『運命の日』デニス・ルヘイン(早川書房)

He could feel grass underfoot, the smell of a field in late August, the scent of leather and dirt and sweat, see the runner trying to take home, take home against his arm, trying to show him up like that?

 足元に芝生を感じた。八月の終わりの球場のにおい、革と土と汗のにおいがして、走者がホームベースに駆けこもうとしているのが見えた。おれからホームを奪うつもりか? こうやっておれに恥をかかせるつもりか?

(管理人注:イタリック部は元の訳文では傍点付きの記述です)

 昨年刊行された『運命の日』のクライマックスから。主人公は、警察一族に育ち、1919年のボストン市警のストライキで組合側のリーダーとなる警官ダニーと、みずからの心の弱さから犯罪に巻きこまれ、オハイオ州からボストンへ逃げてきた黒人ルーサー。どちらかと言うと、話の中心にいるのはダニーで、たしかにこれも男気のあるいいやつなのだが、私にとって『運命の日』は「ルーサーの物語」だった。ルーサーに感情移入すること甚だしく、かつて野球選手だった彼が、想像を絶する苦難の末に友を救うべくまた野球選手に戻る上の場面は、何度読んでも泣けてきて、過労のせいで(?)自律神経がおかしくなったのかと思ったほどだった。

 私の勝手なイメージでは、こういう描写をしているとき、ルヘインという作家は「飛んで」いる。訳すほうも必死でそれについていくが、曲芸飛行をやられるとこちらは「落ちて」しまうので、どうかこのまま気持ちよく飛ばせてくれと祈りながらタイプの指を動かしている。

 引用部分は、本来長い1文を日本語で4つに切っているし、最初のcouldはきちんと訳していないし、これではいかんとお叱りを受けそう。しかし、ここは誰がなんと言おうと「足元に芝生を感じた。」で始めたかった。そして終わりは、どうしてもルーサーのモノローグにしたかった。訳者飛びすぎと思われるかもしれないけれど、小説のあの瞬間に立ち会っていただいたかたの何割かには、こう訳したかった気持ちがかならず伝わると信じている。

〈作品についての情報〉

2008/8 初版

 探偵パトリックとアンジーのシリーズ5作、『ミスティック・リバー』、『シャッター・アイランド』などを書いてきたデニス・ルヘイン(レヘイン)の最新長篇。ボストン市警のストライキと市内の大暴動という史実にもとづいて、友情、愛情、家族のつながりなど、重厚な人間模様を描き出した大作。『ミステリが読みたい! 2009年版』海外部門第1位など、年末ランキングでも好評だった。