さて、ピーター・ウィムジィ卿シリーズもいよいよ後半戦。

 前期の比較的軽くて明るい作品とそれに見合ったキャラとして活動していたピーターも、『毒を食らわば』で出会ったハリエット・ヴェインとの恋をきっかけに、作品の重層化(と、それに伴う長大化)と足並みを並べるようにして、しだいに人間らしい存在を感じさせる描写がちらほらと浮かび上がってきた。

 そして第七作、『死体をどうぞ』では、問題の女性、ハリエットが、まず中心視点人物として登場する。

● 探偵作家、死体を発見す

 とりあえずは、ストーリーを。

『毒を食らわば』で着せられた情人毒殺容疑から解放されたハリエットは、(ピーターのけなげなアタックをものともせず)売れっ子推理作家として忙しい日々を過ごしていた。ところが仕事の息抜きとして出かけた徒歩旅行の途中、海に突き出た岩の上で、喉をかっさばかれた男の死体を発見してしまう。潮の具合からするに、警察に知らせようにもそのころには死体は波にさらわれてしまうことは確実。とにかく写真を撮り、できるかぎりの観察と証拠品を集めたハリエットは、保養地ウィルヴァークムの警察に連絡し、しばしそこに留まることになる。ハリエットが連絡した新聞記者から情報を耳にしたピーターも駆けつけ、二人は捜査を開始するが、はじめ自殺かと思われた事件は、少しずつおかしな展開を見せ始め……。

 ピーター卿シリーズ後期の本格的な開始は、この『死体をどうぞ』からである、といってもいいと思う。前作、『五匹の赤い鰊』では、スタイルのために多少ストーリーや人物が混乱していた感があるが、『死体をどうぞ』ではそれがずっとこなれた形になり、推理はどんでんまたどんでん、進んでは戻り行っては詰まり、の繰り返しが、探偵役をピーターとハリエットの協力しあう二人に絞り込んだことによってよりわかりやすくなった。この巻の解説者である法月綸太郎氏は、前作に共通するパズラー的謎解きの絶妙さとともに、

 本書のストーリーテリングに見られる際立った特徴は、事件に関するディスカッションのほとんどを、ピーター卿とハリエットのユーモラスな掛け合いによって処理しているという点なのだが──(中略)──場面によっては、ハリウッドのスクリューボール・コメディそこのけのギャグ合戦状態と化すのだから。

(本書p615・解説)

 もともとユーモラスな味わいを持つセイヤーズの作品だが、確かに今回はやりすぎではないかと思うほどコメディ分が強い。法月氏が解説のあとのほうで挙げられているように、『第16章の途中でいきなり挿入される戯曲形式のダイアローグ』など、初読の時はいったい何事かと思った。

 そもそもハリエットが死体を発見し、誰かに連絡しようと奮闘する道のりからして、シチュエーション・コメディの連続である。その後もピーターが登場するや、ことあるごとにさりげなく結婚を申し込んではお断りされる繰り返しギャグ、はたまたありがちな冒険ロマンスの道具立てについてのパロディ(しかもこれがちゃんと謎解きに関係してくるあたり実に恐るべし)、なんと役者のスカウトを受けてしまうピーター、前述の戯曲、というかコントの台本そのままのピーターとハリエットの会話、ほんの端役ながら実にいい味を出しているベルフリッジ大佐とのやりとりなど、笑える場面がてんこ盛りである。

 しかしあくまで軽く、軽妙にギャグでとばしていくストーリーの中に、一本の緊張の糸が走っている。ピーターとハリエットの関係である。

● ハリエットの気持ち

 ピーターの求婚を繰り返し拒み、贈り物を突き返し、愛情表現もさりげなく受け流してしまうハリエットだが、なかなかどうして、ピーターのことはまんざらでもない──というより、とうにもう恋に落ちてはいるのだが、本人がそれを認めたくない、といった感じに見える。ハリエット視点で語られるこの巻では、そんなハリエットの複雑な想いがあちこちにかいま見える。

「裸になると、思ったよりいい体格だわ」ハリエットは内心、率直に認めた。「気がつかなかったけど肩幅もあるし、ありがたいことに、ちゃんとふくらはぎが発達してる」

「短い時間だが、あなたをひとりじめできる今──」

「なあに?」ハリエットは尋ねた。葡萄酒色のドレスが似合っていることはわかっている。

 (中略)

「だから言ったでしょう?情熱を見つけましたね」

 そしてすべるように器用に離れていき、残されたハリエットは赤くなった。

 中略箇所はさすがに長くなるので省いたが、ハリエットの着ている葡萄酒色のドレスはピーターのリクエストした色。「だから言ったでしょう?」云々の台詞をささやいたのは、これより前の場面でハリエットと踊った男性ダンサー。「心が足と共に踊るようになれば、すばらしいものになります」と言っていた、その相手が現れましたね、というわけだ。ハリエットが思わず赤くなるのもわかるというもの。目端のきくジゴロには、ハリエットが実はとうにピーターに恋していることなど、お見通しということか。

