ジョン・フランクリン・バーディンの『悪魔に食われろ青尾蠅』は1948年の作品で、サイコ・サスペンスの先駆として名高い。クラシック音楽の観点から注目したいのは、この作品の主人公エレンがチェンバロ奏者であること、および主に弾かれるのがバッハの《ゴルトベルク変奏曲》であることだ。作中で、この曲は主人公が次第に常軌を逸して来る過程にぴたりと寄り添い、不気味な雰囲気を醸し出す道具として使われている。思うような演奏ができなくなるという、プロの演奏家にとって恐怖すべき事態も克明に描かれており、読み応え十分である。

 興味深いのは、《ゴルトベルク変奏曲》が、さらに時代が下った後も、不気味なBGMとしてミステリに採用された事実である。実はこの曲のイメージは、1955年に著名なピアニストであるグレン・グールドが画期的な録音をした結果、世間一般においてもガラリと変わっているのだ。よって小説での《ゴルトベルク変奏曲》の使われ方も、グールド以前か以後かで、大きな違いがあっていいように思われる。

 ところが《ゴルトベルク変奏曲》は、1981年に、トマス・ハリスの『レッド・ドラゴン』においてご存知ハンニバル・レクター博士が愛好する曲として持ち出され、1948年の『青尾蠅』同様、いかにも恐ろしげに鳴り響くのである。グールドがいようがいまいが、サイコ・サスペンスの世界で同じく「不気味」なBGMとして使用されたという事実は、この曲の受容史を考える上ではなかなか興味深い。

 なお、現在で「チェンバロ」と言うと、通常はヒストリカルチェンバロ——バッハが生きていた頃に実際に使われていたチェンバロ、およびそのレプリカ——を意味する。現在バッハをチェンバロで弾く際は、ほぼ100%、このヒストリカルチェンバロが使用される。しかし『青尾蠅』が発表された当時は、チェンバロと言えばモダンチェンバロだった。これはヒストリカルチェンバロとは全く異なる音色を出す楽器で、20世紀初頭に開発されたものだ。演奏様式も、必然的にモダンチェンバロとヒストリカルチェンバロで大きく異なる。『青尾蠅』で弾かれているのは、年代的に考えて恐らくはモダンチェンバロであろう。『青尾蠅』を読んでバッハやチェンバロに興味が出た人は、この点に注意されますよう。

 紹介音盤は、ピアノに駆逐されかけていたチェンバロを、二十世紀初頭に孤軍奮闘して復活させたワンダ・ランドフスカの演奏である。使用楽器はモダンチェンバロ。なおこの人は第二次世界大戦勃発時にアメリカに亡命し、演奏活動とともに、1959年に亡くなるまで後進の指導をおこなっていた。このため私は、『青尾蠅』でエレンの師匠が出て来る度に、脳内でランドフスカに読み替えていたことを告白しておきたい。

 Amazonでは1945年アメリカでの録音が検索しても出て来なかった(セット物はあった)ので、今回は1933年にヨーロッパで録音した方を挙げておく。1945年盤も名高い録音なので、そのうち復活するような気はしますが。

 シリル・ヘアー『風が吹く時』は、アマチュア・オーケストラの演奏会で起きた殺人事件を扱った本格ミステリである。下手な奏者が問題となったり、急な代役をどう調達するかですったもんだしたり、練習会場を危うく失いかけたり、ゲストとして呼んだプロのヴァイオリニストとトラブルになったりと、地方のアマチュアのお寒い事情がリアルに、ユーモラスに描かれていて、実に楽しく読める。ミステリとしてのネタも、音楽と不可分に結び付いていて、この点では今回紹介した作品の中ではトップかも知れない。ミステリ史上に名を刻む、クラシック音楽ミステリの古典といえよう。

 ただし残念なことに、音楽用語の訳がぐしゃぐしゃである。たとえば、作中の演奏会のメイン・プログラムはモーツァルトの「プレイグ交響曲」とある。一瞬何のことだかわからなかったが、これは交響曲第38番ニ長調K504《プラハ》のことである。スペルはPragueなので勝手にそう読んでしまったのだろうが、せめて「プラーグ」にしていただきたかった。

 万事この調子なので、作者のせいか訳者のせいかわからない勘違いが散見され、ちょっと疲れる。その最たるものが、アマチュア・オーケストラなのに、リハーサルを本番当日の数時間前にしかやっていないらしいことだ。原書は未確認なので何とも言えないが、訳者が「ゲネプロ」等を単なるリハーサルと誤解して訳出した可能性もある。新規に訳し直したら、印象が目覚ましく変わるかも知れない。

