大作『ナイン・テイラーズ』を経て、ピーター卿シリーズもあと二作を残すばかり。(創元推理文庫版ではラストである)この『学寮祭の夜』(創元推理文庫、浅羽莢子訳、1935)で、いよいよピーターとハリエットの関係はひとつの山場をこえる。

 とにかくまずは、いつものように作品の紹介から。

『死体をどうぞ』事件ののち、長い旅行に出たあと、引っ越しをして新居に移ったハリエット。だがそんなハリエットのもとに、かつての友人から、母校オクスフォード大学シュローズベリ学寮においての学寮祭への招きが送られてくる。病気を抱えた友人の懇願に負ける形で出かけたハリエットは、しばし懐かしい人々と出会い、自分の仕事についてあらためて考えることとなる。

 ロンドンに戻ったハリエットは精力的に仕事をこなすが、シュローズベリ学寮での出来事がしばしば頭を悩ませ、なんとか関係を断とうと努力しているはずのピーターとも、言い出す機会が持てないままにずるずると日々が過ぎていってしまう。

 だが、冬の初め、シュローズベリ学寮からもたらされた緊急信号によって、ハリエットは事件の渦中におぼつかない探偵役として足を踏み入れることになる。シュローズベリ学寮に口汚い手紙や落書きを残す何者かが存在しており、その行動を阻止するために、恩師たちから探偵作家であるハリエットに助けが求められたのだ。

 こんな時に必要なピーターは、なにやら事件が起きたのか、外国へ行ってしまっている。ほかにとる手段もなく、愛する母校のために、ハリエットは急遽シュローズベリに戻り、暴れ回る姿なき犯人を阻止するために奔走することとなるのだが……

◆「ピーター卿小伝」に見る、生身の人間ピーター

 ハヤカワのポケミス版『忙しい蜜月旅行』の冒頭にも収録されている、「ピーター・ウィムジイ卿小伝」(ピーターの伯父ポール・オースティン・デラガルディーの手記という形を取った、誕生時からこれまでに至るピーターの伝記)が、原典ではどちらの巻に付されているものなのか恥ずかしながら私は知らない。

 しかし、推測ではこちら、『学寮祭の夜』の冒頭に置くほうがふさわしく、物語の構成にも叶っていると考える。ポケミス版はシリーズから独立した形で一冊だけ訳出されており、探偵役である「ピーター・ウィムジイ」とヒロイン「ハリエット」が、どのような人物で、どういう経緯をたどって結婚したか、を簡単に紹介するためにこの部分が取りだされて最初に置かれた、と見てよいと思う。

 それは今巻の、横井司氏による解説にも指摘されている。『ピーターを、肉体を持った一個の人間として描写し直すこと』を目的にして、これまでの彼の人間としての生育歴を問い直す必要があったのはこちら、『学寮祭の夜』のほうと見られるからである。

 ハリエット登場の「毒を食らわば」でごく軽く口にされていた「バーバラという女性への失恋」が、この伯父の手による小伝では、若いピーターにとって「戦死を念じて」戦場に戻るほどの深い傷であったことが明かされる。戻った戦場でピーターは爆弾をくらって塹壕に生き埋めになり、それが原因で(一巻からすでに言及のあった)重度のシェルショックに陥る。しかし、もと軍曹であったバンターの帰還と従僕としての献身的な務めで、少しずつ回復を見、おなじみのピカデリーのフラットに居を構えるようになる。

 この「ピーター卿小伝」のもう一つの役割は、あまりにも大きな乖離となってしまったシリーズ前半の「喜劇役者ピーター」と、後半の、人間としての厚みと内面を備え始めたピーターとの溝を埋める意図にもあるように思う。

 大戦直後のピーターについては、「気持ちのいい率直さがかけらもなくなり、母親と小生も含めた全ての人に心を閉ざし(中略)実際の話、完璧なまでの喜劇役者になってのけたのです」と断言される。これはまさに、『誰の死体?』で描き出された躁状態のような道化役者ピーターの姿である。