 そして踊っている最中のハリエットは夢心地になったりつまづいてすねてみたり、なだめられてみたり、実にかわいらしい。ピーターが翌朝、「数週間ぶりにいい気分で」いたのも無理はない。

 ハリエット・ヴェインもピーター卿と葡萄酒色のドレスで踊った。ウィムジイの考えでは、女が衣服の購入に際して男の助言を入れるのは、その男の意見に無関心ではない証拠である。(中略)だがハリエットがそうすることは予測していなかったため、アバディーンの街路でソヴリン金貨を拾いでもしたように、とてつもなく驚き喜んでいた。あらゆる生物の雄の例に洩れず、ウィムジイも根は単純だったのだ。

 だが二人のつかの間の甘い雰囲気は、つねに事実を直視し、自分と自分の心に正直でしかいられないハリエットの落とした爆弾のために、危うい均衡を破られてしまう。

● 恩という重荷、すれ違う心

 朝食後、作戦会議のためハリエットのホテルを訪ねたピーター。二人で話し合いながら被害者、関係者、容疑者とアリバイ、動機などのリストを作っていくうちに、ハリエットが投下した爆弾が、一見平穏だった二人の関係に、たちまち雷鳴を鳴り響かせる。

「そうね」ハリエットは眉をひそめた。そして──。

「これは考えてみたことある?」と、少し震える声で尋ねた。ちょっとの間、書き殴る。

 ハリエット・ヴェイン

  〈特 筆 事 項〉

1.個人的特徴。嘗て愛人殺しで裁判にかけられ、辛うじて無罪となった。

(中略)

7.パーキンズにすぐに疑われ、警察にもおそらくまだ疑われているらしく、部屋を調べられた。

 ウィムジイの顔に怒りが浮かんだ。

「ほんとなのか?」

「ええ。そんな顔しないで。警察とすれば、ほかにどうしようもないでしょう?」

「アンプルティにひとこと言ってやる」

「やめて。そのほうが恥だわ」

「だって、ばかばかしいにもほどがある」

「そうかしら。わたしのことばかだと思ってるの? あなたがなぜ、取るものも取りあえず飛んできたのか、わかってないとでも思った? 親切じゃあるし、感謝すべきなんでしょうけど、だからって喜んでると思う?」

 ウィムジイが血の気の失せた顔で立ち上がり、窓に歩み寄る。

 このあとに続く苦い言葉の応酬と、双方の辛くもどかしい気持ち、意のままにならない感情の爆発、お互いに寄せる心と相反する自らの自尊心のぶつかり合いは、この作品が全体的にユーモアに彩られていればいるだけ、痛々しい傷口のように血を流してくっきりと浮かび上がる。

 ピーターがはからずも、「自分の何より真剣な気持ちを、喜歌劇の中の何かみたいに扱っているのはどうしてだと思う?」と疑問を投げかけているのは、これまでしばしば「喜劇役者」として動きつづけてきたピーターというキャラクターにとって、自己を否定するに等しい言葉だ。

 作品中で気軽(に見せかけて)発されてきた結婚の申し込みが軽ければ軽いだけ、ついに吐露されたピーターの真情は重い。

「恩! 冗談じゃない! 僕は永久に、そのけがらわしい言葉の響きから逃れられないのか?」

『毒を食らわば』でハリエットを救ったことが、ここまで彼女をかたくなにさせねる原因になるとは、実に皮肉である。貴族であること、金持ちであること、有名人であり命の恩人であること──本来ならプラスに働くはずのさまざまなことが、二人の間ではマイナスになってしまうのだ。

 ハリエット自身もわかってはいる──自分の意地がピーターを苦しめていること、彼に心惹かれながらも、命を救われたという恩が逆に負い目となって彼女の自立心にのしかかっていること。

 自分が理不尽で酷いことを言っていると自覚するからこそ、ハリエットの悩みは深い。そしてあくまで誠実で、正直であろうとするピーターに寄せる心が膨らむほど、彼の望むものを与えてやれない自分にほとほと愛想がつきてしまう。

 ピーターもまた、自分ではどうにもできない「貴族で金持ちでハリエットの恩人」という立場に苛立っている。二人の自己嫌悪は根深く、互いに想えば想いあうほど、口や行動は逆に相手を傷つけてしまう。

● そして、ピーターの真情

 ほとんどがハリエット視点で進められ、ピーター視点の場合でもピーターの内面に関する描写はほとんど出てこない作中で、この二人の口論シーンで表出するピーターの内面は血のにじむほどに痛々しい。新聞記者から聞いた、とだけ気軽に告げられていたピーターのここへ来るまでの真の経緯を、この場面で読者ははじめて知ることになる。

