いよいよここまで来た。ほぼ一年かけてなんとか続いてきたピーター卿シリーズ再読、今回は最終作『忙しい蜜月旅行』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、深井淳訳、1937)である。

 なおハヤカワには新訳による文庫版(松下祥子訳 ハヤカワ文庫HM305-1)も存在するが、個人的な好みからあえて旧訳のポケミス版を使うことをお断りしておく。

 まずはいつものように、ストーリーの概略から。

 ハリエットとの長年の恋を実らせ、ついに華燭の典をあげたピーター。うるさい新聞記者や小姑の干渉を避けて、二人はハリエットの故郷の近くにあるトールボイズという古い屋敷でハネムーンを過ごすことにする。

 しかしそこで二人が見つけたのは、屋敷の前の持ち主、ノークスの死体だった。彼は何者かに鈍器で頭を殴られ、地下室の階段の下に倒れていたのだ。運の悪いことに、屋敷についたときにはノークスの死を知らなかったピーターとハリエットたちは屋敷を掃除してしまっており、証拠を見つけるのはまず不可能。蜜月を楽しむために来たはずが、二人はまたもや、殺人事件の渦中にまきこまれることになる。

◆ 戯曲仕立てとコメディと

 セイヤーズ自身の手による感謝の辞にも述べられているが、この『忙しい蜜月旅行』は、もともと戯曲作品として、友人と二人で共同執筆されたものを、セイヤーズがさらに小説作品として書き直したものである。

 戯曲版のほうは未読なので推測するしかないのだが、確かに、全体的にこの作品には舞台劇的な道具立てや会話が目立つ。特にトールボイズ屋敷を舞台にした一連の場面、煙突掃除に来たパフェット氏の描写や、屋敷の居間に入れ替わり立ち替わり人がやってきて会話する運び、後半でオールド・ミスのトウィッタトン嬢の孤独と、ピーターとハリエット夫妻の幸福を二階と一階で対比して見せるところなど、実に舞台的である。

 多少のネタバレになるかもしれないが(気になる人は以下二段落ほど飛ばしてください)、ここで使用されるトリックもまた、実に舞台でやれば映えそうな機械的・物理的トリックである。『本陣殺人事件』とまではいかなくとも、ひとたびスイッチになるものを動かせば、その場にいなくても自動的に作動する機構が相手を殺すシステム。もちろんセイヤーズは周到に複線を引いてはいるが、描かれている犯人の性格からするに、はたしてこんな男がそんな緻密な計算をしてこの大がかりな道具を組み立てるものかしら、とちょっと疑問に思わないでもない。

 そもそもセイヤーズはあまり大仰なトリックを使わない作家で、ちょっとした齟齬や食い違い、すれ違いが重なって謎を構成するミステリが得意である。そのセイヤーズがあえてこのようなトリックを採用したということは、やはり、「舞台において見栄えがすること」を優先したのかもしれない。大仕掛けのトリックは、ピーターによって再演されたとき、きわめて効果的なクライマックスと、カタルシスを同時に演出する。一度、戯曲版をどこかで上演してくれないものかしら、と思うが、それはさておき。

 物語自体も、副題に─推理によって中断される恋愛小説─とあるとおり、新婚のピーターとハリエットのハネムーンに殺人などという異物が闖入してきたおかげで起こるどたばたを、コメディタッチに描いたもの、のように、少なくとも読める。

 まあ確かに、おそらく戯曲版に沿ったのであろう、と思われる部分はたいへん軽くて愉快で(戯曲版をなんとか読んでおくべきだったのだが、間に合わなくて申し訳ない)、ピーターもハリエットも新婚の幸福にすっかりひたっているように見える。またもや殺人にまきこまれたことを心配するハリエットとピーターの会話がありはするが、深くつっこまれるわけではない。事件のほとんどはトールボイズ屋敷で進行し、謎解きのクライマックスはその居間で起こる。脳裏にヴィクトリア朝の屋敷のセットと俳優たちを配置すれば、見事に決まるラストシーンである。

◆ ピーターのための最後の試練

 だが、セイヤーズはただ戯曲をノヴェライズしただけでは終わらない作家である。

 前作『学寮祭の夜』で、ハリエットはついに自分自身のピーターへの恋心を受け入れ、かたくなな自分とコンプレックスを克服した。

 しかし、ここにまだ問題がひとつある。

 それでは、ピーターのほうはどうなのだろう?

