ピーター卿の成長を追う試みもいよいよ後半戦に入った。今回はシリーズ第六作、『五匹の赤い鰊』(創元推理文庫、浅羽莢子訳、1931)である。

◆ ちょっと休憩?

 とはいえ、実は、ピーター卿というキャラクターの変遷というこの稿の趣旨からすると、『五匹の赤い鰊』で語るべき事は、実はあまりない。個人的には、この作品はピーター卿シリーズの中でも外伝的な性質があり、ノン・シリーズでも成立する話が、たまたまピーターが主人公になっただけ、という気がしている。

 ともあれ、ストーリーである。場所はスコットランド、釣り師と画家が集まる小さな田舎町ギャロウェイ。ここで休暇を過ごしていたピーターは、嫌われ者の画家キャンベルと地元の画家が大げんかをする場面に出くわす。そして翌朝、キャンベルは崖の下で死体で発見される。一見、絵を描いていて転落したように見える現場だったが、調査したピーターは、『あるもの』の欠落から、この死は殺人であると断定する。容疑者は六人の画家、ウォーターズ、ストラハン、ファレン、グレアム、ガーワン、ファーガスン。五つの偽り(赤い鰊、RED HERRING)を見破り、真実の犯人にたどり着くのは誰か? 地元の警察長ジェイミソン、マクファースン警部、ディーエル巡査部長、ダンカン巡査、ロス巡査の五名にピーターが加わり、六つの推理が披露される。果たして真実を言い当てたのは……?

 実はピーター卿シリーズは何回も読み返している私だが、この巻に限ってはほとんど読み返していない。今回読み返したのでだいたい四回か五回目くらいではないか(ほかの巻は小口が黒くなるほど読み返しているのに)。

 それというのも、この巻は、解説でも語られているように、セイヤーズが『純粋パズラーという推理小説の形式への挑戦』として書かれたもので、その内容は見事なまでにパズラー型探偵小説の決まり事に沿っているからである。(いわゆる『読者への挑戦』ページまで入っている)。六人の探偵役がそれぞれの推理を述べたあと、回答編として殺人の過程が再現され、犯人が判明する。

 実を言うと私は純粋パズラーが苦手で(あくまで個人の趣味であって、パズラーが作品として劣っているというのではない、念のため)、そのため、この巻もあまり楽しめないのだと思われる。

 六人の登場人物がそれぞれに捜査を進め、それぞれに仮説を立てるので、読んでいてなにがなんだかわからなくなってくるし(論理的でない頭ですいません)、正直、かなり最初の方に出てくる『読者への挑戦』が、こう言うとなんだがかなりわかりやすい(アニメ『名探偵コナン』の『Next Conan’s Hint! 「○○」』並にわかりやすい)上に、物語の上でも問題の品がしつこいまでに強調されるので、「ああもう、だからアレだろアレ。さっさと明かしてくれよう」と推理合戦を読みながらイライラしてくるのである。

 ただ、ほかのパズラー型の作家の作品を読んでもそれほどイライラしないところを見ると、どうやら純粋に、セイヤーズはパズラー型の作家ではなかったということではなかろうか。現にカーやらクイーンは大好きな私なのだ。単にセイヤーズにそういうことは求めていない、というだけのことなのかもしれないが。

 ちなみに今回読み返してみて、あれ、ここ面白いやんと思ったのは、終わりの方になって殺人を再現する際、ノリノリで役を演じる警察のみなさんとピーターのやりとり、特に死体役をやらされたジェイミソン警察長の災難っぷりであった。殺害現場にたどりついてやれやれと弁当を食べていたら、殺された男の幽霊を見たと思い込んだ地元の若いのが悲鳴を上げて逃げていったとのエピソードはつい噴きだしてしまう。

 やっぱり私にとってのセイヤーズの魅力は、登場人物たちのユーモラスなやりとりと、そこから徐々に浮き上がってくる事件の輪郭であるらしい。そして何よりも、ピーターという主人公。ピーターが主人公ではなく、通りすがりのノン・シリーズな主人公でも成立する物語である『五匹の赤い鰊』は、セイヤーズとピーター卿に何を求めるかによって、評価の変わってくる作品だと私は思う。

◆ ピーターとファイロ・ヴァンス

 さて、今回はピーター卿というキャラクターについて語るべきことはあまりないので、前から一度やってみたかった、ヴァン・ダインの探偵ファイロ・ヴァンスと、ピーター卿とのキャラクターの比較をしてみたいと思う。