 伯父が見るに、軽薄を装いながらも人に心を閉ざし続けたピーターは、事件を解決するという知的な楽しみと、壁の奥に隠した繊細な心との間でいつも引き裂かれていた。しかし、『雲なす証言』で兄を絞首台から救ったことが彼の仕事に自信を与え、おかげで、「今は、自分の『趣味』が立派に社会の役に立つ仕事であることを認め、世事にも興味を持ちだし、外務省の要請下、ささやかな外交活動もときおり請け負っています(この一文が、ハリエットの勘違いといきなりこの巻で出てくる、「事件ではなく、外務省の仕事で海外へ行かされるピーター」の、読者への抗弁となっている)」という。

 老いたる遊び人であり、世間の裏も表も酸いも甘いも噛みつくした粋人である伯父は、この巻の軸となるハリエットとの恋愛関係についても、当時の男性としては実に先見的な意見を甥に伝えている。

 先方は結婚を拒みました。骨のある女性なら当然です。恩と卑屈な劣等感は結婚の基盤にはなり得ません。最初から立場に嘘があるのです。(中略)相手の娘は頭がよく、骨があり、正直です。ピーターが教えなくてはならないのは人の厚意を受けとることですが、与えることを学ぶより、こちらのほうがはるかに難物です(※そして、同じことはピーター自身にも言えることが、次作『忙しい蜜月旅行』で明らかになるのだが、それはまた次回──五代)。この場合、自由意志による同意以外の同意はあり得ないことは、ピーターも悟っています。

 全体的に見て、この「ピーター・ウィムジイ卿小伝」が、『学寮祭の夜』で、ピーターとハリエットが迎えるラストシーンへ続く道を整えるために書かれたものであるのは間違いない。自由意志による同意。言葉で言うことは簡単だが、ハリエットもピーターも、そこにたどり着くまでには、作中時間にして五年の年月と、シリーズ中最厚のこの『学寮祭の夜』を通しての彷徨が必要だったのである。

◆恋愛小説としての『学寮祭の夜』

 前置きについての話がいきなり長くなってしまった。本編についての話に移ろう。

 ピーター卿シリーズといいながら、この巻では、探偵役(というより、事件の渦中で証拠集めと犯人の追及に奔走し、また翻弄される)はずっとハリエットである。シリーズ探偵であるピーターが実際に事件に踏みいってくるのは、分厚い本のなかばもすぎたころ、700ページのうち400ページを超えたあたりでしかない。

 しかも事件はシュローズベリの人々のあいだで過ごすハリエットの日々や、あれこれの人間関係、何かのきっかけで噴出するピーターへの複雑な想いといった出来事のあいだを縫って起こり、しかも単なる怪文書やいたずらといった(一見)軽く見える事件の連続のため、これまで、抄訳でしか日本に紹介されなかったのは、確かに仕方のない面もあるかもしれない。探偵小説、名探偵が死体を前にトリックをあばき、快刀乱麻の推理を述べる「推理小説」を期待する向きには、確かに前半のシュローズベリの人々の群像や、恋と創作に悩むハリエットの独白など、長たらしいだけの退屈なものだろう。

 しかし白状すると、私にとって、『学寮祭の夜』は、この世で一番理想的な推理小説、かつ、恋愛小説なのである(ああ言ってしまった)。

 ハリエットが自分と同じく、小説を書く女性であることも思い入れのひとつとしてあるだろうが、感情に溺れることを自分に許さず、努めて理性的、実際的に、学究的な態度で事態の収拾に奔走するハリエットは、実に爽快で気持ちがいい。

 対するピーターも、ユーモアは失わないながらもふざけた態度は影をひそめ、これまでキャンディのようにぽんぽん投げだされてきた結婚の申し込みも、ラストシーンに至るまで(少なくとも面と向かっては)ただ一度も口にされない。

 だからこそ、二人がたどりつく抱擁シーンはそれは素敵で、いつか結婚を申し込まれるならこんなふうに言われてみたいなあ、などと、身の程知らずにうっとりしてしまうのである。ああ本当に、別に貴族でなくても金持ちでなくてもいいから(まあ今の日本でそれは無理だろうし)、どこかにピーターみたいな考えの人いないのかしらん。