 ハリエットとの恋によって、ピーターは変わった。これまでの道化の仮面を捨て、人間であることを身につけ始めた。伯父のデラガルディー氏も、「見せるほどの感情があることを以前ほど恐れなくなりました」と述べている。

 しかし、前作『学寮祭の夜』がハリエットの視点で書かれていたために、実際のところ、ピーターの内面がどこまで変化し、彼が何を感じているのかは、外側に現れた言動からしか読みとれなかった。

 今回、セイヤーズは戯曲版を小説化するにあたって、舞台にのせられた事件部分の前後(特に事件後)を大幅に書き込み、そこにおいてピーターが自分の内に築いていた最後の壁をハリエットの前で脱ぎ捨てるさままでを描ききっている。むしろ、事件そのものより私にとってはその部分こそがこの作品においての読みどころであり、「ピーター・ウィムジイ」がついに本当の人間となったことを象徴するラストシーンは、今後の二人の関係も思わせて、いたましいながらも感動的である。

 思えば、ピーターの今回の事件への関わり方もいつもとは違っている。いつもはピーターは「自分から」好んで事件に首をつっこんでいくのであり(身内が死刑台に上がりそうになった『雲なす証言』はおくとしても)、平穏に過ごしたかったハネムーンの最中に、迷惑にもいきなり殺人事件に遭遇してしまう『忙しい蜜月旅行』は、そもそもピーターの事件へのスタンスからしていささか違っている。

 しかも、今回はピーターはひとりではない。ハリエットがそばにいる。これまで一人でなんでも勝手にやることに慣れてきたピーターは、ついいつものくせで事件に手を出し、心配するハリエットと幾度かぶつかる羽目になる。

「必要はないさ。しかし結局手をつけることになると思う。殺人事件はアルコールと同じように僕の頭に上ってくる。それを止めようとしてもだめなんだ」

「今の場合でも? あの警察の人たちは別にあなたのお手伝いを期待してはいませんわ。御自分の生活をする権利があるときだってあります」

 この時のハリエットはあまり言い争うことなく、「そうですわ、ピーター。おやりなさい。わたしはちょっと女の愚痴がでたの」といったん退いている。この時まだ彼女は自分の理性と感情を一致させることができずにおり、ピーターにも強いことが言えなかったと見える。

 だがのちになって状況は一変する。ある愛すべき人物に強い疑いがかかったとき、ハリエットは思わず「死んだ人は、死んだ人です。生きている人のことを思ってあげなくては」と口にする。だがピーターの返答は冷たい。「真実は捉えなくてはならない。他のことは問題ではないのだ」

 しかしそのピーターの冷酷さもハリエットの動揺の前に崩れ去る。

「ああ、君、そんなに心配しないで、君の言うとおりにする。こんなみじめな仕事は放り出して、もう関係しないことにしよう」

「あなた本気でそう仰言るの」彼女はまだ半信半疑だ。

「本気だとも。はっきりいう」

 ピーターの声は打ちひしがれた男の声だった。自分のやったことの結果を見て、ハリエットは愕然とした。

「ピーター、あなた頭がどうかしてしまったのよ。そんなこと嘘にもいうものじゃありません、結婚の持つ意味は色々あるでしょうけれど、決してそんなものではないわ(中略)

