ベルリンの壁が崩れたころは高校生だった。翻訳ミステリーに興味を抱いたのもそのころだ。だから、 数々のスパイ小説に出会ったころには、「冷戦が終結したのでスパイ小説もおしまい」なんて烙印を押されていたのだ。……どんな烙印を押されていても、その魅力が損なわれることはなかったのだけれど。

 とはいえ、冷戦期がスパイ小説にとって栄えやすい時代だったことは確かだろう。直接の武力衝突を避けるべくスパイたちが暗躍し、東西対立という分かりやすい構図が存在し、ベルリンの壁というシンボルが存在した時代。

 冷戦期スパイ小説とは、ベルリンが東西に分かれていた時代の小説と言ってもいいだろう。

 そんなベルリンを舞台にした、冷戦期のスパイ小説を五作選んでみよう。

 それではまずジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』を……というのが順当な流れというものかもしれない。だが、せっかくなので『寒い国〜』以外で5作を選んでみたい(過去の記事を検索したところ、『寒い国〜』は何度も言及されているようなので)。

 条件はこんなところでいいだろう。

・主な舞台はベルリン。

・作中年代はドイツが分断されていた時代。

・諜報機関員が重要な役割を担っている。

 まずはトム・ギャベイの『凶弾』

 1963年6月。引退した元CIA諜報員が、現場に呼び戻される。西側への情報提供を申し出た東ドイツ高官が、他の者には話せない、と彼を指名したのだ。その内容は、なんとベルリンを訪問するケネディ大統領を狙った暗殺計画だった……。

 本書の最大の魅力は、主人公の一人称の語りにある。はみ出し者の、シニカルな視線と軽妙な語り口。その心地よさにどっぷりと浸って満喫したい。そしてもちろん、錯綜した謀略と謎の迷宮がある。小さな伏線とその回収が積み重ねられ、史実が巧妙に組み込まれ、クライマックスのケネディ狙撃の瞬間に向かって突き進む。暗殺は失敗すると分かっているのに(少なくともベルリンでは)、「もしかして……」とドキドキさせるところは、『ジャッカルの日』に勝るとも劣らない。

 刊行当時それほど話題にならなかったけれど、これは隠れた名作だ。ぜひ読んでいただきたい。

 それから数年後のドイツを舞台にしたのが、ロス・トーマスの『冷戦交換ゲーム』だ。

 東ベルリンに潜入中の諜報員パディロは、米ソの情報機関どうしの密約によって、窮地に陥る。酒場を営むマッコークルは、組織に裏切られた友の窮地を救うためにベルリンへと向かう……という物語は、冷戦を背景にしながら、東西対立よりも遙かに入り組んだ対立/協調の図式を描いてみせた。

 中盤の舞台となるのは、東ベルリン。敵と味方とどちらでもない連中とが入り乱れる中、パディロはいかにして「壁」をくぐり抜けて、「東」から脱出するのか。それが物語の大きな読みどころになる。

 時代は下って、1980年のできごととして描かれているのが、ジョン・ガードナーの『ベルリン 二つの貌』である。

 主人公の英国情報部員ハービーが東ドイツ国内に築いた諜報網をめぐる、東西の駆け引きを描いた物語だ。最後までどんでん返しが続く展開と、登場人物たちの腹の探り合いで読ませる。いかにも冷戦期スパイ小説らしい一冊である。

 700ページを超す長大な作品であり、じっくり腰を据えて堪能したい(……が、同じくハービーが活躍する『マエストロ』の暴力的な分厚さには遠く及ばないのが恐ろしい)。

 レン・デイトンの『ベルリン・ゲーム』の背景は1980年代初頭。東ベルリンに潜入した英国情報部員バーナード・サムスンが思わぬ事態に遭遇する物語であり、彼を主人公に冷戦の終焉間際までを描く長大なシリーズの第一作でもある。

 主人公がベルリンに向かうまでが妙に長く、そして夫婦の会話などが丹念に書き込まれているのだが、それもそのはず。夫婦の関係は、このシリーズでの重要な要素なのだ。主人公の妻も英国情報部員であり、組織内に内通者がいるとなれば、たとえ妻であっても疑わざるを得ない。そんな状況に置かれた男の、過酷な運命の物語である。

 最後は、冷戦の終焉を描いたマイケル・ドブズの『ウォール・ゲーム』。1990年刊行の本書は、そのタイミングにおいてきわめて不運な作品である。

「ウォール・ゲーム」の執筆を開始したのは冷戦時代のことだった。そして、書き上げたのは、東欧諸国の数百万の人々に自由と解放が約束されてから数か月ほど後のことである。(著者あとがき)

 そのため、本書では、史実とは異なるシチュエーションでベルリンの壁が崩壊する。

 冷戦が終わろうとしている時代、だが「壁」は残ったまま。そのことに不満を抱くベルリン市民の感情。米ソ首脳それぞれの思惑。ソ連指導部内の権力争い。東に内通する夫と、かつて東から脱出してきた妻。父の故郷ベルリンに赴任したCIA局員と、人妻との恋。幾つものドラマが並走しながら互いに絡み合う。その中心にあるのが、ベルリンの壁そのものなのだ。

 もちろん、クライマックスの場はベルリンの壁。『寒い国〜』のあのクライマックスとも響き合う、しかし時代の違いを感じさせる光景が描かれる。

 ……と、『寒い国〜』を入れずに5作を選んでみた。スパイ小説という枠から離れてみれば、イアン・マキューアン『イノセント』、ハモンド・イネス『ベルリン空輸回廊』なんて作品も思い浮かぶ。

 ちなみに、ここに挙げた作品の一部で活用されるのが、ベルリン地下のトンネル。都市の地下に広がる秘密めいた空間に心惹かれる方ならば、河合純枝『地下のベルリン』、ディートマール&イングマール・アルノルト/フリーデル・ザルム『ベルリン 地下都市の歴史』といった書物も楽しめることだろう。特に前者は、淡々とした記述の合間から著者の地下偏愛がにじみ出る好著である。

古山 裕樹(ふるやまゆうき)

書評家。「ミステリマガジン」などに書評を執筆。1973年生まれ、川崎市在住。

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