さて、セイヤーズのピーター卿シリーズを追うこの試みもようやく三回目。今回はシリーズ第三作、『不自然な死』(1927、創元推理文庫、浅羽莢子訳)である。

◆頬髭をかなぐり捨て

 ほとんど悪人──少なくとも、根っからの極悪人という犯人があまり登場しないセイヤーズの作品において、この『不自然な死』の犯人は、その凶悪さと冷酷ぶり、そして狡知に充ちたやりくちにおいて異彩を放っている。

 なにしろ、ピーターが最初に首をつっこむきっかけとなった殺人は、結局、完全犯罪となって起訴されることなく終わるのである。犯人が探り出され、とらえられるきっかけとなったのは、ピーター卿とパーカー警部が夕食をとっていた料理屋でたまたま耳にした、ある田舎医師の(聞くだけならばどうということもない)身の上話からであるが、それだって、ピーターがわざわざ首をつっこむことをしなければ、それっきりになってしまうはずのものだった。完全犯罪をやりとげたと思っていたのに、しだいに身に迫ってくる捜査の手に焦った犯人は、次々と殺人を犯す羽目になり、最後には文字通り、自分で自分の首を絞めることになったのであった。

 セイヤーズの多くの作品の特徴として、「ちょっとした違和感」が犯罪の匂いとなってピーター卿にかぎつけられることがよくある。この『不自然な死』の物語の発端のエピソードを語る田舎医師エドワード・カーも、多少の不満は持っていたにせよ、担当していたその癌患者の老女、アガサ・ドーソンがいつ死んでもおかしくない、少なくとも死を間近にしている状況にあったのは自ら認めている。癌の研究をしたいという彼の願望が、あまりにも急すぎた老女の死を認めたがらなかったのだろう、という考え方も、しようと思えばできた。現に彼の周囲の人々はそう思ったし、だからこそ、彼は田舎の自分の医院を売ってロンドンへ出、ピーター卿とパーカー警部の耳に自分が接した『不自然な死』のケースを吹きこむことになったのである(関係ないが、この食事シーンでパーカーが、嫌いな蝸牛をなんとか食べようとしている場面は妙におかしい。質実剛健な英国人として、そのような洒落た食べ物を好まないとは実にパーカーらしい)

◆喜劇役者ピーター、絶好調

 ともあれ、カー医師の話に犯罪の臭いをかぎつけたピーターは、いつものごとく張り切って首をつっこむことにする。前作『雲なす証言』では、兄の逮捕という事態にほとんど選択の余地なくかかわらなければならなかったわけだが、今回は第一作『誰の死体?』同様、ピーターが好きこのんで関わった事件である。それが彼に対する、あるはっきりとした内面的性格の言及をよぶことになるのだが、そのことについてはあとで述べる。

 カー医師を自室に招き、すべての事情を聞き出したピーターは、「下心があるんですよ、と言いつつ頬髭をかなぐり捨て、シャーロック・ホームズ氏は有名なこけた頬をさらけ出したのでありました」と自らの正体を明かすが、これもまた、きわめて芝居じみた言動である。道化役者を演じるピーターの演技は絶好調、というところか。

 物語のかなり後半になって、犯人が被害者を殺した動機について語るときの台詞のなかなかの大仰振りもギャグとしか思えない。

「解せないんだよ、ワトソン(と彼は言い、半ば閉じた眼の下で鷹のような眼を怒りにぎらつかせた)。さしもの僕にも解せないんだ。だが、それも長くはない!(と彼はまぶしいまでの自信をほとばしらせて叫ぶ)。僕の名誉(大文字だよ)が、この人間の皮を被った鬼(大文字)を、隠された源までたどり、偽善者をマストに釘づけにすることにかかっているんだ。たとえ押し潰されようとも! 盛大なる喝采。彼は顎を部屋着の胸に物思わしげに沈め、浴室で過ごす長い時間を慰めてくれる大切なベース・サクソフォンの中に、喉音をいくつか吹きこむのであった」

 なかなかの大演説である(慣れっこらしいパーカーには「すんだら言ってくれ」とすげなくスルーされるが)。しかも、『誰の死体?』で先代公妃の連絡を受けて事件現場へ出動するときの口上にも通じる、実に芝居的な台詞でもある。()内の文章をピーターが実際口にしているかどうかだが、浅羽訳で見るかぎり、「(大文字だよ)」がまさにピーターの口にしそうな口調になっているし、この演説の締めがそれまでのカッコ内のト書きを締めくくるような形で妙な動作描写になっているから、おそらくカッコ内もすべてピーターの台詞なのだろう。