 ファイロ・ヴァンスはみなさんご存じの通り、評論家ウィラード・ハンチントン・ライトが、S・S・ヴァン・ダインの筆名のもと、さまざまな推理小説を研究した上で生みだした探偵である。初登場は『ベンスン殺人事件』(創元推理文庫、井上勇訳、1926)。セイヤーズの『誰の死体?』が1923年なので、三年後の登場ということになる。

 ヴァン・ダインはファイロ・ヴァンスの創造にあたり、二千冊にも及ぶ推理小説を読破し、それらを評論家としての目で分析・総合した上で自らの探偵役を作りあげた。おそらくその二千冊の中には、探偵小説の始祖であるポオのデュパン、ホームズはもちろん、三年前に海の向こうで出版されたピーター卿ものも入っていたと思われる。

 またそう思わせるほど、ファイロ・ヴァンスとピーター、およびデュパンとの類似点は多い。ヴァンスの事件について探偵役とは別の語り手が存在するのはデュパン、およびホームズよりの伝統だろうし、アメリカにあってヴァンスの正体をあきらかにせず、なにやら貴族めかして異国風の偽名を名乗らせ(さらに「メディチ家の肖像画のあるものにみる口に似て」「かすかに英国なまりがあり」と貴族めいた雰囲気を強調し)、「現在はイタリアに居住」「正体がわかる人もいるだろうが沈黙を守ってもらいたい」とさらに秘密めかした追い打ちをかける。どれも、アメリカでは社会上存在させられない『貴族』という身分を、ヴァンスに付加しようとしたヴァン・ダインの努力であると、私には思われる。パリを舞台にしたデュパンは勲爵士であり、ピーターは言うまでもなく伯爵の御曹司である。これらの魅力的な設定を、ヴァン・ダインとしては、どうしても取り入れたかったのではあるまいか。実際、その貴族的な雰囲気と、会話に外国語やちょっとしたうんちくを挟み込むディレッタンティズムが、貴族のブランドに弱いアメリカで受けたのだから、ヴァン・ダインとしては大当たりだったと言うべきだろう。

 しかもここに、ヴァン・ダインは、評論家らしい几帳面さでさまざまな「ディレッタント的趣味」を重ねていく。その列記ぶりときたら、ちょっと盛りすぎではないかと心配になるくらいである。

 いわく、美術万般にかけての見識を持ち、かつ絵画や古美術品、彫刻などあらゆる美術品の収集家、軽口を叩く皮肉家だがまれに見る個人的魅力を持ち、またドン・キホーテ的な気取り屋でもある。流行を逃さぬおしゃれで音楽好き、社交的だが社交好きではなく(この辺矛盾してないかと思うが)、きわめて知的で鋭い頭脳を持ち、あらゆる学問、特に心理学を深く研究し、分析的かつ哲学的思考をし、ポーカーの名手で、すばらしい美貌と六フィートに少し足りない長身、典雅で頑健な肉体の持ち主、フェンシングもゴルフもポロもきわめて人に優れている、ただし歩くのは嫌いで百ヤードといえど歩こうとはしない(ここはデュパンの内向性を取り入れたのだろうか)。

 まだあるが以下省略。ふう疲れた。……しかしヴァンスの部屋に置かれているという美術品のすんごいてんこ盛りぶりを見ると、現実的に考えてこれ、アパートの中足の踏み場もないんじゃないかと思うんですが、どうなんですかヴァン・ダイン先生。

 あと今回読み返していてはじめて気づいたのだが、ヴァンスにはなんとイギリス人執事もついている。カーリーという名で、「執事であり、部屋男であり、家令であり、時によっては特別料理人でもある」そうだから、こちらとしては嫌でもバンターを思い出さずにはいられない。

 ただ、カーリーはバンターほど表に出ず、(何せ読み返すまで存在に気づいてすらいなかったくらいだ)単に時々名前が出るだけなので、これもまたずらっと並んだ「貴族的」記号のひとつだろう。もともとピーターとバンターの関係ややりとりは、当時人気だったP・G・ウッドハウスのジーヴスものや、それ以前に演芸場で人気だった「間抜けな主人と賢い執事」の定型を持ってきたものだと言われているが、さすがにそこまではヴァン・ダインも読み込んでいなかったのだろうか。

 こうして、表面上はいろいろと似た点のあるファイロ・ヴァンスとピーターだが、そのもっとも大きな違いは何か。 

 それは『内面の不在』であると、私は断言してしまいたい(ちょっと弱気)。

◆ 「推理装置」としてのファイロ・ヴァンス

 ピーターは当初、セイヤーズのコピーライターとしてのマーケティングにより生みだされた「売れそうなキャラ」であり、「内面を持たないお人形」として誕生した、という意見は、この連載の一回目で述べた。

