

亜紀書房ウェブサイトhttps://www.akishobo.com/
亜紀書房Twitter公式アカウントhttps://twitter.com/akishobo
亜紀書房Facebookページhttps://www.facebook.com/pages/%E4%BA%9C%E7%B4%80%E6%9B%B8%E6%88%BF/257517140972413
亜紀書房Instagram公式アカウントhttps://www.instagram.com/akishobo/


 














■【随時更新】訳者自身による新刊紹介■バックナンバー一覧