さて今回は遅刻してしまってまことに申しわけありませんでした。そんなわけでちょっと間が空きながらも『ピーター卿の作り方』第八回、シリーズ中もっとも有名な大作である『ナイン・テイラーズ』の登場である。

 それでは今回も簡単なストーリー紹介から。

 雪嵐の夜、友人の招待に応じるべく沼沢地フェン地方に車を走らせていたピーターは、嵐に目をくらませて溝に車を突っ込ませてしまう。おりしも大晦日の夜、助けを求めた先の小村、フェンチャーチ・セント・ポールの教区長ヴェナブルズ牧師は、年明けを九時間にも及ぶ組み鐘の奏鳴曲で祝うつもりだった。ところが村では流感が蔓延し、ぎりぎりの人数だった鐘方の一人も、奏鳴が始まる前に倒れてしまう。がっかりするヴェナブル師だったが、ピーターが鐘鳴術に通じているとわかるとがぜん元気になり、ピーターは、倒れた男の代わりに、大晦日から元日の夜にかけて、一晩中教会の鐘を鳴らし続ける。

 そして冬は過ぎてフェン地方の春、村では赤屋敷と呼ばれている屋敷の主人、ヘンリー卿が病死した。元日の朝に同じく病死した妻の隣に埋められるべく、屋敷代々の墓が掘り返されるが、そこから出てきたのは、顔を潰され、手首を両方とも切り取られた、見も知らぬ男の死体だった。ピーター卿が素人探偵としても名を馳せていることを知ったヴェナブルズ師は、さっそくロンドンに戻ったピーターに手紙を書き、調査に乗り出してくれるよう要請する。

◆ 前作につづいて『主人公』ではないピーター

 この作品におけるピーターの立ち位置については、巻末の巽昌章氏の解説の冒頭に置かれた一言、「『ナイン・テイラーズ』の主人公は鐘です」につきる。前作『殺人は広告する』の主人公がすべてを呑みこんで動き続ける商業主義という怪物であったのと同じように、この作品でもまた、ピーターは人権を解き明かす探偵という役割を振られてはいるが、その実、本質的にはこれといって役に立っていない(いや、暗号を解いて失われたエメラルドを無事見つけ出す、という点では役に立ったか)。

 すべてを支配するのは『鐘』、フェンチャーチ・セント・ポール教会の鐘楼の八つの鐘、ガウデ、サベオス、ジョン、ジェリコ、ジュビリー、ディミティ、バティ・トーマス、テイラー・ポール。この八つ、いや、八人の鐘たちが、最初から最後まで、自らの足もとでちょろちょろと走り回り、運命に翻弄されて右往左往する人間たちを、超自然的な沈黙のうちに見下ろしている、これはそういう物語なのだ。

 探偵小説、推理小説としての巧みさ、プロットと事件のみごとな融合──ほとんど渾然一体となって全体を作りあげている、語り手としてのセイヤーズの技巧のみごとさは、この作品でほとんど頂点に達しているといっていい。一度読了して、もう一度最初から真相を知りつつ読み直してみると、一見平和そうに見える場面の後ろでいったい何が起こっていたか、思い出して慄然とするに違いない。そしてすべてを知っていたのは、やはり、鐘たちだけだったのだ……。

◆ ゴシック世界のさまよいびと

 ピーターがあくまで人間の探偵役だとすれば、鐘たちはここでは、超自然の『神の指先』とも言える裁き手として存在する。ピーターがここで解決しうるのは、あくまで人間同士のちっぽけな盗みと暗号解読である。

 本来の主体である殺人事件は、その真相も、関係した人間も、わかったときにはすでに、村を襲った黙示録的な大洪水と(この洪水の避難シーンに聖書のノアの方舟についての言及があるのは偶然ではあるまい)、鋼鉄の裁き司として鳴りわたる鐘によって、人の手の届かぬところへ運び去られてしまっている。

「へえ!」ヘゼカイアは言った。「ほんとでのす、お若いかた、ほんとでのす、あれに忠実で、怒らさんかぎり。鐘はおのれがこと誰が引いちょるか、よう知っちょるのす。えろうもののわかった娘らじゃで、よこしまな人間には我慢がならん。待ち構えちょってやっつける」

 これは八番鐘(もっとも低い音の、大きな鐘)テイラー・ポールを鳴らすヘゼカイア老人の弁だが、ほかにも、鐘の持つ超自然的な雰囲気に登場人物が震え上がったり、実際に二度(事故とはいえ)人を殺しているテイラー・ポールの挿話が語られたりと、『鐘』の存在感は、『ナイン・テイラーズ』の中で人間以上のものを発している。

