探偵小説とテクノロジー、あるいは疎外された名探偵

 当編集室ではミステリや海外文学の紹介企画のほかにも、数は多くありませんが、文化史、文学研究などの人文書にも力を入れています。一回お休みを頂いているあいだに専念していたのが、おもに19世紀西欧の文学と美術をとりあげたワイリー・サイファー『文学とテクノロジー』(野島秀勝訳、白水社、6月刊)。産業社会の醜悪さに背を向け、「芸術のための芸術」を標榜していた世紀末唯美主義者もふくめ、19世紀欧米の小説家、詩人、画家の多くが、実は彼らの忌避したテクノロジー思考に骨がらみ毒されていたことをあばいて、スケールの大きな「近代」批判を展開した問題の書です。

 この本、探偵小説のことには一言も触れていませんが、シャーロック・ホームズ譚をはじめとする19世紀探偵小説を考える上で、大きなヒントを与えてくれているように思います。サイファー先生によると、19世紀後期の作家たちを支配していたのは「方法」と「理論」でした。ゾラなどの自然主義作家は小説に科学的正確さを求め、ポーやマラルメは全てを計算し尽くし、作品から一切の偶然を排除しようとしました。亡くした恋人を想うロマンティックな詩「大鴉」が、いかに計算ずくで厳密に作られたものであるかを自ら明かしたポーのエッセー「構成の原理」は、自己宣伝めいたハッタリが多分に含まれているにせよ、彼の「方法」を如実に示しています。(結末から理詰めに逆算していくその創作法は、「モルグ街の殺人」などの探偵小説にもぴたり当てはまります)

 デュパン、ルコック、ホームズなど、19世紀探偵小説の主人公たちは、繰り返し彼らの「方法」、探偵術を誇らしげに語っています。彼らにとって探偵とは一つの科学であり、彼らは科学者のように事実を収集・観察し、分析することによって唯一の正しい答えを導きだすのです(さしあたり『緋色の研究』第2章「推理の科学」をご参照ください)。サイファーの言うように、19世紀が「方法」の時代だとするならば、探偵小説こそその典型、もっといえば方法と理論に憑かれた「近代」そのものと言ってよいのではないか。高山宏氏の「殺す・集める・読む」(創元ライブラリ、同題書に収録)は、この『文学とテクノロジー』を手掛りに、ホームズ探偵譚をより大きな文化史的文脈のなかで読み解いた、「探偵小説」とは何かを真面目に考えようとする方には必読の名エッセーです。

 詳しい議論はサイファー本に譲りますが、正確な観察を保証するのは対象との距離であり、たとえばホームズが十全な観察を行ない、これを客観的に分析することができるのは、彼が世界の外側に立っているからに他なりません。ここで「疎外」という問題が出てきます。「観察すること、相手を対象化してこれを「読む」行為には、まず対象との距離が、相手をもの(オブジェ)として見る視線が大前提であるということだ。世界から疎外されていればいるだけ、従って世界を細密に読むことができる」(「殺す・集める・読む」)。

 対象との距離を失えば、客観的な観察・分析は不可能になる。多くの名探偵が恋愛感情を遠ざけ、推理機械に徹しようとするのはこういうわけです。(したがって、恋に堕ちた探偵はしばしば致命的な失敗を犯します。フィリップ・トレント然り、マーク・ブレンドン然り)

名探偵は世界の外に立つことによって、全てを見通す神の如き視点を得ますが、それと引き換えに世界から疎外されていく。こうした構造をサイファーは近代を蝕む病として厳しく批判し、世界への「参加」の必要を説いています。20世紀の文学・美術は、「方法」の呪縛をのがれて「参加」への道を様々に模索していくことになりますが、面白いことに探偵小説の世界でもそれと併行するような動きが起きています。たとえば解決の絶対性に揺さぶりをかけるアントニイ・バークリーの実験がありますし、謎→推理→解決というベクトルをさらに謎=混沌の側へとねじ戻す、ある種の幻想ミステリも、そうした文脈でみることができるでしょう。本格ミステリの代名詞ともいうべきエラリイ・クイーンの40年代以降の作品、事件を「誤読」して致命的な過ちを犯し、自分が「機械仕掛けの神」でしかなかったと気づく衝撃的な展開とその後の苦闘も、名探偵の世界「参加」という視点から読み直してみたい誘惑にかられます。

 しかし、対象との距離を前提とするホームズのアンチテーゼとして、真っ先に思いつくのは、G・K・チェスタトンのブラウン神父でしょう。『ブラウン神父の秘密』で、アメリカ人の客人から「組織的方法の有無」を問われた神父は、「わたしには方法がない」と答えます。それではいくつもの謎を解いてきた神父の探偵法とは何なのか。かさねて問われて神父はついにその「秘密」を明かします。「あの人たちを手にかけたのは、実は、このわたしだったのです」。

 心の中で自分が犯人になって計画をめぐらし、どういう状態ならああいったことが実際に起きるのかを考え抜き、自分の心が犯人とまったく同じになったとき、犯人が誰だかわかる——これはホームズの方法とはまったく逆で、対象との距離をゼロにし、犯人に「なる」ことによって事件の謎を解く。いや、解くというより、おのずと真相が明らかになる。「探偵科学」を云々し始める客人に向かって、神父はこう反論します。「探偵法が科学だというのはどういうことです。・・・それは人間を内側からでなく外側から吟味することです。でかい昆虫か何ぞのように。そして偏見をまじえぬ冷厳たる光とかいうものに照らして研究しようというのだが、そんなものはわたしに言わせれば非人間的な死んだ光にすぎん」。

 ここにあるのはまさしく痛烈なホームズ批判にほかなりませんが、それはそのままサイファー『文学とテクノロジー』の議論とぴたり重なります。探偵小説という「19世紀が生んだ発明品」を理解するための刺激的な一冊として一読をおすすめいたします。

藤原編集室(ふじわらへんしゅうしつ) 1997年開室、フリーランス編集者。《世界探偵小説全集》《翔泳社ミステリー》《晶文社ミステリ》《KAWADE MYSTERY》と翻訳ミステリ企画をもって各社を渡り歩く。来月から新シリーズ「高山宏セレクション《異貌の人文学》」(白水社)が刊行開始。続刊のホッケ『文学におけるマニエリスム』、シューエル『ノンセンスの領域』も、探偵小説をもっと大きな視野から捉えなおすのに有益なはず。ツイッターアカウントは@fujiwara_ed

本棚の中の骸骨:藤原編集室通信