 しかも身振り手振りつきでこれを大熱演されては、真面目なパーカーならずとも「すんだら言ってくれ」と流すほかはない。考えてみれば、物語の冒頭、これ以上のごたごたを恐れて名を明かそうとしなかったカー医師の身元をあっさり当て、「文明とはすばらしいものですね」などという嫌みともとれるメモを送りつけたり、看護婦のところへ聞きこみに行くのにわざわざ「もうすぐ赤ん坊の生まれる父親」として念入りにキャラ付けしていく必要も、特にはないのである。強いて言えば、「本人が楽しいから」だろう。このほとんど躁状態ともとれるピーターの言動は、シリーズ前半において、ほんのときおりを除いてほぼ一貫している──そう、ほんの時折を除けば。

◆ピーターによる告解(非公式な形で)

 犯人による第二の殺人、そして、第三の殺人が発覚しようとしているその前日、ピーターは聞きこみ役として重宝している老嬢クリンプスン嬢を探しに教会に向かい、そこの牧師であるトレドゴールド氏に向かって、内面のためらいを──前節で描かれたような、何もかもが冗談とお芝居でできているような喜劇役者ならとうていしそうにない相談を──おずおずと持ちかけるのである。

「あのう、先生は道義的な悩みとかそういったことに助言なさるんですよね」

「やってみるのが務めとされています。何か特にご心配なことでも?」

「は──あ」ウィムジイは言った。「宗教がらみじゃありません。つまり──不謬性とか処女マリアとかそういうこととは無関係なんです。ただちょっと完全には納得できないことがあって」

 そしてピーターが語りはじめたのは、一作目『誰の死体?』ではパーカーに向かってもらされ、だがすぐに脇へ追いやられてしまった悩みと基本的には同質であり、かつ、さらに深刻なものである。

『誰の死体?』では、「最後にはだれかが傷つくと気づいて憂鬱になる」という程度だった悩みは、ここでは、「自分が首をつっこんだがために、一人で済んだかもしれない被害者が二人になったのかもしれない」というものになっている。「もうすぐ死ぬ老婆をほんのちょっと手伝ってやったというだけのことに自分が手を出したせいで、別の一人の娘を死に追いやってしまったのかもしれない」という、深い恐れである。

「つまり、殺人は殺人を呼ぶという意味ですか」

「よくあることなんですよ。そうでなくても、簡単に殺してしまう方向でものを考えがちになる」

「実際、そうなりました。そこが問題で。だが僕がほじくり返そうとさえしなければ、そんなことにはならなかったんです。ほっておくべきだったんでしょうか?」

 さて、これは友人であるパーカーにふともらした気弱な言葉とは、比べものにならない重みを持っている。なにしろすでに、一人の命が失われているのである(そしてこの会話のすぐあと、さらにまた一人、罪もない娘の死体が発見されることになる)。

 そして相手は気心の知れた友人パーカーではなく、教会の牧師である。正式な告解として語られたのではないにせよ、聖職者に対するこの告白は、ピーターが道義的、道徳的な悩みを感じ、明るい言動の下で、深い良心の痛みを抱えていたことを窺わせる。

 そしてピーターが帰っていったあと、この聖職者トレドゴールド氏によって、ピーターというキャラクターの性格にとって、ある重大な一言が発せられる。「神経質で感じ易い」である。

「何といい人種だろう。パブリック・スクールの約束事以外にはとんと疎いとくる。おまけに一般に思われているよりはるかに神経質で感じ易い」

 しかし、パブリック・スクール出だからといってそういう人種がみんな神経質で感じ易いとはいえない。むしろ、『雲なす死体』で事態を混乱させる一因となったピーターの兄、デンヴァー公爵のばかげた騎士道精神や、ピーターの、『誰の死体?』でパーカーに一蹴される程度のスポーツマン精神だけなら、どんなに無神経な人間でも持つことができる。無神経である方がたやすいかもしれない。そういった人種は他人に対する想像力など持たないものだから。

 だが不幸にも(といっていいものか)、ピーターは探偵本能と同時に、そうしたやさしく感じ易い心をも持たされてしまっているのである。「神経質で感じ易い」。これほど道化役者に不似合いな、そして、ふさわしい言葉があるだろうか。

 ピエロの頬に涙がペイントされているように、道化の心は哀しいものだ。感じ易い魂を道化役者の鎧で覆い隠していたこのころのピーターの真実を、はからずも暴露してしまった一言として、このトレドゴールド氏の発言は特にとりあげられるべき価値があると、私には思われてならない。