 二人が選ぶ関係性、それは、バッハの多声音楽の隠喩をかりて示される。

 解説の横井司氏は、最終章でハリエットがバッハのヴァイオリン協奏曲を聴くピーターを観察する描写に触れ、

 多声音楽の二つの独立した旋律のそれぞれに、ピーター卿とハリエットが重ねられていて、(中略)二人の関係が、どちらかがどちらかに依存するのではなく、それぞれ独立した精神の持ち主として、ともに一つの音楽を(すなわち人生を)紡ぎだしていくことが合意されているのだ。 

(解説より)

 この隠喩はさらに、同じ場面でピーターとハリエットがバッハについてかわす会話でも補強されている。

「ピーター──あれはどういう意味だったの? 和声は人に任せる、自分たちには対位旋律があれば、と前に言ったのは」

「いや、あれは」ピーターはかぶりを振った。「多声音楽のほうが好きだという意味さ。他のことを意味していたと思うんだったら、何のことかもわかったはずだ」

「多声音楽の演奏は大変よ。ヴァイオリンが弾けるだけじゃだめ。音楽家である必要がある」

「この場合はヴァイオリン弾きが二人だ──どちらも音楽家で」

「わたしは音楽家としてはたいしたことなくてよ」

「(略)確かにバッハの曲は、独裁的な巨匠とおとなしい伴奏者の組み合わせでは無理だ。だがそのどちらにせよ、なりたいと思うかね?(後略)」

「音楽家」が「自立した一個の人間」を示し、「独裁的な巨匠とおとなしい伴奏者」が、これまでさんざん二人を苦しめてきた「金持ちの恩人と救われたあわれな女」という関係、「一方が絶対的にもう一方の上に立ち、下位の者は依存するしかない関係」と読めば、二人が真に話していることの内容は明らかだ。

 ピーターもハリエットも、音楽の話をしているふりをして、実は、自分たちの関係がどのようなものでありうるかについてこわごわと語り合っているのだ。ピーターの「他のことを意味していたと思うんだったら、何のことかもわかったはずだ」という一言は、本当に言いたいことの周囲をぐるぐる回りながら言い出さない相手に向かって、そっと差しだしたお手柔らかなひと突きである。

 それに対してハリエットは「多声音楽の演奏は大変よ。音楽家である必要がある」「わたしは音楽家としてはたいしたことなくてよ」としりごみするのだが、ピーターは「この場合はヴァイオリン弾きが二人だ──どちらも音楽家で」「(独裁者と伴奏者の)どちらにせよ、なりたいと思うかね?」ときっぱり否定する。

 このように、ピーターが求めているのは「自立した知性ある人間同士の対等な関係」である、という回答は、さまざまなエピソードや隠喩や台詞の形をとって全編にばらまかれている。ハリエットが書きかけた十四行詩に、ピーターが後半を補って新たな意味を持たせたエピソード。旅先からピーターがハリエットに送ってきた手紙の「いったん取り組んだ以上は、不快であろうが危険であろうが引き返さないのがあなたです。またそうでなくてはなりません」というくだり。まだ事件の起こらないころのピーターとハリエットの会話。鋭い眼を持つディ・ヴァイン女史の指摘。

「自分の戦は自分で戦いたい。わたし──わたし──ごろつきだろうが、匿名の手紙の主だろうが、そんなものにあなたを消されるなんて冗談じゃない!」

 いきなり座り直したため、ウィムジイの歓声は苦しげな唸りに変わってしまった。

「ああもう、絆創膏のやつめ! ……骨があるね、ハリエット。手を取らせてくれたまえ、倒れるまで一緒に闘おう」

(ピーター&ハリエット)

「でもあのかたはなさいませんよ。それがあちらの弱点。代わりにあなたの心を決めてさしあげるようなことは、決してなさらない。ご自分で決断するしかない。自立できなくなるなんて心配することはありません。あちらのほうでいつでも、むりやり自立させてくださいます」