 ごく現代的で合理的な精神を持つはずのピーターでさえ、暗闇の中で沈黙する鐘たちの下で、目眩を覚えるのである。

 さらに登って鐘の真下に出る。そこにしばし佇み、薄暗がりに目が慣れるまで、黒い口をずっと見上げていた。やがて、鐘の覆い被さるような沈黙に息苦しさを感じた。わずかに眩暈を覚える。八つの鐘がゆっくりと重なりあい、自分の上にのしかかってくるような気がした。魅入られたように、それぞれの名を口にする。ガウデ、サベオス、ジョン、ジェリコ、ジュビリー、ディミティ、パティ・トーマスそしてテイラー・ポール。囁くような静かなこだまが四方の壁から生じ、梁の間でひそやかにやむかに思われた。ウィムジイはいきなり声を張り上げた。「テイラー・ポール!」すると音階上の倍音にたまたま一致したらしく、かすかな真鍮の響きが、遠く脅すように頭上で応えた。

 まるでゴシック小説の一場面のような描写である。実際、あとのほうでエメラルドを盗んだプロの泥棒から「人殺しのあとを追うように呼びかけてくる鐘が出てきて」という台詞が口にされ、ピーターもまた「僕も知っている。『助けて、ジュアン! 助けて、ジュアン!』と叫んだんだ」と頷くのだ。

 ちなみに最終章に、言及されているそのゴシック小説からの引用がかかげられているので、(『青銅の怪物に打ち殺されたのだった』 ──ジュリアン・セルメ『ロザモンド』)どんなストーリーか知りたくて検索してみたのだが、どうやらマイナーな作品らしくてひっかかってこない。どなたかジュリアン・セルメ、もしくは『ロザモンド』について何かご存じの方があったら、ご教示頂きたい次第である。

『鐘』以外にもしこの作品の主人公を求めるとしたら、「全体」と答えるしかないだろう。解説の中で巽氏も指摘なさっているが、怪奇的なゴシック趣味を持ち味にした探偵小説の大家であるカーはもちろん、死体を舞台装置として、一貫した謎解きプロットを貫き通すクリスティ、クイーンに比べ、この『ナイン・テイラーズ』──前作の『殺人は広告する』も含めて──セイヤーズが目指した方向は、「謎と錯綜する人間ドラマ、そしてそれを呑みこんでゆくもっと巨大な何か」を渾然一体として表す方向であるように思う。

 八つの鐘がかもしだす異様な雰囲気に加えて、ほかにもさまざまなゴシック的道具立てが詰めこまれている。首吊りに取り憑かれた頭の弱い青年、鐘楼に落ちていた不気味な文章を書きつけたメモ、墓場をさまよう光、不吉な言葉をわめくオウム。

「変ちきピーク」と呼ばれる頭の弱い青年は、どことなく横溝正史作品で、異様な言動で不安な影を残す者たち──『本陣殺人事件』の三本指の男、『八つ墓村』の濃茶の尼などを思わせる。彼自身はいくつかの目撃証言以外あまり事件に関係してこないが、それでも、執拗に首吊りにこだわり、ピーターたちが話している間にも首吊りと不吉な殺人の、夢とも妄想ともつかぬ言葉を憑かれたように発する彼もまた、『鐘』とその象徴する運命が鳴りひびくこの小説世界の空気を醸成するひとつの要素だと思う。

 ピーターは主人公、というより、語り手、一つの視点としてそこに立ち会うが、結局彼には、ほんとうには何かをすることはできない。自分を巻きこむ何か巨大なものにもてあそばれ、流されてもがきながら、真実をつかもうとする姿は、探偵小説の名探偵というよりは、むしろ普通小説の主人公に近いものがある。

 商業主義という怪物の腹に呑みこまれ、吐き出された『殺人は広告する』、八つの鐘たちが下した運命的裁きの目撃者かつ語り手、そして(バレのため伏せ)となった『ナイン・テイラーズ』。セイヤーズの興味が、ピーターという一人物からしばし離れ、全体小説とでも言うべきものを目指した作品として、この二作は記憶されるべきと思う。

 この作品を読むとき、いつも思い出す童謡がある。マザー・グースの詩の一編である。

 オレンジとレモン

 セント・クレメントのかねはいう

 おまえにゃ五ファージングのかしがある

 セント・マーティンのかねはいう

 いつになったらかえすかね?

 オールド・ベイリーのかねはいう

 おかねもちになってから

 ショアディッチのかねはいう

 それはいったいいつのこと?

