「会心の訳文」ですって? しがない市井の一訳者のわたしに、そんな晴れがましい……いや、でも会心の「訳語」なら、ぜひ紹介したいものがございます。

The sickness of long thinking

 長考癖のあるチェス棋士? ……すみません、この語句をはじめて見たときに浮かんだジョークでした。出典は、ステフ・ペニー著『優しいオオカミの雪原』、舞台は19世紀半ばのカナダ。殺人の容疑をかけられ失踪した息子の無実を信じ、母親がオオカミの棲む極寒の荒野へと、先住民のガイド役を頼りに旅立ちます。その先住民がオオカミについてこんな話をします。「オオカミの子を拾って育てた。なついていたが、あるとき不意に野生に戻ってしまった。彼らはふるさとをいつまでも憶えていて、戻りたいと願っている」そして、そのことを the sickness of long thinking と称するのだ、と。

 ストーリーの縦糸は殺人事件の謎解きと息子さがしの旅、横糸としては、当時の入植者、先住民、外来商人らの思惑が交錯します。それぞれに彼/彼女の物語があり、誰もが the sickness of long thinking をかかえている。そしてこの語句は本書の結部に与えられたタイトルでもある。つまり、この作品のキモなのです。

 この sickness の内容を過不足なく伝えて、テーマの象徴にふさわしい、印象に残る、造形としても美しい日本語を見つけたい……。すべてをおおい尽くす白、白、白の雪原の描写や、視点人物がくるくる変わる展開にため息つきつつ訳了にこぎつけたとき、

「終(つい)えぬ思いという病」

 という訳語が立ち昇ってきました。「終の棲家」の(つい)とルビをふりました。日本語としては……正しいとは申せません。造語です。原語が sick, long, think という基本語なので、漢字もシンプルにしたかった。歴史物なので「ない」ではなく「ぬ」に。「つ・い・え・ぬ・お・も・い」で7音のリズム、章題としての字面も悪くない、と。

 ううむ、やはりこれは「会心」というより、自分のなかで最もこだわった訳、でした。

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 では、もうひとつ。こちらはケイト・モートン『リヴァトン館』から。

現代のイギリス、死を目前にした98歳の老女が第一次大戦前後のメイド時代を回想する。過去と現在とを行き来する彼女の意識の底から“悲劇”の秘密が浮かびあがってきて……。滅びの美学と運命の哀しみ。正統派メイド小説にして“戦争の世紀”の歴史サスペンスです。これは現在の老女が外出先で倒れ、介護士から呼びかけられている場面。ここから過去のメイドへ切り替わります。主人公グレイスの一人称の語り。

‘Grace … it’s Sylvia. Hold on, you hear? I’m with you … taking you home … you just holod on …’

Hold on? To what? Ah … the letter, of course. It is in my hand. Hannah is waiting for me to bring her the letter.

 な、な、なんというベタなつなぎ! 思わず椅子から転げ落ちましたよ。←うそです。そして恥も外聞も、てらいも見栄もなく、身も蓋もなくベタベタに訳してしまいました。

「グレイス……シルヴィアよ。気をしっかり持って、聞こえる? ここにいるわよ……いっしょに帰ろうね……しっかりして……」

 しっかり持って? なにを? ああ……そうそう、手紙だ。この手に持っている。わたしが手紙を届けるのをハンナは待っている。

 しかし「気をしっかりもつ」→「(何かを)手に持つ」って……コテコテすぎまへんか。

このあと、「通りは身を切るように寒く、折しも冬の雪が降りだしたところだった。」の一文で70数年前に切り替わって章を結び、次章の回想へなだれ込みます。強引だ。

 ケイト・モートンは圧倒的な語りの力で読ませる作家です。緩急自在、硬軟両用。ロマンスやサスペンスなどジャンル小説の枠組みを巧みに使い、常套を踏むことを恐れません(手段を選ばない、ともいう)。類型性が普遍性に転換するスリリングな瞬間を熟知しているかのよう。英語と日本語の越えがたい言語構造上のズレをも克服した、この“普遍的ベタ性”、これはもう会心の「原文」です。訳者として愛さずにいられません。

 ここまで読んでくださった奇特なみなさま、ありがとうございます。つぎの執筆者は、クッキング・ママのシリーズなど代表訳書多数(矛盾語法)、猫と馬と酒をこよなく愛す心優しき超高性能翻訳マシン(勝手に命名)こと加藤洋子さんです。どうぞお楽しみに!

 栗原百代