 わたしと結婚したために、仮にあなたが以前よりもあなたらしくなくなったとしたら、これから先のわたし達の生活はどんなものになるかしら」

 この一連のやりとりは『学寮祭の夜』で、多声音楽の比喩を借りて匂わされた二人のあるべき関係を、はっきりと口に出して表現したものだといえる。

「規律のあるのはバンターだけかと思っていたら、そうでもないんだな。君は自分で正しいと感じたことは、どこまでもやり通さなくてはならない。そうすると約束しておくれ。僕がそれをどう思おうと問題じゃあない。そうやってもきっと意見の違いは生れないと、僕は断言するよ」

 彼女の手を取って、荘重にキスした。

「ありがとう、ハリエット。僕たちの愛は名誉も伴っている愛だね」

 この一連の会話によって、『学寮祭の夜』で提示された二人の「結ばれつつも完全に独立し、かつ対等である二人の関係」がもう一度はっきりと示される。

 ピーターは『学寮祭の夜』でハリエットへの手紙に、「いったん取り組んだ以上は、不快であろうが危険であろうが引き返さないのがあなたです。またそうでなくてはなりません」と書いたが、いざ結婚し、目の前でハリエットの動揺を見せつけられると、思わず感情に流されて、自分の意志を枉げようとする。しかしハリエットはその間違いに気づいて愕然とし、きっぱりとその過ちを正すのである。

 そして物語の最後の最後、いよいよ犯人の死刑が近づいてくる日々が、「人間ピーター・ウィムジイ」誕生のための、最後の試練となる。

 人当たりのよいピーターだが、バンター(と母の前公爵夫人)以外の誰かに心を開くことは実はほとんどない。事件のあと、いつもシェルショックの再発に苦しみ、神経症の発作に襲われては猛然と車を走らせたり、外国へ飛び出していってしまったりするピーター。それはシリーズ当初から示されていたピーターの繊細な心が持つ、「趣味としての推理の興奮」と、「自分の手でひとりの人間を死刑台に送ることになる罪悪感」との、相反する気持ちの衝突から来る。

 だが、いままで、忠実なバンター以外の人間にそれを見せることはなかったし、愛するハリエットにさえ、気分が悪いと謝る程度で、けっして自分の弱い部分を見せようとはしなかった。

 だが、ふたつの対等な心がほんとうに対等であろうとするなら、その弱い部分をも含めて見つめて受け入れ、愛し、愛されなくてはならない。ピーターはいまだに自分の真の気持ちを他人に見せることを──たとえハリエットにでさえも──怖れている。ピーターが最後に越えなくてはならないのはこの怖れ、自分の弱さを他人に見せたくないという、ここまで来ても強固に守りつづけてきた、最後の壁の一枚である。

 この問題はピーターひとりのものであり、ハリエットはただ彼が自分から壁を踏み越えて自分のところへきてくれるのを待つしかない。もし彼女が手を出せば、二人の間に築かれたもろい均衡は崩れ去り、ピーターの壁は永遠にそのままになるだろう。

 犯人の死刑の前夜、帰ってきたピーターを、ただひたすらにハリエットは待つ。

 わたしの方から行ってはいけない、彼の方からこちらへ来なければ。もし彼が、わたしを必要としなければ、わたしは失敗したのだ、この失敗は二人の一生について回るだろう。しかし、この決断の一歩は彼のとるべきもので、わたしの方からとるものではない。わたしはただそれを受けることしかできないのだ。辛抱しなくてはならない。どんな事がおころうと、わたしの方から行ってはいけない。

 そしてついにピーターはやってくる。ためらいながら、だが自分の意志で。

「君にもひどい迷惑をかけたね。すまない。馬鹿ないい方だが、僕は忘れていたんだ。何しろ今までずっと一人きりでくらしていたので」

「そうね。わたしも同じようなものだわ。わたしは這い出してどこかの片隅に隠れたいの」

「そうだ」一時彼本来の輝きをとりもどして、「君は僕の入る片隅だよ。僕は隠れに来たのだ」

「さあ、どうぞ」

(中略)

