乙娘が機を織っている。となりの部屋から聞こえる。母親は寝てしまった。機織の音がうるさいと毎晩文句をいう。乙娘は夜っぴてやらなければならず、ときには夜明けまでやることもある巴巴*1(わたし)は乙娘が湯浴みするまで起きている。
What shall I give my daughter the younger
More than will keep her from cold and hunger?
I shall not give her anything.
乙娘になにを遣る
寒さと飢えから護るほかに
わたしはなにも遣りません
もうこの時間では仕事はできないので、辞書を読む。手控えをとる。辞書を読むのは聖典を読むようなものだ。言葉はクワグマイアーになりかかっている池を浄化する。
After you speak
And what you meant
Is plain,
My eyes
Meat yours that mean,
With your cheeks and hair,
Something more wise,
More dark,
And far different.
きみは語る
きみの意(こころ)は顕らか
そのあと
ふたりの眼間と
きみの頬と髪が旌(あら)わすのは
もっと賢く
もっと黯く
迥かにちがうなにか
『新潮国語辞典』と『角川新字源』の頁をめくると、無数の発見がある。一九七〇年代ぐらいまでは、小説にも「潦」(にわたずみ)などという言葉が見られたものだ。『支那文を読む為の漢字典』は小さな辞書だが、他の字引には載っていない語義もある。
深夜、ウヰスキイをなめ、辞書を繰りながら鉛筆でカードに言葉を書き溜める。そのうちに乙娘が機織を終え、ドアを開け放った書斎の前を通りしなに、「メルド」の日本語にあたる言葉をつぶやく。もちろん感謝と祝福をこめて。
‘When first I came here I had hope,’ I recited under my breath as I went. ‘Hope for I knew not what.’ And now, just when I thought I might know… ‘I’m bound away for ever. Away somewhere, away for ever.’
「はじめて此処に来たりしときは望みあり」わたしは声をひそめて暗誦した。「なんの望みかは知らず」そしていま、それが判ったかと思えたときに……「我は永遠(とわ)に去りぬ。何地(いずち)へと、永久(とこしえ)に」
‘The cherry trees bend over and are shedding, on the old road where all that passed are dead, their petals, strewing the grass as for wedding, this early May morn when there is none to wed.’
『桜桃の樹々枉りて、通りしもの全て死す旧き路に花唇を撒く。草はらに点々と散るそのさまは婚礼を祝うがごとし。けれども五月なるこの晁(あさ)、婚(ま)ぐものも無し』
この本にちりばめられているエドワーズ・トマスの詩には、死のにおいが漂っている。闇に潜む虚無にとらわれないために、言葉をたぐり寄せる。六字真言を唱えるごとく。琵琶を弾く芳一の体に経文を書くごとく。
会心の訳であろうはずがない。顔を手で覆って指のあいだから奈落を覗いていただけだ。クワグマイアーの泥をかき出していただけだ。翻訳という意味は儚くなり、鬱金色の高貴な衣が更紗のように読みとりづらくなった。しかし、仕事が日常であり、日常が情況に囲まれているとするなら、これもまたやむをえないことと読者に寛恕してもらうしかない。手書きにしたのはむろん文字を刻むためだったが、迷惑のかからないようにファイルでお渡ししたのは竜頭蛇尾であったかもしれない。ペラで二千枚の写経だった。(ロバート・ゴダード『永遠に去りぬ』創元推理文庫より)
伏見威蕃
*1:〜原文では「父」冠に巴です。機種によっては表示されないため、著者に了解をいただき代字を用いました。編集部より〜