 ステプニーのかねはいう

 わたしにゃけんとうもつかないね

 バウのおおきなかねはいう

 さあろうそくだ ベッドにつれてくぞ

 さあまさかりだ くびちょんぎるぞ

(谷川俊太郎訳)

 最後の一連の唐突な残酷さはいったいどういうことなのだろう。鐘が言っているのか、それともほかの何者かが言っているのか? いったい誰に? 何の罪で?

 いずれにせよ、ロンドンの主要な教会の鐘をうたったこの童謡でも、鐘という存在がどことなく人々に与えていた威圧感や恐怖感、畏怖のイメージがわかる。

 さあまさかりだ くびちょんぎるぞ。その通りに(首は切られていないが)悪人は鐘によって裁かれ、『目をかっと見開いて、まるで地獄を覗きこんだみたいな顔で』死んだ。

 セイヤーズがどこから鐘と鳴鐘術を小説の題材にしようと思ったか動機はわからないが(セイヤーズの暗号趣味が鳴鐘術を引きよせたのは疑いのないところにせよ)、もしかして、この童謡が発想の隅っこにでもあったのかな、と思うと、ちょっぴり楽しい。

◆ その他の人々──三人目のセイヤーズの自画像

 ところで、『ナイン・テイラーズ』には、前作『殺人は広告する』のミートヤード女史同様、セイヤーズの自画像であろうと思われる少女が登場する。赤屋敷の一人娘であり、短い間に両親を亡くしてひとりぼっちとなった少女、ヒラリーである。

 短い間に両親を亡くした彼女だが、めそめそと悲しみに落ちこむようなことはしない。自ら考えをめぐらし、旧弊な伯父に反発しながら、ピーターに励まされて果敢に謎解きに手をつける。奇妙なメモを発見してピーターに渡し、結果、暗号解読に一役買ったのは彼女である。作家志望で、自活を夢見、才気煥発で溌剌とした彼女は、まさに少女時代のセイヤーズを彷彿とさせる。

「でも、興味を持った方が現実味がなくなるでしょう? 現実味って言葉は違うか」

「身近でなくなる?」

「それだわ、そう言いたかったんです。どうやって起きたのか想像していると、だんだん、自分ででっち上げたことみたいに思えてくる」

「ふむ!」ウィムジイは言った。「そういう頭の構造をしているのなら、将来は作家になりそうだね」

「ほんとですか? まあ、不思議! だってわたし作家志望なんです。でも、どうして?」

「ものを創り出す方向に働く想像力を持っているからさ。それは外側へ向かい、持ち主はついには自分の体験を突き放し、自らの手で創り出した、自分とは別個に存在するものとして見ることができるようになる。運のいい人だ」

 私生活では辛いことも多かったセイヤーズだが、ピーターがヒラリーに与えたこの言葉は、彼女自身が迷い、迷い抜いた末にたどり着いた真実であったのかもしれない。不幸な恋愛生活や私生児の誕生など、心折れそうになるたびに、自分自身を支えてきた創作的本能を、ピーターはここで少女時代のセイヤーズの投影である少女に告げている。それはセイヤーズが、むかし、ヒラリーのようだった自分に向けて、また、今、ヒラリーのように感じている不幸な少女たちに向けて発した、励ましの言葉であったろう。

 さて、次回はいよいよハリエット・ヴェインが再び語り手の位置に立つ第九作『学寮祭の夜』である。しばしピーター個人の人格からは離れていたセイヤーズの筆が、二人の恋愛と人間的成長の面にふたたび戻ってくる一作でもある。

 二人のこんがらがった恋にも、ようやく決着がつくことになる。また、もっともセイヤーズ自身に近いキャラクターとして、ハリエットの目からセイヤーズの自作に関する姿勢の変遷の描写が読み取れるのも、貴重な読みどころであると言える。どうぞお楽しみに。

五代 ゆう(ゴダイ ユウ)

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 ものかき

 blog: http://d.hatena.ne.jp/Yu_Godai/?_ts=1286988042

 読むものと書くものと猫を与えておけばおとなしいです。ないと死にます。特に文字。

〔著作〕

『パラケルススの娘』全十巻 メディアファクトリー文庫/『クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー』ハヤカワ文庫JA全五巻/『骨牌使いの鏡』富士見書房 等

 書評をしていく予定の本:活字中毒なので字ならばなんでも読みます。節操なしです。どっちかというと翻訳もの育ちですが日本の作家ももちろん読みます。おもしろい本の話ができればそれでしあわせなのでおもしろいと感じた本を感じたまんまに書いていこうと思います。共感していただければ光栄のきわみです。

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