『ホワイト・シャドウ』
エース・アトキンス/熊谷千寿訳
ランダムハウス講談社
「あいまいなことはあいまいなままに」
——『わたしの恋はレッカー移動。』
イチハラヒロコ コトバアートカレンダー 2010(1月のページ)
1955年のフロリダ州タンパで、チャーリー・ウォールという老人が惨殺された。かつて闇の帝王ともいわれた人物だが、いまではたびたびバーで酔っ払い、若い連中に昔話を披露するおもしろいじいさんにすぎなかった。そんなじいさんがなぜいまごろ殺されたのか? 『ホワイト・シャドウ』はその実話を元に書かれたフィクションである。
あとがきにも書いたが、この作品について、いちばん印象に残っているのは、渾沌とした1950年代のタンパが浮きあがってくるような原文の書き方だった。書き出しは、事件発生当時に若い新聞記者だったL・B・ターナーという語り手の回想という形になっている。しかし、その後、ターナーの視点も含めて、複数の視点が入れ替わりながら、ストーリーが進行していく。
下の一節は、チャーリー・ウォール殺人事件を取材していたターナーが、記者仲間数人とバーで酒を飲みながら、事件の話をしていている場面である。
I might move on to another bar or check back by the Times.
When you are young and alone, you can wander from place to place. You had nothing keeping you anywhere, and the feeling was powerful, that ability to enter lives — bubbles of existence — interview, take notes, understand, and then walk away.
But I couldn’t leave the thought of Charlie Wall.
別のバーに移ってもいいし、タイムズ社に戻ってもいい。
若くて独り身なら、あちこちぶらつくこともできる。ひとつところに縛りつけておくものなどないし、強烈な感情が沸き起こっていた。他人の人生に——泡のような存在に——はいり、インタビューし、メモをとり、理解し、去っていく力があった。
しかし、チャーリー・ウォールへの思いは脳裏を離れなかった。
——『ホワイト・シャドウ』(ランダムハウス講談社)
「会心の訳文」といえるかどうかはさておき、この一節の主語と時制がおもしろいと思ったので、ここでとりあげることにした。
誤解を怖れずにいってしまえば、この一節はすべてターナー自身のことをいっている。つまり、”I”も”you”もぜんぶターナーのことである。それなら、なぜわざわざ”I”と”you”とに、あるいは現在形と過去形にわけたのか? たとえば、下のようにしても、ほとんど同じ意味になるのに。
I might move on to another bar or check back by the Times.
I was young and alone and so I could wander from place to place. I had nothing keeping myself anywhere, and ….
But I couldn’t leave the thought of Charlie Wall.
ヒントは原書の冒頭にあった。この作品には序文ともとれるものがついている。ターナーの一人称“I”で語られ、原文ではこの章だけすべてイタリックである。その章は以下のように締めくくられている:
It’s 1995 again. You are twenty-six years old and ambitious, and the tunnels are lit. And waiting.
いまは一九五五年。きみは二十六歳で野心に満ちている。トンネルの灯はともり、待っている。
この部分がストーリー全体の“枠組み”になっている。作者は読者にターナーの目を通してストーリーを見てほしいと思っている。言い換えれば、作者が顔を出している。そして、その後のストーリーで、ときどきターナーの視点を借りて読者に呼びかけているようにも思われる。
そこで、問題の一節は、ターナーが聞き手に昔のことを話して聞かせているような感じにしようと思った。うまくいっているといいのだが……。
もうひとつ:
Small white lights hung over the narrow brick street, and the night was brisk and cold. Raft kept talking about getting Eartha Kitt for the grand opening of the Capri and tried to make not-so-subtle hints to Santo about increasing the budget so they could make the place even better than what Lansky was building. Not that they were in competition; hell, if one member of the Syndicato hit it big they all did.
小さな白い街灯が、れんが敷きの細い通りに垂れさがり、夜風はひんやりと心地よかった。ラフトが〈カプリ〉のグランド・オープンのときはアーサ・キットを呼ぼうとしゃべり続けたり、ランスキーが建てようとしているところよりはるかに豪華にするために予算を増やしたらどうかと、あからさまにほのめかしたりしていた。競っているわけではなかった。シンジケートのあるメンバーがもうかれば、ほかのものももうかるのだから。
——『ホワイト・シャドウ』
「会心」というなら、こちらのほうだろうか。
次回は栗原百代さんです。知的なのに、気取ったところがひとつもない方です。お楽しみに。