 ハリエットも読者も知らない裏側で、ピーターはすでにハリエットがまたもや苦境に陥ったことを知り、警察に疑われていることも知っていた、そして愛する女を守るために、あえて自分のいちばん痛む部分をさらけだすことを選択したのだ。

 最後に、悪い状況を打破する最良の方法は開き直り──ハリエットが用いたあの言葉──だと決断したこと。たとえそれが、自分の気持ちを人前にさらけ出し、この傷つき世をすねている女との間に築くべく慎重このうえなく努力してきた、信頼という繊細な建造物をこっぱみじんにすることを意味しても。

『何も言わないまま、ハリエットの荒れ狂う瞳に、自分の夢の崩壊を見ていた』というナイフを打ち込むような一行に、ピーターの苦悩が見て取れる。

 ピーターの真の内面描写がほぼこの場面だけ、というのも、効果を上げているだろう。全体がギャグで彩られたこの作品はピーターが言ったとおり「喜歌劇」であり、ピーターはなんとかしてその中で、道化役者を演じきろうとしていたのだ。

 しかし、追いつめられて道化役者の仮面を脱ぎ捨てざるを得なくなったその瞬間、押し込められていた彼の繊細な心は噴出する。『僕はただ、普通に正直であってほしいだけなんだ』と呻く彼は、すぐ近くにあるはずなのに手に入らないハリエットの心の前で、苦しんでいる。そしてハリエットもまた、ままにならない自分の心を扱いかねて苦しんでいる。

「ばかね! ああ、こんなの不公平だわ。いつだってわたしを笑わせられるんだもの。戦うなんて無理よ──もうくたくた。あなたは疲れるってことないの? やめて。放して。押し切られてたまるもんですか。よかった! 電話だわ」

 と、タイミング良く──それとも悪く──かかってきた電話のおかげで辛い言葉の投げつけ合いは終わり、ピーターは捜査へと(逃げるように?)飛び出していき、ハリエットも自分の原稿に戻ろうとするのだが、身が入らず、『益体もない夢想に耽り始め』てしまう。

『わたしを助けるためにここまでしてくれるなんて、ほんとにすてき』

 こうして自分は、悔やむ色もなく、この恩というおぞましい重荷を不運な娘にくくりつけている。いずれにせよ、ジャックもベティも揃って偽善者だ。ほんとの作業は全てロバート・テンプルトン(※ハリエットの著作に登場する名探偵)がしていることくらい承知している。

 さきのピーターとハリエットの投げ合った血を流す言葉の応酬にくらべて、ハリエットの登場人物たちがかわす言葉のなんとうすっぺらく響くことだろう。ジャックとベティ、というまるで英語のリーダーの会話例の人物のような名前も。

 ありきたりを形にしたジャックにもベティにも真の中身などありはしない、しかし、シリーズ開始当初のピーター卿も、またそのような『お人形』のひとつとして生み出された。ハリエットが書いて苦いため息をつく中身のない会話は、作家として成長し、人物の深みを覗くことを覚えた、セイヤーズの自己言及だろう。

 こういった創作に関するハリエット=セイヤーズの変化の過程は、第九作『学寮祭の夜』で、ハリエットの成長、そしてピーターへの気持ちの変化と整理とともに、解決を見ることになる。

 しかし道はいまだ途中。事件の解決後、人間の色と欲渦巻くウィルヴァークムから逃げ出すように、二人はロンドンへ帰っていく。二つの繊細な心には、まだ自分のもっとも痛む部分を晒せるほどの強さは育っていない。それにはさらに、あと二作(『学寮祭の夜』『忙しい蜜月旅行』。ほかに『殺人は広告する』『ナイン・テイラーズ』が入るが、この二作にはハリエットは登場しない)が必要になる。

 ハリエットの登場は人形だったピーターに命を吹き込み、真の魂を持たせた。だがそれは、信じられないほどのの重荷をハリエットとピーター、双方に背負わせることでもあった。

 ピーターがその辛い自己成長の道を歩みきったとき、彼の物語は終わる。後期の重厚な作品群を読み直しながら、さらにその足取りを追っていきたい。

五代 ゆう(ゴダイ ユウ)

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 ものかき

 blog: http://d.hatena.ne.jp/Yu_Godai/?_ts=1286988042

 読むものと書くものと猫を与えておけばおとなしいです。ないと死にます。特に文字。

〔著作〕

『パラケルススの娘』全十巻 メディアファクトリー文庫/『クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー』ハヤカワ文庫JA全五巻/『骨牌使いの鏡』富士見書房 等

 書評をしていく予定の本:活字中毒なので字ならばなんでも読みます。節操なしです。どっちかというと翻訳もの育ちですが日本の作家ももちろん読みます。おもしろい本の話ができればそれでしあわせなのでおもしろいと感じた本を感じたまんまに書いていこうと思います。共感していただければ光栄のきわみです。

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