◆クリンプスン嬢とサグ警部

 さて、この作品で登場した老嬢クリンプスン嬢もまた、私の大好きな女性キャラの一人だ。大文字と傍点と感嘆符と横線だらけのものすごい手紙を書き、変わり者ではあるがきわめて有能でかつ実際的、信心深く噂好きな心に、ピーター卿にも負けず劣らずの探偵本能を秘めている、果敢なお婆さんである。

 彼女はこの巻が初登場になるが、クリンプスン嬢を紹介されるパーカーが、てっきりピーターの愛人に引き合わされるものと思い込んでもやもやしているありさまは、パーカーの生真面目ぶりを表していてほほえましい。のちに『雲なす証言』で一目惚れしたピーターの妹メアリと結婚し、よき夫よき父となるパーカーらしいことである。

 のちにクリンプスン嬢はピーター卿の出資のもと、詐欺行為や売春斡旋を暴く秘密の探偵事務所の主となるが、この巻ではまだピーターに与えられたフラットに一人住み、ピーターの指示を受けて調査活動に当たっている。彼女とピーターがどのように知り合ったのかは語られていないが、パーカーの同席したときの様子から見て、すでにかなりの期間、ピーターの指示のもとでいくつも調査をこなしてきているらしい。

 物語のラストで、大変な危難に遭ってもくじけず怯えない強靱さは敬服に値する。この頑固とまでいえるしぶとさは、のち『毒を食らわば』で、あっさり死刑の判決を下されるところだったハリエット・ヴェインを瀬戸際で救うのに一役買うことにもなる。日本語で書いてあってもかなり凄いことになっているクリンプスン嬢の手紙は、もし手書きの現物を見たらどんなことになっているのか、怖さ半分見てみたい気もする。

 拡げた手紙はクリンプスン嬢の流れるような古風な筆跡で書かれ、あまりにも多種多様な下線や感嘆符で飾られているため、楽譜を書く練習でもしたかに見えた。

 ウィムジイかパーカーがまた立ち寄った場合に備え、置き手紙をしていったが、そのわかりにくく謎めき、下線や行間への書き込みだらけなことといったら、結局読む羽目にならなかったのは、ふたりの理性にとって幸いだったかもしれない。

 こうまで言われる手紙を書くとは、報告書はきちんとした書式で書いていそうなのに、手紙となると噂好きの本能が暴走してしまうということだろうか?

 そしてクリンプスン嬢と入れ替わるようにして、シリーズから姿を消すキャラクターもいる。サグ警部である。

 もともと彼がきちんと登場するのは一作目の『誰の死体?』だけで、それもあまり話にちゃんと絡んだり役に立っているとは思えないものである。単に〈無能な警察〉の典型としてだけ、そこに置かれたという風情で、警察との連絡は有能なパーカーがやっているわけだから、いってしまえば彼の出番など最初からなかったに等しい。

 書くうちにセイヤーズ自身にもそれが明らかになってきたのか、二作目『雲なす証言』ではラストシーンでオチの一言を呟くためにだけ登場し、さらにこの『不自然な死』では、電話の向こうの台詞もない存在としてしか登場しない。

 そしてこれっきり、彼の存在はシリーズから消える。あとになって「警察を退職して田舎に引退した」とだけ人づてに聞かされるだけである。少々かわいそうだし、寂しいといえば寂しいが(一巻の彼は戯画的人物とはいえそれなりにかわいげもあったのだ)、セイヤーズが型どおりの人物設定と配置から卒業していくにつれ、サグのような、舞台装置にも等しい存在の登場人物は、消え去るさだめにあったのかもしれない。

五代 ゆう(ゴダイ ユウ)

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 ものかき

 blog: http://d.hatena.ne.jp/Yu_Godai/?_ts=1286988042

 読むものと書くものと猫を与えておけばおとなしいです。ないと死にます。特に文字。

〔著作〕

『パラケルススの娘』全十巻 メディアファクトリー文庫/『クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー』ハヤカワ文庫JA全五巻/『骨牌使いの鏡』富士見書房 等

 書評をしていく予定の本:活字中毒なので字ならばなんでも読みます。節操なしです。どっちかというと翻訳もの育ちですが日本の作家ももちろん読みます。おもしろい本の話ができればそれでしあわせなのでおもしろいと感じた本を感じたまんまに書いていこうと思います。共感していただければ光栄のきわみです。

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