 私事で恐縮だが、知り合いでミステリと音楽を関連付ける人は、多くがロック好きやメタル好きであるように思う。霜月蒼氏や中辻理夫氏の書評を連想するとわかりやすいが、レビュー時にロックやメタルを引用することによって狙われる効果は、煎じ詰めれば「ヒャッハー!」ということになるだろう。この場合、音楽とはノリが良いもの、理性を飛ばすもの、アドレナリン出まくりなもの、ジャンキーでグル—ビーなものであるという認識のもとに、レビュー対象のミステリ作品も同じくアッパーであることを暗示するのが、主張の要点というわけだ。

 ジャンルが違うとはいえ、クラシック音楽にも、テンションがやたらに高い曲や演奏はたくさんある。しかしクラシック音楽は、生真面目な曲や演奏をも、高く評価すべきジャンルであるはずだ。ならば、その特性を活かしたミステリがあっても良さそうなものではないか? というか、ロックやメタルはミステリで情感上も有効活用されているけれど、クラシックは全然というのは、かなり悔しい。

 そこでS・J・ローザンの『ピアノ・ソナタ』である。

 今回挙げた他の4作品で音楽面を担ったのは、いずれもプロの演奏家だった。しかし『ピアノ・ソナタ』は違う。プロの演奏家はそもそも登場しない。音楽の話をするのは、引退したピアノ教師アイダ・ゴールドスタインと、誰にも聴かせないつもりでピアノを一人自宅で弾く主人公の私立探偵ビル・スミスだけだ。しかし音楽の扱いは決して軽くない。

 この作品で、ビル・スミスは、シューベルトの変ロ長調ソナタ(はっきり書かれていないが、状況から考えて、ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D960であることは確実である)を全曲通して弾く。さらっと暗譜で弾いてますが、この曲は、実に40分以上もある大曲なのだ。技術的な面から言えば、世界第一線のプロ基準ではそれほど難しくはないだろう。しかし、全ての瞬間が繊細な歌に溢れているため、演奏者の力量が試される。長調で明るいはずのメロディーが、ふとしたことで(長調のまま)憂愁に沈む微細な感情の揺れ。これを全て表現するのは至難の技で、「ヒャッハー!」が絶対に通用しない音楽の最たるものだと思う。

 ビル・スミスは、プロでもおいそれと手を出せないこの曲に、他人に聴かせるつもりは全くないとはいえ、果敢に挑む。しかもその姿勢は、下手なプロよりも謙虚で誠実、音楽に対する真摯さに溢れている。ちょっと長くなりますが、引用してみますか。

 もう一度弾きたいと無性に思った。形を成しつつあるものが実際に姿を現すまで、何もせずに数日弾き続けていたい。今のままでは、あっという間に曲が消え失せるかもしれないし、そうなるともう取り戻せないことがある。このソナタを弾く心構えができるまで何年もかかった。今さら、それを失いたくない。

 どうです、実に真っ向勝負でしょう。そして彼は、「時計職人のように小さな部分を調整し、磨き上げる」ことを目指す。恐らく彼はプロはだしの技量を持っているのだろう、この名曲を弾きこなすまであと一歩である。……しかしシューベルトとのこの幸福な関係は、ラストにおいて失われてしまうことになる。それは作品内の事件の物悲しい結末と相似形を描き、読者をたまらない気分にさせる。曲が曲だけに効果も倍増しだ。この他、『ピアノ・ソナタ』における曲の使われ方は実に心憎い。詳細は訳者あとがきに詳しいが、リストのメフィスト・ワルツ第2番、シューマンの交響的練習曲、ブラームスのピアノ五重奏曲に関する、ビルと他の登場人物の会話が、何とくっきり彼らの心情を映していることか!

 これほどまでに音楽を敬愛し、なおかつ正面から向き合った作品を、探偵を、私は他に知らない。そして——クラシック音楽のファンでない人にとっても、ここは肝なのだが——その姿が、そっくりそのまま、ビル・スミスが事件や関係者と向き合う姿に重なるのである。これがシリーズ通して変わらないのも嬉しい。クラシック音楽と登場人物のキャラクターが調和している点で、ローザンのこのシリーズは、私の知る唯一の例外なのだ。

 ところで、作中ビルが演奏の参考にしているリチャード・グードの録音(レーベルはノンサッチ)は、ここ暫く、国内盤・輸入盤ともに廃盤中だ。よって私もこの演奏を聴けていない。実に残念なことである。ここでは代わりに、ポリーニと内田光子を挙げておく。まあこの曲は名高いので録音はいくらでもある。グード盤が入手できない以上、ローザン・ファンはCD売り場に行って適当に見繕っていただけたらと。

 ……しかし、こんなベスト5で、翻訳ミステリを応援したことになるのか? 自分でも著しく疑問である。

 酒井貞道