この手の記事を書く場合、「クラシック音楽はミステリによく似合う」などと適当に論旨をでっち上げて始めるのが王道だろう。しかし嘘を書くには、私はあまりにもクラシック音楽とミステリの双方を愛し過ぎている。だから正直に書くことにしよう。
クラシック音楽一般がミステリ一般に似合う事実は一切ない。作者・作品がクラシック音楽をうまく使えたかという個別具体論あるのみだ。ただし傾向を捉えて、こうは言えるかもしれない。「それらは、クラシック音楽ファンにとっては噴飯ものであることが多い」と。
なぜ噴飯ものであるかだが、これはクラシック音楽がどのように世の中一般に受容されているかに大いに関係している。このジャンルの音楽は、残念なことに、高級・高尚・上品または荘重なイメージが一般に広まっている。むろんそれはクラシック音楽の一面を捉えた見方であり、100%間違いだと言うつもりはない。しかし一方で聴く者の肺腑を抉る生々しい曲も多いし、低俗で下品な曲もたくさんある。そしてそのいずれもが、等しく素晴らしい。この裾野の広さこそが、クラシック音楽の真の魅力の一つ。クラシック音楽にかかわらず何でもそうだが、あるジャンルのものを全て、一つのイメージに押し込めることほど愚かなことはないだろう。
さてここで話をミステリに向けよう。非常に残念なことだが、国内・国外問わず、ミステリ作家の多くは、クラシック音楽に「一面的なイメージ」を押し付けている。すなわち、高級・高尚・上品・荘重な雰囲気を舞台や人物に与えるため、装飾部品としてしか使われていないケースが大半なのだ。
たとえばシャーロック・ホームズはヴァイオリンを弾きこなし、ファイロ・ヴァンスはピアノを嗜み、エラリイ・クイーンはトスカニーニ(指揮者)のコンサートを聴きに行った。だがそれらは、彼ら名探偵の超越性や上流階級っぷりを強調するアクセサリーとしてしか機能していない。少し時代が下がった探偵では、モース警視がオペラ好き——特にワーグナーの楽劇——であったが、彼の場合はむしろ、もう一方の趣味クロスワードパズルの方が、その理屈っぽい性格を表していて効果的だったと思う。これに比べてオペラは非常に影が薄い。ミステリにおけるクラシック音楽とは、このように中途半端な使用にとどまっている。ミステリとしての評価はまた別だが、音楽を作品に有効活用しているかという観点からは、一人の音楽ファンとして否定的にならざるを得ない。
(つづく)