 まったく突然に、彼が叫ぶ。「ああ、駄目だ」そして泣き始めた──はじめはおかしな馴れない調子で、それからもっとすらすらと。ハリエットは膝のところにうずくまった彼を胸にしっかり抱きしめてやった。頭を両腕でかかえ込んで、時計が八時を打つのが聞えないように。

 これまでピーターはけっして自分の傷ついた心の内を誰かと分かち合うことはなかった。もはや彼の一部ともいえるバンターは別としても(そもそも彼がもっとも酷い状態にあったときにやってきたのがバンターなのだから──その逸話はこの作品内で語られているが──今さら隠す必要もないというものだ)、そのバンターの前でさえ、涙を見せることはけっしてしなかっただろう。

 しかし今、彼は傷ついた心を抱きしめてくれる相手を見つけた。「僕の入る片隅」を見つけ、そこに入って泣くことを覚えたのだ。

 強さと弱さをあわせ持ち、揺れ動く繊細な感情と知性、そして涙を流すことのできる心──そのすべてをためらいなくさらせる相手。ここについにピーターとハリエットの恋は本当の意味で成就し、互いは互いを真の意味で抱きしめあうことができたのだと思う。

 それはピーター卿という「お人形」から最後のおがくずの一粒が叩き出された瞬間であり、「人間ピーター・ウィムジィ」が、ついにしっかりと両脚で立った瞬間でもあるのだ。

◆ 最後にひとつだけ、おまけを

 最終回ということで、ちょっとだけ、どうでもいいようなおまけを。

 最終章で母前公爵夫人がいるダワー・ハウスへやってきたハリエットが、前公爵夫人といっしょに陶器を眺めているシーンがある。

「この絵はセアラ・ウィムジーが描いているのよ。(中略)この頃は白の素焼きのまま素人で絵の好きな人に売って、絵を描いてから工場へ戻して釉をかけて焼いたのです」

 と前公爵夫人が説明しているのだが、シャーロット・マクラウド『下宿人が死んでいく』には、謎の下宿人のあとをつける主人公セーラ(!)は、その途中でふと陶器工房に立ち寄り、前公爵夫人の口にしているような、素焼きの陶器と絵付けの道具を買っているのである。この買い物は別に後の話に関係してくるわけでもなく、まったくのお遊びエピソードとして挿入されたとおぼしい。

 マクラウドはセイヤーズの評伝も書いており、セイヤーズ・ファンなのは確実。個人的にミステリ界でいちばん可愛いヒロインであると思っているセーラが、もしかしてこういうところから出てきたのかしらと考えると、とても楽しい。先年亡くなったマクラウド(アリサ・クレイグ名義もあり)だが、コージーなユーモア・ミステリ好きには、たいへんおすすめしておく次第である。

 それではやっと完走したセイヤーズとピーター卿の読解、お付き合いありがとうございました。またいつか、なにかで出てきましたら、覗いてみてやってください。

五代 ゆう(ゴダイ ユウ)

20101025153401.jpg

 ものかき

 blog: http://d.hatena.ne.jp/Yu_Godai/?_ts=1286988042

 読むものと書くものと猫を与えておけばおとなしいです。ないと死にます。特に文字。

〔著作〕

『パラケルススの娘』全十巻 メディアファクトリー文庫/『クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー』ハヤカワ文庫JA全五巻/『骨牌使いの鏡』富士見書房 等

 書評をしていく予定の本:活字中毒なので字ならばなんでも読みます。節操なしです。どっちかというと翻訳もの育ちですが日本の作家ももちろん読みます。おもしろい本の話ができればそれでしあわせなのでおもしろいと感じた本を感じたまんまに書いていこうと思います。共感していただければ光栄のきわみです。

●AmazonJPで五代ゆうさんの著作を検索する●

【エッセイ】五代ゆうの偏愛おすすめ録【不定期連載】バックナンバー

●「五代ゆうの ピーター卿のできるまで」バックナンバーはこちら