(ディ・ヴァイン女史)

◆推理小説としての『学寮祭の夜』

 そしてセイヤーズの凡手ならぬ腕前に驚嘆するのは、こうして全編にばらまかれた、一見事件とは何の関わりもないように見える、男女の関係と役割、恋愛というものに対しての思考と姿勢と意見が、実は、事件の根幹そのものにかかわっていたことが、最後になって明らかになることである。

 真相を知った状態で再読すると、長大な作品のごく初めから、いかにセイヤーズがさりげなく、周到に伏線を敷いていっているか、一見なんでもない描写に重大な手がかりが隠されていたか、にただため息が出る。

 ピーターとハリエットの恋愛の帰結を描きつつ、恋愛と男女関係というものが本質的に含む矛盾や、愛と呼ばれるものがいかにたやすく歪むか、それがもたらす結末がどんなに悲惨で目をそむけたくなるほど醜いかを、容赦のない筆でセイヤーズは描く。一歩踏みはずせば愛がどのようなものに成り果てるかを、犯人が明らかになる場面で、読者とハリエットはともどもに見せつけられることになる。

 何を書いてもネタばらしになるような気がしてなかなかこれといったことが書けないのだが、たとえなかなか事件が起こらなくても、ピーターが登場しなくても、ぜひハリエットやシュローズベリの人々の人間模様を愉しみつつ、最後までたどり着いて、そして再読して欲しい。セイヤーズの周到な手並みに、あらためて感じ入るはずである。

 恋愛と論理がこれだけ密接にからみあい、双方において重要な主題となっている小説を、私はほかにあまり知らない。戦前に紹介された「抄訳」というのは、いったいどういうものだったのだろうと考えてしまう。『学寮祭の夜』は、すべてのエピソードと描写に周到な作者の思考と作為が編み込まれており、一個のエピソード、一個の台詞を落としただけでも、感触が変わってしまうのではないか。

 愛ゆえに歪み、さまざまな犯行を犯した犯人が人々に投げつける呪詛も悪罵も、ピーターとハリエットによる恋愛と男女関係に対する考察が前提として描かれているからこそ、すさまじく胸に刺さる咆吼として読者の耳に轟くのである。

 トリックと推理と犯人を抜き出して示しただけでは、この作品はさほど込みいった話ではない。それ以外の、「恋愛」と「論理」の密接な絡み合い、「知(あたま)」と「情(こころ)」がたがいに響き合って奏でる対位旋律こそが、『学寮祭の夜』という一個の小説(メロディ)であり、聞き所であるのだ。

 そして、そういった愛の醜さを見せつけられてなお、自立した個々の人間として結びあうことを選ぶピーターとハリエットの姿はこの上なく美しい。

 幸福の象徴のように思える二人の姿だが、まだ、ピーターにはもう一つ、克服しなければならない問題が残っている。ハリエットが『学寮祭の夜』で克服したこと、「受けとることを学ぶ」「気持ちを見せることを恐れない」という壁である。

 それにはもう一冊、最終作となる『忙しい蜜月旅行』が必要となる。長くなりすぎたため今回は割愛した、『学寮祭の夜』のメタフィクション的側面もあわせて、次回最終回は、そのことについて書いてみたいと思う。

五代 ゆう(ゴダイ ユウ)

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 ものかき

 blog: http://d.hatena.ne.jp/Yu_Godai/?_ts=1286988042

 読むものと書くものと猫を与えておけばおとなしいです。ないと死にます。特に文字。

〔著作〕

『パラケルススの娘』全十巻 メディアファクトリー文庫/『クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー』ハヤカワ文庫JA全五巻/『骨牌使いの鏡』富士見書房 等

 書評をしていく予定の本:活字中毒なので字ならばなんでも読みます。節操なしです。どっちかというと翻訳もの育ちですが日本の作家ももちろん読みます。おもしろい本の話ができればそれでしあわせなのでおもしろいと感じた本を感じたまんまに書いていこうと思います。共感していただければ光栄のきわみです。

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