『著者略歴』ジョゼフ・コラビント(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 翻訳をしていると、かんたんな文章につっかかってしまうことがよくあります。考え抜いたすえ、これだ! という日本語がふと浮かんでくる。苦しくもあり楽しくもある瞬間。翻訳作業というのはこれの連続でしょう。現に先ほど仕事をしているときも、おおっ! これだこれだ、とひとり悦に入っていました。どなたか翻訳しているわたしの姿を盗み見たら、頭をかきむしり、ぽかぽか叩き、それから妙な笑みを浮かべ、小躍りしている姿にきっと引いてしまうことでしょう。だから、というわけでもないのですが、たとえ家族でもまわりに人がいると翻訳作業ができません。はい、仕事中は引きこもりです。幅八十五センチの廊下(今、定規で測ってきたところです。これまた、なにをやっているんだか)を隔てた隣部屋にいる息子とも、もう何日顔を合わせていないか。

 前置きが長くなりました。そこで「会心の訳文」です。「会心」というところを少し読み替えて自分のなかで「特に印象に残っている訳文」ということで、デビュー二作目の長篇(デビュー作に取り組んでいるときは、もう必死であまり覚えていないのです。担当編集者さん、ごめんなさい)を紹介させていただきます。

 わたしの長篇二作目は『著者略歴』という作品です。その書き出しは次のようになっています。

For reasons that will become obvious, I find it difficult to write about Stewart.

 中学生でもわかる平易な文章ですが、これは苦労しました。この小説は一人称で語れれていくのですが、その「語られていく」ところにある仕掛けがあります。これはネタバレではないので未読の方は、ご安心を。だから、それをなんとなく予感させる文章にしたかったのです。出だしの For reasons をどうするか。「理由」という日本語を置くと、小説の出だしとして、うまく流れない。ごつごつした感触になってしまいました。そこで以下のような訳文に落ち着きました。

 おいおい明らかになるけれども、スチュワートについて書こうと思うとペンの動きが滞る。

 ここから物語は始まるのですが、その先は訳しながら楽しませてもらいました。ほんとうに面白い本でした。思い出に残る一冊です。

 その後、ジョージ・ペレケーノス『変わらぬ哀しみは』、マット・ラフ『バッド・モンキーズ』といった作品との幸せな出会いがあり、それぞれに「会心の訳文」がありますが、それはまた別の機会に。

 文章を紡ぎ出す快感。翻訳を職業にしてよかった、と書きたいところですが、職業の後ろに?が入ってしまう現状は辛いですね。

 横山啓明

〈作品についての情報〉

『著者略歴』

 作家になることを夢見る青年キャルは、ある日ルームメートが書いた原稿を盗み読んでショックを受けた。自分をモデルに書かれたその小説が、紛れもない傑作だったからだ。ところが、ルームメイトが事故で死んでしまい、キャルはそれを自分の作品と偽り発表してしまう。一躍ベストセラー作家となって夢をかなえたキャル。ところが、盗作の事実を知る脅迫者が現われたとき、彼の生活は足下から崩れはじめる・・・・・・