 しかし、セイヤーズの意図とはうらはらに、ピーターは登場当初からシェルショックに悩み、事件の進展に動揺する内面性の持ち主であった。また貴族という身分や文学・美術趣味、洒落者、音楽好き、スポーツマン、美食家などの設定も、物語の中できちんと生かされていた。(『雲なす証言』でのマノン・レスコー、『毒を喰らわば』のオムレツ、『不自然な死』の帽子、『殺人は広告する』のクリケットなど)

 そして事件を解決するごとに良心の呵責に襲われ、精神的沈滞に陥る癖。たとえ悪人であろうと、逮捕させればその心はやはり傷つかずにはおかない繊細さを持つ。

 これはファイロ・ヴァンスには絶対にないものである。名作『僧正殺人事件』を今回読み返してみて痛感したが、あのラストは、もし探偵がピーターであれば絶対にやらなかったろう、というか、できなかったろう。

 たとえ悪人であっても、また自ら手を下すのでなくても、犯人が死刑になったり自殺したりすることに深く傷つくピーターには、犯人を騙して自死するように仕向けることなど、絶対にできないはずである。ましてその後、まるで当然のことをした、うまくやったと得々とするようなふるまいは、ピーターにとっては理解の外ではないか。

「ぼくは○○(※犯人名のため伏す)のような化物を、あの世に送りつける手伝いをするのに毒へびを一撃でもってたたきつぶす以上の良心の呵責は感じないよ」

「しかし、これは殺人だ」とマーカムは憤慨にたえぬ面持で叫んだ。

「ああ、疑いもなくね」とヴァンスは浮き浮きとしていった。「そうとも──むろん。実にふらちきわまる……ねえ、うっかりすると、ぼくは逮捕されるのかい」

『僧正殺人事件』

 推理小説の形式としては、確かにこれはすっぱりと話を終わらせるにとてもいいやり方かもしれない。ややこしい後腐れもなく、醜聞も起こらず、実に綺麗で始末がいい。犯人が自殺、あるいは死んで終わる、という方法は、実際、ミステリではよく見かける結末である。二千巻の推理小説を渉猟したヴァン・ダインが、採用するのは当然だろう。

 しかしひるがえって見て、実際に人間として見た場合、このような人格の持ち主は可能だろうか。可能であっても、共感できるだろうか。

 少なくとも、セイヤーズにはできなかった。シリーズの終盤になるが、ハリエットとピーターの口をかりてセイヤーズはこう述べている。

「そうですね──理想的な探偵ならそういう場合、どうするんですか、ヴェインさん?」

「職業上の作法は、自白を引きだしたあと書斎に二人分の毒杯を運ばせろ、となるでしょうね」

「規則に従えば簡単なのが、おわかりいただけましたね」ウィムジイは言った。「ヴェインさんは何の気の咎めも覚えておられない。僕の評判を損なうよりはきっぱりと抹殺なさる。しかし、いつもそう簡単とは限りません」

『学寮祭の夜』

「こっちへ来て僕の手を握ってくれ。僕の仕事は最後のところでいつもひどくみじめな気持になるんだ」

『忙しい蜜月旅行』

 推理と論理にのみ特化し、人間的な興味はひとまず脇へ押しやる、というミステリの読み方を、私ももちろん否定はしない。論理的パズルもまた、ミステリの楽しみのひとつに違いないからだ。

 そういった意味で、ファイロ・ヴァンスはまさにハリエットの言う「理想的な探偵」である。彼は推理し、論理をすすめ、犯人を指摘する。ヴァン・ダインが読んだ中にはおそらく、ジャック・フットレルのヴァン・ドゥーゼン、『思考機械』もあったろう。まさにそのように、ヴァンスは作者のプロットの中、推理する機械として、道徳や感情に縛られず、何の気の咎めもなく、悪人をきっぱりと抹殺し、拍手を浴びて微笑みつつ鮮やかに退場する。規則通り、なにもかも規則通りに──。

「形体と構成の原理を完全に理解している彫刻家は、彫像の必須の部分がどこか欠けておれば、それを正確に指摘することができる」とヴァンスは説明した。「それと同じに、人間心理に通じている心理学者は、一定の人間行為のなかに、欠けた要素があれば、それを指摘することができる。(中略)美的構成の法則を心得ている有能な芸術家なら、正確にもとあったとおりに、あの腕は復元できる。そのような復元は、たんに脈絡の問題にすぎない──欠けた要素を、既知の要素と合致、調和させれば、それで足りるのだ」

『ベンスン殺人事件』

 これは「理想的なミステリ」の中の「理想的な探偵」としては、正しい意見かもしれない。そこでは、すべては規則通りに収まるべきところへ収まり、ややこしい感情や道徳や良心も、パズルの一ピースとしてきっちりと整理される。

 しかし、実際の芸術家、あるいは美術好きにこの意見を言えば、猛然と反論されるのではあるまいか。百人の絵描きがいれば、百通りの絵ができる(皮肉なことに、『五匹の赤い鰊』では、まさにその点が焦点となっている)のであり、当然ながら、同じ彫像(ここではミロのヴィーナス)を復元するにしても、芸術家ひとりひとりに独自の法則があるのであって、正確に同じものなど出来てくるわけがない。少なくとも、ヴァン・ダインがあれほど紙数をついやして述べたほどの、ヴァンスが美術好きであり審美眼の持ち主であれば、こんな台詞は間違っても吐かないだろう。

 ヴァンスに内面がない、というのは、こういうあたりにも現れている。初登場時にしつこいほど強調されたさまざまな設定は、実はほとんど物語に関係しない。『僧正』の前出のシーンの前に、部屋にある美術品を見ていきなり声をあげたりするが、意図はあったにせよ少々唐突で、しかもべつだん、美術品でなくてもいいようなものである。

 非常に論理的で分析的な頭脳を持つ評論家が、ミステリの法則を吟味した上で生みだした探偵、ファイロ・ヴァンス。魅力的な設定をたっぷり盛り込まれ、論理と法則にのっとって動き回る彼は、しかし、それ以上の内面を持たなかった。設定は設定でしかなく、描写ではなかった。あれだけ詳細に述べられたヴァンスという人物の人となりは、紙に書かれたただの説明にすぎない。作者の構築したプロットの中で、ミステリという形式に従って動く彼には、むしろ、内面など不要なのである。

 しかし、『小説』、あるいは『ドラマ』を、『ある人格が経験を経て変化し、成長していくさま』としてとらえる(どっちかというと私はこちら派だ)場合、形式にのみ従い、内面を持たない主人公は、いつか行き詰まりを迎える。内面を持たない人物は、変化を知らず、ただ出来事にのみ反応して動きつづけるしかないからである。

『僧正』を頂点にして、その後、ヴァン・ダインの後期作品がしだいに下降線をたどるのは、純粋パズラーの傑作を生みだすことがいかに難しいかの証明であり、また、内面のない主人公ファイロ・ヴァンスが、いつかたどりつく結末であったのかもしれない。

 また、ピーター側でも、彼が人間としてひとつの到達点にたどりつく『忙しい蜜月旅行』でシリーズの(一応の)完結を見るのも、私には必然だったように思える。

 この最終作のラストシーンで、ピーターはついに他人に対して本当に心を開きゆだねることを知る。ハリエットとの恋の完成によって、彼はついに弱さを持つことを恐れない、一個の人間として完成を見るのである。

 もしこれ以上つづけても、むしろ蛇足であり、それこそ単なるキャラクター小説にしかならなかったろう。次作(Thrones, Dominations)を書きかけて、結局未完のままにしたセイヤーズの作家的本能は、実は正しかったのではないだろうか。

 ずいぶん長くなってしまったので、ついでにやろうと思っていた「コージー作家に登場するセイヤーズ作品とお遊び」はまたいつか。

 あ、最後にもう一度念押ししますが、今回はヴァンスとピーターの「キャラクターとしての比較」をしたのみで、ヴァン・ダインとセイヤーズのどちらが作家として優れているかという話ではないので、どうぞご了解を。どちらも優れた作家であり、作品であることは論を待ちません。もし文中でどちらか優劣をつけるように読める部分があったとすれば、それは単に筆者の個人的な好みにすぎないとして、ご看過ください。

五代 ゆう(ゴダイ ユウ)

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 ものかき

 blog: http://d.hatena.ne.jp/Yu_Godai/?_ts=1286988042

 読むものと書くものと猫を与えておけばおとなしいです。ないと死にます。特に文字。

〔著作〕

『パラケルススの娘』全十巻 メディアファクトリー文庫/『クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー』ハヤカワ文庫JA全五巻/『骨牌使いの鏡』富士見書房 等

 書評をしていく予定の本:活字中毒なので字ならばなんでも読みます。節操なしです。どっちかというと翻訳もの育ちですが日本の作家ももちろん読みます。おもしろい本の話ができればそれでしあわせなのでおもしろいと感じた本を感じたまんまに書いていこうと思います。共感していただければ光栄のきわみです。

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